第4話 眉では息ができない

「お前ら、また二人かよ」

その声に、イナサはふ、と意識を取り戻した。

「静かに」

誰かの気配を感じて、起きないといけないのだろうかとぼやけた頭で悩む。

けれど体も重いし、瞼も重い。動かない瞼からたしかに光は感じるのに、イナサの体は動かなかった。

その体の重さは、わずかな心地よさすら感じられるほどだ。自分の意志でどうにもできないような気怠さがある。体の肉以外に、腹でも割いて石が詰められたようだ。あの狼は、きっとこんなふうに動くのが億劫だったのだろう。

イナサは取り戻した意識を揺らめかせさせながら、頭のなかでぐちゃぐちゃに動く音符を並べ替えた。白い紙の上の五線がよじれ、音符が飛んだり跳ねたりしている。

(そうじゃない。そこはちがう)

まって、と追いかけるように、わずかに指先が曲がった気がした。そこに音符はあるべきではない。並び順が違う、とイナサは困ってしまう。

指先すら重くて、本当に体が動いたのかどうかわからない。

水の中にいるかのような浮遊感に、イナサはなんだ、と音符を眺めながら気づいた。

別に自分は、音符の並び順を気にする必要はない。

だって彼らも、流れているだけだ。


(ここは、水の中か)


つまり自分は、ようやく死んだのだ。

体につまった石で、イナサは沈んでいる。

(ああ、なあんだ、)

「イナサが寝てる」

ひどく煩わしいと言わんばかりの険を含んだ声に、イナサの意識は水からざぱりと引き上げられた。

水に浸かっていた意識が浮上して、イナサの体が息を吹き返してしまった。

呼吸を取り戻した体は、やはり重い。重力につぶれてしまいそうだ。

ぼやついた意識でわずかに目を開けると、赤く分厚い本の背表紙が視界に入る。

ぱちぱちと何度か瞬くと、イナサは息の仕方を思い出した。

重い体は、息の仕方を思い出したとたんに軽くなる。

『利己的な遺伝子』という題名を眼にして、イナサは開かれた本を、下から掴んだ。

「イナサ」

どけた本の上から覗く顔は、見慣れた男の顔だ。

玻璃のように色素の薄い切れ長の目が、すこし残念そうにイナサを見下ろしている。冷ややかな顔は整っているが、わずかに頬の丸みが残っていた。

制服のシャツの第一ボタンも、第二ボタンすら閉めずにいるイナサとは違い、彼は首元をきっちりと締めている。ネクタイもぴしりと締められ、乱すことなく制服を着こんだ姿は、高校生というよりは社会人のようだった。

時々ネクタイの存在が行方不明になるイナサとは大違いだ。どこにやったかと探すたびに、イナサよりも的確にナライが探し出す。

イナサは覗き込んでくる彼のネクタイに手をかけた。

結び目に指を入れて力を込めると、ゆるりとほどける。

「イナサ、」

「……なんでリチャード・ドーキンスなんだ?『利己的な遺伝子』より面白い本があるだろ?ちなみに俺は、『神は妄想である』が面白かったな。というか、遺伝子学に踏み込むなら、やっぱりダーウィンの『種の起源』は読むべきだよ、ナライ」

イナサがそのまま下に引っ張って彼のネクタイをほどくと、ナライは非難するように目を細めた。

「お前も読んでいた」

その言葉に、瞼を半分落としながら、イナサはへらりと笑った。

「『利己的な遺伝子』は、リチャード・ドーキンスの代表作だからな。世間で支持されているものは読むだろう?『人間失格』も読もうかなと思うし、夏目漱石の『坊ちゃん』も一応目は通しておくべきだ。人間としては」

「お前ら、ほんっと、べったりだよなー……」

呆れが混じったような、冷ややかさの滲む声に、イナサは眠気をこらえながら、上半身を持ち上げた。

イナサの枕はナライの太ももだった。

イナサは手を床についてから、なんでナライの足の間にいるのだろうかとぼやけた顔のまま首をかしげた。

自分はたしか、ナライにイヤホンを片方貸して、肩に寄りかかっていたはずだったが。

(……ま、いいか)

