第3話 死体にするときは決まっている
『俺がイナサなら、お前はナライだ』
そう言ったとき、ナライはおかしそうに笑った。
いつも静かな男が笑う気持ちも理解できて、イナサも笑った。
『音楽の好みは合わないのに、読む本は同じか』
『音楽も音楽なら、本のセンスもジジクセエ~!男子高校生の好みじゃないよ、ナライ!ちゃんとエロ本も読んでるか!?つうか、今年の直木賞とかは読んでんの?お前!』
『お前も同じ本読んでるだろう』
そうやって半分のイヤホンを渡して、同じ曲を聞きながら、そんなことばかり話していた。
コードが届く距離。隣か向かいか、手を伸ばせば届く距離だ。
ナライが好きな音楽は、ナライほど好きにはならなかった。文化祭でバンドをやろうと言って、結局すぐにやめた。やりたい曲が一致しなかったせいだ。
イナサはなんでも音楽を聴いた。
流行りのポップスも、インターネットに流れる電子音も、クラシックですら聞いた。
その当時は古めの曲が好きで、ルイ・アームストロングのアルバムばかり聞いていた。黒人特有の低く太い声は、よく響いて日本人にはなかなかない声質だ。
英語の心地いい声を、ナライは不思議そうな顔で聞いていた。
『英語はよくわからない』
そう言いながら、ナライはイナサから差し出されたイヤホンをいつも受け取った。その曲ばかり流すとわかっていて、ナライはイナサから渡される半分を、受け取る。
『イナサ』
そうして呼びかけられると、イナサは忘れてしまうのだ。
つかの間、自分が死体になりたいことを。
『この声がいいのか?』
『世界を愛してるという歌詞が溢れてるからな。すごくきれいだろ?』
そこがいいんだ、というと、ナライは歌詞を調べたりした。
けれどナライは英語が苦手なようだった。
よくわからないと言いながら、イナサが音楽を聴いているとそばにきて、半分のイヤホンを受け取った。
『イナサ』
そしてそう呼んで、ナライはよく抱きしめた。
イナサの体は男のそれだ。しかも身長も低くなければ、太っているわけでもない。女と比べると、どう頑張っても柔らかくはない体に、ナライは良く腕を回した。
もっともそれは、イナサも同じだった。
ナライは女のように柔らかくはない。イナサ以上に硬くて筋肉があった。昔も今も良く鍛えた体は、丈夫だなと、イナサは思っていた。
ナライの体は、がっしりしていて安定感がある。
イナサはナライに抱きしめられるのが好きだったし、自分よりも硬い体を下敷きにして寝るのが好きだった。
『マジかよ、おいナライ!俺は出てくぞ!』
『いいから寝ろ』
だから沖縄で彼の部屋に連れ込まれて、本当にセックスもせずに横になったとき、イナサは信じられないと言いながら、結局寝てしまった。
『イナサ』
そう呼ばれているだけで、いいかと思ったときもあった。
そばに引き寄せられて猫みたいに丸まっているだけで、まあいいかと思ったとき。
息をしたくないのも、何もかも見たくないのも忘れて、ただこの男に名前を呼ばれていればいいか、と。
本当は、それでもいいかと思っていた時もあった。
彼に呼び続けられていれば、忘れられる気もした。
イナサはいずれ、死体になりたいことを忘れられるかもしれない。溺死したいと思うこともなく、彼のそばで笑っているだけでいいようになるかもしれない。
それは夢のような。
「ウェィツァイ」
呼ばれた気がしてイナサが目を開くと、ひとりの男が顔を覗き込んでいた。
イナサは結局、ナライの元からまた逃げた。
ナライが寝ている明け方に、彼の部屋から出て、早々に東京に戻り、部屋に引きこもっていた。
「……クォイラン」
色白い生気のない肌色をした男は、イナサの呼びかけに、ひっそりと微笑んだ。
寝不足が一目でわかる、ひどい隈がゆるりと曲線を作る。黒い瞳は、清濁併せのんだように色も感情もなく、ただイナサを映す時だけ、わずかに輝いた。
