第5話 体はひとつにならない
「あい……?」
そうして不可解そうに首をかしげる男の反応は、ある意味予想通りだった。
彼はその言葉の意味が理解できないと言いたげに眉根を寄せる。すこし色素が薄い玻璃のような瞳がゆらゆらと動いた。光を通したような虹彩の動きは、明らかに困惑を露わにしている。
にこり、とイナサは口元を曲げて笑った。
「ライクとラブの愛してるだ。ナライは、俺のことが好きだよな?」
ああ、とうなずいたナライは、その場に立ち尽くした。
「じゃあ愛してるか?」
「……」
イナサの問いかけに、ナライは苦虫をかみつぶしたような顔をした。無表情が崩れ、喉元に迫り上がる言葉をこらえているようだった。
「ナライ?」
意地悪く追い打ちをかけるように、どうなんだとイナサは問う。
すぐにイエスが来ないことは、ある意味イナサの予想通りだった。
けれどそれ以上にナライが戸惑っているのは意外だった。この言葉にひどく警戒感を示している。
「……イナサ、それは、答える必要があるか?」
やがて目を伏せたあと、ナライはようやくそんな言葉を絞り出す。
「お前にとって必要なら、答える。けれど、すぐには無理だ」
その言葉にイナサが目を丸くすると、言葉が少ないと思ったのか、ナライはすまないと続けて口を開いた。
「俺はお前ほど、きちんと感情を言葉にできないと思う。お前の言葉は本当に豊かで、俺はいつも言葉が足りない。だから、ちゃんと言えないと思うから」
玻璃のような瞳は、古いガラス細工のように美しい。まっすぐにイナサを見つめる視線は、博物館で飾られる遺物のように変わらなかった。
ガラスに光がとおり、透けて見える眩しさに、イナサは表情の作り方が分からなくなる。
「……俺は嘘ばっかりで、どうでもいいことしか言わないよ。そうだろ?お前はいつも誠実なんだ」
裸のまま身を抱えたイナサは、ナライから視線をそらし、久しぶりに言葉を探した。
しかし、そんなことはない、とナライは首を振る。
「お前は博識で、とても豊かな人間だ」
「……ほめちぎってどうするつもりだ?ナライ兄ちゃん?俺の質問をなかったことにするつもりじゃあないよな?ごまかされないぞ、俺は。ナライのありがたーい情熱にあふれた言葉をいくら積まれてもな!それとも俺の減らず口を怒るのか?無理だよそれは!だって俺には口がついてるんだ」
イナサは早々に耐えきれなくなって、そうやって口を開いた。にやにやと笑って茶化すと、ナライは申し訳なさそうに首を振る。
「お前の言葉は、とてもたくさんある。でも俺は少ないから」
きちんと伝えられない、と相変わらずきちんと断りを入れるナライに、イナサは鼻白んだ。
「愛してないってことでいいか?あーあ、とっても残念だよ。お前が俺のことをそんなにどうでもいいと思っていたなんて。やっぱり俺が飲んでいたのはポツダム宣言じゃないかもしれないな。あんなひどい講和条約を飲んで大敗北なんて俺の間違いだったかな?」
「ちがう。そうじゃない。俺は、そんな」
すこし焦ったナライが、いつものように率直に答えようとして、口をつぐんだ。
ナライは無言でイナサの隣に腰かけると、食べろと白い陶器を差し出す。スプーンの入れられた椀からはわずかに湯気が上っていた。
困ったようにうつむく男に、イナサはにやりと笑って近づいた。
彼の膝の上に手を置いて下から覗き込むと、ナライはじっとしたまま、落ち込んだ様子でイナサを見返した。