そんなことはどうでもいいか、とイナサは後ろでページの間に紐を通し、分厚い本を閉じて横に置いたナライを見やる。

「俺かナライか、どっちかに用か?俺に用なら、頑張って起きたことをほめてくれよ、城ノ戸。そうだな、ご褒美は自販機のお茶でいい」

イナサは頭を振り、普段は使われていない空き教室に入ってきた友人をようやく見上げた。

どちらかというと男っぽい角ばった顔つきのクラスメイトは、イナサの言葉に呆れたように息を吐いた。

不健康で、肌の白い幽霊のような見た目のイナサは、そういう男らしさに憧れてしまう。

筋肉のついたごつりとした腕に、しっかりとした骨格がわかる肩が羨ましい。

「ナライに膝枕してもらっておいてよく言う。イナサ、化野が、これやるって」

ちゃり、と音をさせて城ノ戸が差し出したものに、イナサは笑みを深めた。

「ナライ兄ちゃん、もちろんもらってくれるよな?」

代わりに受け取ってくれと笑顔を向けると、ナライは腕を上げた。

城ノ戸は呆れた溜息をとともに、手にしていた銀の塊をイナサに向かって投げる。

イナサにぶつかる前にすばやく空中でそれをとったナライは、手のひらを開いてイナサに中身を見せてくれた。

「はは、さすがだなあ。化野は。将来がこわいよ。仲良くしておこうな、城ノ戸」

それは、古びた銀色の鍵だった。

この部屋の鍵を渡してきた男は、この高校の実質的な支配者だ。

あと一年でともに卒業するというのに、自由に使えと、まるで自分の城のように鍵を手に入れて渡してくる。

校舎の端にあるほこり舞う空き教室が、ナライとイナサの部屋だ。

机と椅子が詰まれ、真ん中にはグランドピアノが置かれている。二階の裏側に面したこの空き教室は、窓を開けると、春には桜が舞い散ってしまう。

入ってくる花びらの欠片を視界にとめ、イナサはまだねむいと重たい頭をぐらつかせた。

「イナサ」

ねむいのか、と問うような声に、イナサは目元をこすり、正面からぽすりとナライの肩にもたれた。

ナライの体はイナサの肉付きの悪い細い体と違って、がっしりとしていて安定感がある。

壁によりかかるよりは暖かくてやわらかい体は、気を抜けばまた意識を飛ばしてしまいそうだ。

「……お前たちは、どうしてそうもべったりなんだ?」

不思議そうな城ノ戸の声には、わずかに嫌悪感が滲んでいる。

それは普通のことじゃないと非難するような視線に、イナサは笑った。

男同士で仲良くしすぎるのはおかしい。そうだろう。イナサもそう思う。大部分の人間が、自分とは違う性別の人間を選ぶはずだ。

この体も、長く自分のそばにあるものではない。

その事実を改めて突き付けられるまでもなく、イナサはそういうものだと理解している。

「仕方ないだろう?ナライ兄ちゃんは、俺のことが大好きなんだからさ。大体、読む本は同じなんだから、そばにいたほうが楽なんだよ。『利己的な遺伝子』の次は『神は妄想である』を読むんだ。なあ、ナライ?」