顔色は青白いと言われるほどなのに、妙な色香を携えた男だった。
ただそれは、近寄るものを堕落させるような退廃的な甘さを含んでいる。近寄れば、どこまでも狂わせていきそうな怪しげな雰囲気を持ちながら、うっそりと笑う。
まるで活人形のように生気のない男は、イナサの頬を指先で撫でると、首をかしげた。
「……悪い夢ですか」
「……ああ。本当に、悪い、夢だ……」
ため息をつきながら身を起こすと、男の背後にもう一人、冷え冷えとした容貌の男が立っていた。
油っ気のない髪を後ろでひとつに束ね、女かと見紛う美貌をした男は、クォイランと呼ばれる男がイナサに情緒を向けるのを、嫌そうに目を細めて見下ろしている。
彫刻細工のような男の圧力に、イナサはもう一度、ため息をついた。
そのため息で何かを察したクォイランは振り向き、背後の男を見上げた。
『……?』
中国語で何かを問いかけ、首を振られると、クォイランはにこりと笑った。
(あ、おこだ)
出てけ、と彼がよく使う中国語だけわかって、イナサは呆れを隠さなかった。
「兄さん、ジアを怒らないで」
そうして苛烈な兄を嗜めると、クォイランと呼ばれる男は、不思議そうな顔をした。
「邪魔でしょう?」
「兄さんの護衛でしょ」
護衛なのだからそばから離さないほうがいいという意味で言ったのに、クォイランは困ったような顔をした。
(ったく、兄さんは……)
兄は、頭のネジが全部外れている。
イナサと違う生き方をしてきた兄は、堕ちるところまで落ちた。
詳しいいきさつを聞いたわけではないが、体中に残る煙草の焼き印と、傷だらけの体を見れば、どれだけのことがあったのか、想像に難くない。それでも狂わず順応した男は、他人に痛めつけられることにためらいもなく、他人を痛めつけることにためらいがない。
だから護衛でもいないと、だめなのだ。
彼は自分が面白そうだと思うと、己がどうなることも構わずに手を差し出す。
その面白さは、子どものように、周りの理解も共感も必要としていない。独断的なものだ。事態がぐちゃぐちゃになっても構わず、気が済んだら手を引く。
だから彼には守ってくれる誰かが必要だった。守ってくれて、彼を見張ってくれる人間が要る。
そうでもしないと、気が付けばトラブルに見舞われていることがあった。それも自分から首を突っ込んでいる。痛めつけられ、その分やられたら痛めつけ返すという、はた迷惑なことをしでかす。
「……僕らの時間を邪魔する人間は、少ないほうがいいと思いませんか?ウェィツァイがこの兄との時間を過ごすのに、不愉快に思うことはなくすべきです」
「喧嘩を見るほうが気分が悪いよ、そうだろう?ジア」
シー、と同意をした護衛は、ちらりとイナサに視線をむけると、すぐに目を伏せた。
「それより楽しい話をしようよ、兄さん!沖縄のお土産、買ってきたんだ。いいところだよ、沖縄。ちんすこうって色んな味があるんだね。面白いから色々買ってみたよ。あとで味の感想を聞かせて」
へらりと笑ってベッドの上から降りようとすると、兄はイナサを押しとどめた。
カフェオレの入ったカップを差し出し、労わるように眉根を下げる。
「もっとゆっくりしてきてもよかったんですよ」
「兄さんにも早く会いたかったんだよ」
そう言ってカップを受け取り、イナサはカフェオレを啜った。
実際、その言葉は冗談ではなかった。
イナサはこの兄を見捨てることなどできない。
再会してからずっと、帰るところは兄のところだけと決まっている。
「……腕木美海が、あなたの前に現れましたね」
イナサはごくりとコーヒー交じりの牛乳を飲み込み、乳白色の液体を眺めた。
うつむいた拍子に、赤い髪がぱさりと落ちる。
「……」
「そんなに嫌なら、会わせないようにしましょうか?」
イナサは苦笑いを浮かべ、首を振った。
「兄さんは、なんでも知ってるんだなあ」
「……僕はもっと早くに、君を思い出すべきだったんですよ」