「ならーい?どうしたんだ?どうして困るんだ?素直に答えていいんだぞ?俺は怒らないよ。知ってるだろう?」
ああ、とかすれた声でうなずいたナライは、抱えた苦しみを思い出したように重い息を吐いた。
「お前は怒らないが、逃げる」
「おいおい。人聞きが悪いな、ナライ兄ちゃん。いつ俺がお前から逃げた?こうしてばったり会ってしまうだろう、俺らは。友人と連絡が取れなくなることはよくあることだ。俺たちにあるのも、そのよくあることが来ているだけだよ。本を読んでいると時間を忘れて、返信を忘れてしまうんだ。そういうことだよ」
そんなのはもちろん嘘だった。
イナサはいつも耐えかねてこの男の前から逃げ出す。
男のひとは、電車のようなの、と大学のときに付き合っていた彼女が言っていた。
だからこそ、イナサに『各駅停車か急行かどっちかしら』とすこし不安げに問うてきた。
彼女は付き合う相手の入れ替わりが激しかった。イナサと付き合っている間も他の男と会っていたのをイナサは知っている。もしかしたら寝ていたかもしれない。そこまでは把握はしていなかったが、イナサも大学時代にナライに抱かれていたので、彼女のそういう奔放さには目をつぶっていた。
自分の前を、ゆっくりと進む人間は各駅停車。体だけの関係ですぐに消えていく男は急行列車。イナサが彼女にとってどっちらだったのかはわからない。
彼女の言葉を借りるなら、ナライは様々な路線が入り乱れる主要駅だろう。あまり路線を選ばずともそこに行けるし、どこからでも逃げやすい。
「……俺は、お前のいない人生を、生きては、いけないが……」
ナライは考え込むようにそう口にし、やがてゆるりと首を振った。
「いや、やっぱり、すぐには答えられない」
ナライはそう言って、バスタオルを手繰り寄せた。髪に残る水気を拭おうと、そっとタオルで頭をなでる。
「お前が必要と言うなら、ちゃんと答えるから、時間をくれ」
そうして頬を撫でたナライは、そっと頬に口づける。かさついた唇が吸い付いて、イナサはうつむいた。
「……答えられないのか?いま」
ナライの慎重な態度に、イナサは固い声で問い返した。
「本当に、お前は俺の知ってるナライじゃないな。昔はなんでも口にしたのに」
今は、イナサにはナライがわからない。
あれだけ近くにいて、今もこうして触れ合うほど近くにいるのに、イナサはナライの心の内がわからなかった。
「……今更だ。お前は俺のなにを知ってる?」
イナサはにこりと笑って顔を上げた。
「セックスがしつこい」
「お前も楽しんでるだろ」
呆れたような顔をしたナライに、当然だろ、とイナサはうなずいた。
「ショパンが好きだよな。本当に音楽の趣味が合わない。あと、バイオリンが弾ける。いい加減ジブリは見たか?人生のメリーゴーランドくらい一緒に弾けるようになってくれ」
「……見てない」
その回答に、イナサは肩をすくめた。
「あとは、そうだな……本の趣味は同じだよ。赤川次郎は途中で読み飽きてたな」
「展開が同じすぎる」
「それは俺もそう思う。でもあれがいい人間はいるんだろうなあ。俺は当時はできるかぎり読んだ。あれからどれだけ増えたかな。あで始まる作家と言えば、愛川晶は面白かったな。京極夏彦は時間だけが消えるけど、傑作が多い」
「あれの8割は文章表現だ」
「でも美しい言葉が詰まってる。あとは狂気も。英語が苦手だよな。ルイ・アームストロングはよくわからないって言ってた。お前が初めて手を出してきたのは、俺がラヴィアンローズをピアノで弾いているときだったよ。最低だな、ナライ。なにがお前の琴線に触れたんだ?」