「お前のほうがナライを好きなんだろうが」

城ノ戸の声に、イナサは笑みを深めて首を振った。

「いいや?今だけだよ。なあナライ?ナライはお嫁さんをもらって結婚して、子どもを作っておっさんになる。そう決まってるし、決めてる」

俺が、と言うのは口にするまでもなく理解しているのか、城ノ戸は顔をしかめた。

「……俺はお前の、そういうところが嫌いなんだよ」

思いっきり否定する言葉を吐いた城ノ戸の『そういうところ』がどういうところか、イナサにはわからなかった。

いつも城ノ戸は、イナサの悪いところを指摘しては嫌そうに吐き捨てる。

「なんでお前は、ナライにそういうことを言うんだ」

いつもであればへらりと笑っていればどこかへ行く城ノ戸は、今日ばかりはさらに言葉を重ねた。

その言葉に、イナサは首をかしげた。

「なんで?だってそれは、当たり前のことだろう?ナライが結婚して子供を作っておっさんになるのは当たり前で、普通のことだ」

普通の男が歩む、普通の人生だ。

当たり前のようなことで、それが逸れることなどあるはずがない。

イナサが寄りかかって、太ももを枕に眠りこけることができるのは今のうちだ。

その言葉に、城ノ戸は眉根を寄せた。

「どうしてそんなにべったりしているのに、お前は、」

「城ノ戸」

低い声が、威圧的に名前を呼んだ。

「用は済んだだろう」

寄りかかった肩のすぐ近くからナライを見上げると、彼は冷ややかな双眸を城ノ戸に向けていた。

静かな男がわずかに怒気を含んで向ける視線に、そばにいたイナサは目をぱちぱちと瞬く。

「……俺はどちらかというと、お前のために言ってるんだぞ。ナライ」

城ノ戸は侮蔑を隠さずに、イナサを睨んだ。

「そいつは、いつかお前を捨てる」

その言葉に、イナサは目を丸くした。

「化野には礼を言っておいてくれ」

そうして話を打ち切り、ナライはもう聞きたくないと城ノ戸から顔をそらした。

目を丸くして、内心慌てるイナサにナライが顔を向ける。まつ毛が触れそうなほど近い距離は、いつもだったら口づけをし始めるところだ。

他にひとがいることを忘れがちなナライに、イナサが慌てて離れようとすると、ナライは少し不満そうに唇を尖らせた。

そのしぐさに少し笑うと、ナライも目を細める。

その眼に怒りがないことに安心して、イナサはけらけら笑いながら肩に腕を回して寄りかかる。

ナライも背中に腕を回して体を支えてくれたので、ますますおかしくなってイナサは笑った。

「はいはい。退散するよ。ったく、ほどほどにしろよ、お前ら」

そう言って身を翻して去っていく城ノ戸に、イナサは、はあいと返事をしてから、ナライの腕の中で笑い転げた。

これではたしかに、友人ではなく恋人のそれだ。

(どこの誰が、他に恋人を作れって言うんだ?)

たしかに端からみれば、イナサとナライは恋人に見えてもおかしくない。そしてそんなナライに恋人を作れと言う人間が、どれだけいるのだろう。

「もういいだろう」

「いや……、ナライ、おかしいだろ……っくく……」

「そうか?」

腕を回して完全にイナサを抱きかかえたナライは、興味がなくなったのか、本に手を伸ばした。抱きしめたまま本を開き始めたナライの第一ボタンを外して、イナサは喉を震わせて小さく笑う。

「城ノ戸は怒ってたな。なんでだろう?これじゃあ確かに恋人かもしれないもんな。あいつはそうじゃないことに怒ってんのか?俺たちは恋人か?」

片眉をあげて問いかけると、ナライはふむ、と考え込むように視線を上げた。やがて顔を傾けて、眉を寄せる。

「……まあ、セックスは、するか?」

ナライは問いかけにまじめに考えているようだ。

そのことも面白くて、確かに、とイナサは笑いながらうなずいた。

「いつも俺がひどいめにあうやつだな。あとはどうしたら恋人だ?ネクタイでも交換しようか?俺のネクタイは、めずらしくポケットにある。ちなみにその理論で行くと、俺は彼女かな?ナライくぅ~ん、なに読んでるの~本読んでないであたしを見て~」

ちらりと視線を向けたナライは、肩をわずかに動かし、イナサのこめかみに口づけた。

「寝ろ」

「もう元気だよ、ナライ兄ちゃん。俺と楽しい話をしよう。最近、俺は文学を読んでるんだけどさ」

「だめだ。寝ろ」

「なんだよ。じゃあ恋人らしく、デートの相談でもするか?そうだな、恋人はデートするもんだよな。今度、週末に図書館に行くだろう?あれはデートってことにしよう」

「イナサ」

聞き分けのない子どもを叱るように名前を呼ばれ、イナサは音もなくため息をついた。

「……俺は元気だよ」

「だめだ。顔色が悪い」

城ノ戸が邪魔だった、とナライはためらうことなく口にする。

イナサはその言葉に、くたりと体の力を抜いて、ナライの体をもたれかかった。

「食事は?」

「にいちゃーん、嫌いなことをわかっているのに聞くのかあ?したくないことはしないよ。嫌いなものは嫌いだ」

「細くなった気がする」

ずばりと言い当てた言葉にイナサは目を丸くして、やがてにこりと笑った。

「どうしてナライはそんなことまで分かるんだ?」

「……やっぱりか」

眉根をわずかに寄せて苦々しい顔をしたナライは、骨が出ている肩にそっと頬を寄せた。

「週末は俺の家に泊まれ」

「いやだよ」

「イナサ」

強い声で呼びかけられたイナサは、ナライの肩を枕にして、もう寝ますと宣言した。

「……イナサ……」

弱り切った声で労わるように名前を呼ばれても、イナサは知らないふりをした。

そのうちにだんだんと眠気が襲ってきて、くたりと力が抜けていく。

「イナサ、俺は……」

「寝るって……」

まどろんだ意識で、そう答えた。瞼が重くて開かない。このままこの腕の中で二度と目が醒めなければいいのにと思うのは、いつものことだ。

けれどイナサは目を覚まして、ナライと名前を呼ぶことになる。

「イナサ」

低くかすれた声が、起きろと囁いてきた。

「や、っからぁ……」

もう寝たい。

二度と目覚めないくらいずっと。

そのままこの腕の中で死んで、さなぎの中身のようにどろどろに溶けて消えてしまいたい。骨も残らないほどに溶けて消えてしまいたくて、それなのにイナサの目はいつも光を見る。