悔いるようにうつむいたクォイランに、イナサは肩を叩いた。
「どうかな。思い出さないほうが、よかったかもしれないよ。人生は、大部分を忘れて、楽しいことだけ覚えていたほうがいい」
ブーシー、ときれいな中国語でつぶやいて、クォイランは首を振った。
「もっと早く思い出していれば、まっとうな人間でいたいなんて夢は、分からせられるまでもなく、見ませんでした」
「……そんなことを、誰が兄さんにしたの?」
平然と言われた言葉に、イナサは眉根を寄せた。
クォイランは、狂っている。
彼自身にその自覚があり、イナサもそれは十分に理解していた。
けれど、兄は堕ちたくて堕ちたのではないし、イナサはできることなら、この兄に誰かの助けが来ることを望んでいた。自分の与り知らぬところで、どうか助かっていてほしいと切に願っていた。
だが、それは叶っていなかった。
高校に上がる前、中学生のイナサのもとに現れた兄は、すでに狂っていた。
なにもかもがめちゃくちゃに壊されたあと、彼は自力で忘れていた記憶を思い出した。
自分には弟がいて、自分が命懸けで逃がしたことを。
その代償に、自分がひどい目にあっていたことを思い知り、愛憎織り交ざったクォイランは一度、本当に何もかもめちゃくちゃに壊れた。
『あぁ、ディディ、僕の大事な家族……君のせいで痛かった。苦しかった。殺してしまいたいくらいあいしてる……たったひとりの僕の弟……』
一度壊れてしまったものは、元には戻らない。
割れた卵が、もとのカタチになることにないように。
彼は自力で壊れた己を修復しながら、クォイランという人間を完成させた。
「僕の主人とその恋人ですよ。僕は今でも主人だと思ってますが、ここまで権力を手にした僕を、部下扱いはできないでしょうから、元、ですかね」
「ハハ、黑幇の天狼会党首の孫によくするねえ。因果応報。やり返されると思わなかったのかな?」
イナサがからりと笑うと、クォイランは面白そうにひっそりと笑った。
「そんなえらいものではありませんよ。それを言うなら君もでしょう?ウェィツァイ」
「たしかにそんなにえらいものじゃないね!ジアのほうが偉いかもしれない」
お戯れを、とジアの低い声が割って入った。
「私は、ただ」
「ハイハイ!大好きな兄さんのために何もかも準備して、何もかもするだけ!それで?腕木のことを調べたのもお前の仕事か?」
兄とジアの関係は複雑だ。そこに話を持っていくと、兄は大抵不機嫌になるので、イナサは早々に話を元に戻した。
「『ナライ』」
「……」
「と、君は彼のことを、そう呼んでいますね」
兄の口から出た呼び名に、イナサは固まった。
「ずいぶんと仲良くしていたようですね、高校の時から、ですか?」
何もかも調査済なのだと知って、イナサは苦笑した。
「……そうだね。でも俺は、彼を選ぶつもりはないよ。兄さんだってわかってるだろう?調べたなら俺が何度も何度も、彼から逃げていることぐらいさ!俺の帰る場所は兄さんのいるところだよ」
そうして朗らかに笑うと、兄はふと思いついたようにイナサが抱えたままのカップを手から奪う。イナサはされるがままにカップを手から離し、クォイランがベッドサイドテーブルにそれを置くのを視線で追った。
そして次の瞬間、クォイランに肩を押され、ベッドの上に押し倒された。
にこり、と笑ったクォイランが微笑みながら上から覗き込み、イナサの首に指先をかける。
「……会いたくないんですか?彼と」
「やだな、友達だって。そりゃあたまに会うことくらいあるだろ?まあ嫌いなら友達ですらないから、好きかもしれないな」
その答えに、クォイランはおかしそうに笑った。くすくすと深窓の令嬢のようにひそやかな声をあげて、イナサの首に回した指先に力を込める。
「うそばっかり。友達とあんなにセックスするんですか?」
「に、さんも、ジアとするだろう?」