「……」
「お前は都合が悪くなるとすぐ黙る」
「お前は鈍い癖にうるさい」
はは、とイナサは笑った。そしてナライの肩に頭を押し付け、目を閉じた。
「それだけだよ、俺が知ってることなんて」
イナサがぽつりとつぶやくと、ナライの大きな手が背中を労わるように撫でた。
「悪かった」
「ハハハ、どうして謝るんだ?俺はお前のことなんて、なにもわからないよ」
明るい声を出しながら、イナサはゆっくりと目を開けた。
「……でもべつに、お前にひどいことをしたいわけじゃない」
イナサはナライの膝の上に乗り、彼を上から見下ろした。
「……イナサ、」
支えるように腰の後ろに手を回したナライに、イナサは微笑んだ。
ナライの頭をなでて、やさしく額にキスをする。
「ナライ、俺がいないとだめだなんて言わないでくれよ」
ひどく空虚に響いた言葉は、部屋の中を上滑りしていった。
けれどそれは、心の底からイナサがナライに願うことだった。
「愛なんてないと言ってくれ。わからないでもいいよ。俺は予想できてた。お前がなんていうのかなんて。お前はきっと、『そんなこと考えたこともない』って言うと思ってたんだ」
なのに、ナライはそう答えてくれなかった。
ひどく慎重に、考えると言う。
「……イナサ、俺は」
眉根を寄せたナライが難しいことを聞いたように顔をしかめた。
目元に寄せられた皺を散らすように、イナサはナライの目元を撫でる。
「いいんだよ、ナライ。お前は我慢する必要も、考える必要もない。そうだろう?ずっとそうだったじゃないか。お前はただ自由であればいい。お前はおまえであるだけで、それですべてが正しいんだよ。音楽だって好きに弾いたらいいじゃないか。先人の真似をするだけのコンクールに、一体どれだけの価値がある?」
「……それは、いつもお前が言っていた」
もちろん、とイナサが目を細めると、ナライはイナサの手首を握った。
「お前がそれを初めて言ったのは、いつか覚えているか」
その問いに、イナサが目を丸くしたとき。
ポーン、と部屋に響き渡る音がした。
一体なんだ、とイナサが顔を上げると、ナライはすぐに表情を消した。いつも通りの無表情にイナサがこてりと顔を傾けると、ナライはイナサを持ち上げてソファに置いた。
「服を持ってくる」
「ナライ?」
慌ただしく立ち上がったナライは他の部屋に消えて行ってしまう。
一体なんだ、とイナサが首をかしげると、がちゃりとドアが開かれた音がリビングまで響いてきた。
「みなみくん?いないの?」
ああ、先ほどの音はインターホンだったのかとイナサは女の声を聞きながら気づいた。
廊下の軋む音を聞きながら、イナサは念のため大きなバスタオルを肩までかけ直す。
「みなみくん?」
そうして顔を出した女性は、ソファの上で丸まるイナサを見て、目を限界まで見開いた。
「こんにちは」
イナサはいつもそうするように、にこやかに挨拶をする。
彼女は黒い髪を肩まで伸ばした大人しそうな女性だった。スミレ色の柔らかな色合いのワンピースを着て、春用の薄手のコートを着ている。首元と耳には小さな真珠がぶら下がっていた。
全体的に品の良い姿をした女性は、唖然とした表情をして、手にしていた紙袋を落とした。
彼女からしたら、正体不明の人間がいきなり裸のままソファに座っているのだ。不審者以外の何物でもない。
(修羅場ってやつかあ~?)