イナサ、と呼ばれることが嫌になり、なんとか腕を伸ばして、ぽんぽんと頬を叩いた。

わかったからもう少し寝かせてくれ、となだめていると、触った体が妙に硬いことに気づいた。

「んぁあ……?」

感触が変だぞ、とイナサは目を開いた。

口をもごもごとしながらぱちりと目を開くと、白い床が見えた。水をはじく白いタイルの床をぼんやりと眺めていると、頭上から呆れたようなため息が聞こえた。

「イナサ、起きろ。食事をしてから寝なさい」

低い声にぼんやりとしながら顔をあげると、記憶の中より精悍な顔つきになったナライがいた。彼は白いワイシャツの腕だけをまくって、そばに膝をついている。

ナライはイナサが寝ぼけた顔で見上げると、安堵したように玻璃のような薄い目を細めた。

「……寝てたか?」

「寝てた」

どうやら風呂場で寝こけていたらしい。ぱちぱちと目を瞬くものの、頭はぼんやりとしたままはっきりとしなかった。

身じろぐとちゃぱりと音がして、イナサは己の身を見返す。

湯舟に浸かっている自分の体はきれいにされているが、体のあちこちに噛まれた跡や吸われた跡が残っている。

どう思い返しても、どうして風呂に入っているのかわからない。記憶がはっきりしない中でただ一つ言えるのは、イナサは自分で風呂場まで歩くはずがないということだ。

首をかしげてナライを見上げると、なんとなくこの男に組み伏せられた記憶だけは蘇ってくる。

「……おまえがつれてきたんだろーおーがぁあ……」

そうして力なくつぶやき、イナサは湯船の縁に脇をひっかけてうなだれた。伸ばした腕はそのまま床まで届く。イナサは手持ち無沙汰で、つるつるのタイルの隙間の粘土を指先でなぞった。

記憶はない。だが、イナサが自分で歩けたとは思えない時点で、風呂に連れてきたのはナライに決まっている。

「そのままだと体に良くない」

「手加減って言葉知ってるか?兄ちゃん。本当に暴君だよ、お前。やさしいナライはどこにいっちゃったんだ?俺は何度ももうやめようって言ったよな」

「臨戦態勢だっただろう」

「その件は平和条約を結んだだろうがぁ~」

ばちゃ、と湯船の中で身をよじると、そろそろ出ろ、とナライは言い放った。

イナサはすこし冷えた体のまま、湯船の中で膝を立て、膝頭の上に頬杖をついた。言うことを聞かずに動かずにいると、ナライは目を細めてわずかに笑っていた。

ナライの機嫌はよさそうだ。イナサは口の先をとがらせて仏頂面をすると、呆れたように息を吐いた。

「機嫌よさそうだな、ナライ」

「お前を持ち帰った上にお前とヤれてる」

あっそ、と冷ややかに吐き捨てると、ナライは湯船に腕を差し込んできた。袖が濡れるのも構わず、膝裏をすくい上げてイナサを持ち上げたナライに、イナサはぎょっとして目を丸くした。

「ナライ!自分で出れる!お前が濡れちゃうだろ!!やめろやめろ!」

「なぜ、お前の世話をしてはいけない?」

「はあっ!?……いや、おかしいよ、おかしいけど、思い返せばお前、俺のこと連れ帰るの好きだったなー……」

ナライは服がずぶぬれになるのも構わず、イナサを湯船からすくい上げる。

上半身は透けるほどに濡れ、もはや着ている意味がない。張り付いた白い布の下に、イナサがつけたかもしれない赤い引っかき傷が残っていた。

ナライは肘で風呂のドアを押し、風呂場からでていく。そのまま浴室からも出ようとするナライの襟元をひっぱり、イナサはナライを止めた。

「体拭いてからでるべきだろ?このままじゃお前んちびしょ濡れにする。犬や猫じゃないんだ、自分でやるよ、ナライ。いくらお前が暴君でも立てるって」

その言葉でぴたりと動きを止めたナライは、しばらく悩むようにイナサを見下ろした。やがてイナサの言葉を受け入れたのか、足をつけるようにイナサを傾けて腕から下ろした。

並んで立つと、ナライの大きさにイナサは自分がひどく小さくなったように感じた。

ナライはばさりとバスタオルを頭からかぶせ、大きな手でごしごしとイナサの頭を乱雑に拭う。

「兄ちゃん!髪が痛む!やめてくれほんと!っていうか本当に世話をしたいのか?それにしては雑だ、愛を感じない!この間から俺にひどいことしてばっかりじゃないか!実は俺のこときらいだろ!」