ナライの友好関係で、この手の修羅場は起こしたことがない。
どういう罵倒が、あるいはどんな言葉が飛んでくるのだろう、とイナサはすこし浮足立った心でにこやかに彼女の言葉を待った。
「えっと……」
困惑を顔に乗せた彼女は、どうすべきか迷うように口元を手で覆った。
黙り込んでしまう彼女に、イナサはとうとう我慢できなくなって、ハハハ、と笑ってしまった。
「困り顔をするところじゃないと思いますよ、お姉さん。どうするんですか?俺が空き巣だったら?この家の住人を殺してシャワーを使ったあとだったら?あなたの大事な人は、すでに物言わぬ死体になっているかも」
イナサがそう言ってしまえば、彼女はすぐに青ざめてしまった。
素直なところが面白い、とイナサがさらに言葉を重ねようとすると、上からずぼりと何かをかぶせられた。
「お前が俺に敵うわけがないだろう」
ひどく冷静にあきれを滲ませていった男が、そのまま布をかぶせる。
イナサは服から頭をだして、ぷは、と息を吐いた。
じろりとナライを見上げて、イナサは服に腕を入れる。
「お前は本当に雑だ!俺はそういう話をしてたんじゃない。ただ防犯の必要性を語ってただけだ。部屋に見慣れない人間がいたらまず警察に通報だろうが!俺があやしい人間だったらどうするんだ!?」
「俺がよく知ってるからあやしくない」
そうじゃない、と喚くと、彼女のほうから、あの、と困惑したような声がかかった。
イナサとナライが振り向くと、彼女はやはりどうしたのかという顔をしながら、ナライに視線を向けている。
「みなみくん、その……」
「どうしたんだ、今日は」
少々ぶっきらぼうに聞こえるナライの声を聞きながら、なかなか腕を通せないイナサは、渡された明るいミントグリーンのフード付きのトレーナーがかなり大きいことに気づいた。ようやく手を出してもぶかぶかで、指先しか出ない。
「えっと、近くに来たから、差し入れと、忘れ物、とりに、来たんだけど……」
イナサに視線を向けた彼女は、そのまま言葉を切った。
「……どちら様?」
幾分硬い声にイナサは手を振り、友人です、と答えた。
「彼にパーカーと風呂を借りるぐらいには仲のいい友人です。お邪魔してます。つーかこれ、サイズすげえでかいんだけど?お前の服だろう、これ。なんだ?自慢か?兄ちゃん、俺の服はどこに行ったんだよ。もう俺は帰るぞ」
「洗ってる」
「じゃあズボン貸してくれ」
ん、と手を差し出すと、ナライはそのままイナサにフードをかぶせた。
「食事をして寝なさい」
「ハハハ、嫌に決まってる。この問答も何度目かな?つーか、先にこっちじゃなくてあっちを優先しなさい!お前はそんなこともわからなくなったのか?信じられない!女の子を優先しろって教えたろ!?」
はあ、とため息をついたナライは、少々億劫そうに、彼女に視線を向けた。
「忘れ物って?」
「えっ、あの……」
彼女はイナサとナライを交互に見やり、やがてナライに視線を向けた。すこし縋るようにも見える視線に、イナサはふうんと手のひらに顎を乗せる。
「……ネックレス、なんだけど」
「見てない」
全部持っていっただろうと簡潔に答えたナライに、イナサは息を吐いた。
「もうここに、君のものはない」
そう言い切ったナライに、彼女はあいまいに笑い、やがて顔をそらした。
「そんなことないと思うの。だってないのよ。大事なネックレス……アメジストの宝石のついたものなの」
彼女は顔をそらしたまま言葉を切り、ちらりとイナサに視線を向けた。
「……ねえ、本当は、他に好きなひとができたの?」
震えた語尾にイナサが片眉を持ち上げると、彼女は唇を噛み、うつむいた。
「今度はそのひとと?」
引きつり笑いの混じった声に、イナサはハハハ、と声を上げて笑った。
そして我慢できなくなり、イナサは口を大きく開けて笑う。
「おいおいナライ、どういうことだ?今度は俺と?俺とぉ!?おいおい、どんな悪夢だよ、ナライ!!ハハハ、ポツダム宣言は撤回する。今日は俺の大勝利だ。領地焼け野原になってないな。今日はもう閉店だ。酒でもいっぱいやろう」
笑いながらソファに倒れたイナサに、ナライはわずかに顔をしかめた。
「空きっ腹に呑むのはよくない」
「いや、今日勝利の美酒を味わわずにいつ味わうんだ?いいことは分かち合うべきだよ。そうだろ?」
あなたもどうだ?と、イナサはソファの上で身を起こして、立ちすくんだままの彼女に問いかける。
「俺との未来なんてもんはないよ、お姉さん。よく見てくれ、俺は男だ」
にこりと笑いかけると、彼女はじっとイナサを見返した。
「この男は、とても誠実で真面目な男だ。軽々しく疑うべきじゃない。彼は彼であるだけで、それですべてが正しいんだよ。たとえあなたがそれを知らなくても、高校のときからの友人である俺は、誰よりそのことを知っているのさ。だから彼に悪意を向けるのは間違ってる」
イナサは肩をすくめた。
「まあ、こいつは本当に不器用だし、俺と違って口下手だし無口だけどな。俺が煩いのかもしれないけど!でも、彼のやさしさは疑うべきじゃない。この男は正しいんだから」
そう、と彼女はつぶやいた。
それは吐息をこぼしたような、ちいさなつぶやきだった。
「最初から、違ったのね……」
彼女は身を翻してキッチンへ向かった。
そしてすぐに戻ってくると、手にしていたカップをイナサに向けた。中身をかけようとした彼女の前に、すぐにナライが立ちふさがり、ばしゃりと中身をかけられる。
その行動に、イナサは唖然として口を開けたまま呆けた。
「な、なら、」
イナサは反射的に立ち上がり、ナライの肩を掴んだ。
「ナライ!?おい、なに、大丈夫か!?」
ちらりとイナサに視線を向けたナライは、ぽたぽたと顎から水を滴らせて、イナサを押しとどめた。
がちゃん、と音がして床に目を向けると、クリーム色をしたカップが床に落ちて割れていた。
彼女が投げ捨てたのだろうということにイナサは目を丸くして、顔を歪めた。
「ねえ、わたしのこと、本当に好きだったの?」
震えた声に、なにを言っているのかと、イナサは眉根を寄せる。
「ああ」
「じゃあどうして、そのひとのこと教えてくれなかったの」
責めるような響きは涙が滲んでいた。
イナサは思わず、ナライに視線を向けた。この男は、イナサのことを言っていなかったのかと、首をかしげる。
「そうしたら、私……」
「こいつのことは、君には関係がない」
ナライは低い声でそう言い切った。
「……どうして」
「どうしてとは?」
泰然自若とした態度に、彼女は耐えかねたように、おかしいでしょう!と叫んだ。
「あなた、私にはそんな顔はしなかったのに!そんなに仲がいいなら、どうして私には紹介できなかったの?私にはひとことも、そんなこと言わなかった!」
「それは……」
「そのひとが、好きなひとだからでしょ!!」
悲鳴のような金切り声に、イナサはぽかんとした。
「お義母様が言ってたわ。すごく仲のいい子がいて、いなくなってしまったらひどく落ち込んだって。あなたそれで、体調崩して、救急搬送されて、入院したって」
そのひとなんでしょう、と彼女はこらえきれずに、ぽたりと涙をこぼした。
「…………え」
しかしイナサは、短い言葉の中に混ざった情報に、ぽかんとしてゆっくりと目を瞬いた。
イナサが話すよりもずいぶんと短い言葉の中に、なにかひどく重いものが混じっている。彼女の話した音に、イナサはどすりと重しを落とされた気分になった。
掴んでいたナライの肩から手を離すと、ナライがくるりと顔を向けた。
「イナサ」
小さく名前を呼ばれ、出ていくなと言われていると気づく。離れようとしたことばかり気にするナライに、イナサはそんなことを気にしてる場合じゃないだろうと、音もなく笑った。
(本当に困ったやつだよ、お前は)
イナサは小さく息を吐くと、ソファの上に立ち、ナライの首に後ろから腕を回した。
肩に顔を乗せ、目を細めてうっとりと笑う。陶酔したような蠱惑的な笑顔は、他人を誘惑するのに造り慣れていた。
けれど、ナライはそんな誘惑をするまでもなく押し倒してくるから、こんな顔は作ったことがない。ナライとのセックスは鬼ごっこの延長みたいな、遊びに似ている。
「なんだ、ナライ、俺のことがそんなに好きだったのか?」
頬を指先で撫でると、ぽたぽたと水を滴らせたナライが、イナサに視線を向けて目を細めた。
いつもそうだ、と返してくる反射はさすがにない。ここでそんなことを答えれば、目の前の彼女に火に油を注ぐだけだとわかっているのだろう。