「そんなわけあるか」

はあ、とあきれたようなため息をついたナライに、イナサは小さく笑った。

「そうだな、そんなわけないな。お前はきらいなやつとセックスはしないし、そばにも寄らせない。本棚の本は増えたのか?っていってもどうせ同じような本読んでるんだろうけどな。お前の本棚は俺の本棚と同じだからな」

ナライはバスタオルから手を離し、そっとイナサの頬を撫でた。

「わかってるなら、そばがいいだろう」

ざらついた手が、労わるようにイナサの頬を撫でる。幼い子どもにするような、やさしさを含んだ動作が懐かしく、イナサは目を細めた。

「……食事をしなさい」

「ハハハ、やだよ。嫌いだ」

バスタオルを肩にかけると、イナサは笑いながら浴室を出た。

出ると廊下が続いており、イナサはリビングがあるだろうと思われる部屋の奥に足を向けた。ぺちぺちと床を歩くと、後ろからナライが追ってくる気配がする。

「ナライ、お前こそ服を着替えろ。びしょ濡れだぞ。というか、俺の服は?よく思い出せないけど、たぶんお前と飯食ったあと、お前にお持ち帰りされたんだろう?あーあ、本当にお前は昔から横暴だ。いっつも俺が合意したことにする」

「平和条約を結んだだろう」

「お前がやってることは、ハルノートして、御前会議を経ましょうっていってセックスに持ち込んでおきながら、真珠湾攻撃してるのと同じなんだよ。わかるか?だから俺はいっつもポツダム宣言飲む羽目になってる。ハルノートとどれだけの差があると思ってる?領土焼野原で大敗北なんだよ、俺は」

リビングと思しきドアノブに手をかけて中に入ったイナサは、自分の服がないかと室内を見回した。

リビングには、夫婦の生活感が溢れていた。やさしい色をしたベージュのソファに、ちいさなテーブル。二人だけでも十分料理が乗りそうな大きさのテーブルには、向かいあうように座るために、それぞれ椅子が置かれている。

ソファの前に置かれたローテーブルには、一輪挿しの花瓶が置かれていた。ナライは花を一輪挿すようなことはしない。同居の妻の趣味なのだろう。

どれもこれも、ナライが他の人間と、少なくとも女性と暮らしていたことがうかがえる室内だ。

イナサは天を仰ぎ、裸のままソファに腰かけた。

「なんでだろうなあ、ここには夢が詰まってるような気がするのに、なんで俺はこんなところでお前にお持ち帰りされちゃって裸なんだよ。台無しだ。サメ映画並みにな。墓場にサメが出てくるようだよ、ナライ」

「つまり?」

ばさりとシャツの上を脱いだナライは、椅子の背に置いていたティシャツを着た。

「タイトル負けのB級映画」

「お前は本当に文化に造詣が深いな」

はっとイナサは皮肉を込めて片目を眇めた。

「俺の文句が聞こえないのかな?ナライ兄ちゃん」

「おかゆを作った」

聞けよ、とナライは顔をしかめた左ひざの上に右の足首を乗せた。太ももに頬杖をつき、キッチンに立つ男を見やる。

「……お前は昔から、俺に構うのが好きだったな」

かすれた声はイナサに背を向けている男に届いているのかわからない。

昼か朝かの光が差し込む部屋で、イナサは間男みたいにバスタオルを体にまとい、裸で佇んでいる。このまま、さなぎのように溶けるために繭でも作れたら楽だろうと思う。体を引き割いたら、どろどろ出てくる中身のまま、死んでしまう。


「なあ、ナライ、俺のこと、愛してる?」


だから試しにそう聞いてみた。

どういう言葉が返ってくるのだろうという好奇心と、ある程度予想できる反応を待てば、ナライはくるりと振り向いた。

白い陶器の椀を手に、不可解そうな顔をして、首をかしげる。

「あい……?」

その時点で笑いだしそうになる口元を、イナサは手で抑えた。


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