その目論見はおそらく外れているので、イナサはちゅ、と首筋にキスをした。
「じゃあいいことするか?俺は自信があるぞ。少なくともそこいらの女よりは、いい思いさせてやるよ」
そうして笑いながら抱き着き、ちらりと彼女に視線を向ける。
「見られながらするか?よくお前は俺がしてるの、見てたもんなあ。俺は別に構わないぜ。興奮するし、ギャラリーがいると張り切っちゃうかもな」
あまえるようにうっそりと笑えば、彼女はか、と頬を染めた。
「……最低!」
「ネックレスを探すんだろう?お姉さん、これからだよ、いいところは」
彼女はくるりと背を向け、もう捨てて、と言い切った。
そしてそのまま、入ってきたときと同様、静かに出ていく。
ばたん、と乱暴にドアが閉められてから、イナサは呆れた顔をした。
「おいおいナライ、お前はえいっえんに、へたくそだな。なんだ、俺がいないとダメダメか?何歳なんだお前は。いい加減、こういうことぐらいできるようになれよ。自分、不器用なんで、が通じるのは高倉健だけだぞ」
「……そうだな、俺はお前がいないとだめだ」
その言葉にしまった、とイナサはナライから離れようとした。慌てて腕を外して離れようとしてバランスを崩し、膝から崩れ落ちる。ナライはそのまま器用にソファの上にイナサを押し倒した。
大きな筋肉質の体がイナサの上に覆いかぶさり、逃げ道を塞ぐ。
イナサはこの体勢で、薄暗い中、目の前の男が裸だった光景が脳裏によぎった。昔よりも鍛えられた体が自分の上にあり、無表情な男がひどく獰猛に笑っている。
おそらく昨夜の記憶なのだろう。イナサは思わず顔をしかめた。
「どけナライ!」
「いいことしようと言ったのはお前だろう?」
「なんて言い草だ!俺は兄ちゃんが困りに困って言葉をなくしているのに見かねて助けてやったのに、俺の親切心をお前はなんだと思ってるんだ?見損なった!絶交だ!さあどけ!俺は帰る!」
く、とナライがのどを震わせて、おかしそうに笑った。
その拍子に、ぽたぽたとナライから水が滴ってきた。
「平和条約を結んだだろう。それと、ズボンは履いてないから帰れない。不審者になる」
「……楽しそうだなあ、ナライよ。お前、ろくでもない友達がいる話になって、女にフラれたっつーのに。おまけに水もかけられてまあ。水も滴るいい男ってか?まあ、俺はろくでなしなのは間違ってないけど」
「お前は変わらない。いつも俺を助けてくれる」
それがうれしい、とナライは目を細めた。彼は手首をさすり、指先を絡める。うれしそうに額に頬ずりをした男は、なぜか上機嫌だ。
「……俺たちは、同じ細胞だったらよかったな。溶けて一緒だったら、手をつなぐ必要もないし、セックスもしなくていい。こうして言葉を交わすことだってしなくていいのにな。この心臓を、お前にやれるなら喜んで差し出したのに」
イナサも指先を絡めながら、すこし残念に思ってそうつぶやいた。
イナサもナライもどうしようもなく違う人間で、ふたりでしかなかった。
手をつながないとそばにいれないし、体をつなげないと快楽を共有できない。
必死で言葉を交わして、分かり合おうと努力しないと一緒にいれないのはひどく面倒だ。イナサは手をつないでも、そういう機能もないのに無理やり体を重ねても、ナライのことがわからないというのに。
いっそ考えていることが話さなくてもわかるのであれば、これほど面倒に思うこともなかっただろう。
でもイナサとナライは違う生き物なのだ。どれだけ一緒にいても、同じにはなれないし、混ざりあうこともできない。
(俺がいなくなったあとのことは、俺は知らない。知らないほうがよかった)
イナサが逃げてこの男が本当にだめになるなんて、同じ生き物なら、そんなこともなかったのに。
「俺と同じ生き物なんて、必要ない」
ナライがそう言い切ったので、イナサもそりゃそうだ、とうなずいた。
自分のように死にたいとばかり考えている生き物なんて、二匹もいらない。そんなのがいたらうっとおしすぎて殺してしまうかもしれないと、小さく笑った。
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