「あれは仕事道具ですからね。モノつかって自慰してるのと大差がありませんよ」
「……」
けほ、としゃべりづらくなるほど力の込められた指先に、イナサは少しだけ安堵した。
このひとは自分のせいでおかしくなった。イナサが狂わせてしまった。
けれど、気が触れてもなお、イナサのことを守ろうとして、大事にしようとしてくれる。
だから、この人がイナサを死体にして満足するのなら、それでよかった。
「……ウェィツァイ、どうしてそうも、僕に一途でいてくれるんですか?」
指先の力を少し緩められ、空気が入ってくると、イナサはごほごほと咳き込んだ。
「兄さんが俺を『ウェィツァイ』と呼ぶからだろう?そんな呼び方をされて、俺を育ててくれて、すくい上げてくれたひとのほかに、目移りなんかできるわけがない」
兄さん、とイナサは回された手を掴んだ。
「俺は燃やさないで。あんなこわいことはいやだよ。死ぬなら水の中がいい。そうだな、沖縄の海はすごくきれいだけど、鮫も多いらしいからな。沖縄の海に死体を投げ捨てるのがいいかもしれない」
「……ジァユー!」
クォイランは耐えかねたように護衛の名前を呼んだ。
彼は呼ばれるとわかっていたのか、すぐそばに控えていて、クォイランをイナサから引きはがした。
ジアがクォイランを子どものように抱えると、クォイランはくすくす笑いながら、彼の胸倉を掴んだ。
「どうして早く止めないんです!?止めろと言ったじゃないですか、僕が弟を殺しそうになったり手を出したら!すぐに!止めなさい!!」
「……坊ちゃん」
「使えないのならまた捨てますよ!それとも、僕が他の誰かの上に跨ってる様でも見ていたいんですかお前は!?」
「お許しを」
そうして痛ましげに己の主を見やったジアは、ゆっくりと膝をついた。
クォイランはジアの太ももに座りながら、だらりと彼の肩にもたれた。ジアに支えられながら、イナサのほうを見ることなく、英語と中国語と、何か別のヨーロッパの言語をつぶやく。
そしてふいににこりと口元を曲げた。焦点のあっていないようなぼんやりとした眼から、今度はぽたぽたと涙をこぼした。
「ああ、ウェィツァイ、兄を許してください。そんなことはしたくないのです。あなたがいないともう生きていけません。生きていく意味がないのです。どうか僕に殺されないで。殺されそうになったら、きちんと抵抗してください。お願いです」
「わかってるさ。でも兄さんは俺を好きにしていいんだよ?生きたまま燃やさなければ」
そんなことは言わないで、とクォイランは耳を塞いでうずくまった。
「お前に手をだすやつはみんな殺してあげます。僕の生きがいに手を出す奴は、人棍にして漬け込んでおきましょう。人棍だと蛇頭に流されてしまうかも……生かしておくより、殺しておく方がいいかもしれません」
ぽたぽたと涙をこぼしながら、くすりとひそやかに笑う。しかし、すぐにクォイランはわざとらしく悲しげな表情をしてうつむいた。
「ごめんなさい。ごめんなさい、ウェィツァイ。僕は自分で自分がわからなくなってしまうんです。大事なウェィツァイ、君のせいで痛くて苦しかったんです……君のせいじゃない、でも殺してしまいたいんです……たったひとりの僕の弟」
わかってるさ、とイナサはにこりと明るく笑う。
(兄さんはいつでも、俺を殺す権利がある)
自宅が燃えたとき、兄は幼いながら、イナサを逃がした。
家の人間がすべて刺されて殺され、屋敷は燃やされ、本当はイナサもそこで死ぬはずだった。
イナサが生きてこれたのは、この兄のおかげだ。
自立しなくてはならないとなったときも、クォイランが助けてくれた。
施設に引き取られ、高校生になったら出ていかねばならないというとき。
この兄は、再びイナサの前に現れた。
朗らかに笑っていた兄は、昔の姿など見る影もないほどに変わり果て、昔と同じ従者を引きつれながら姿を見せた。
黒い瞳は清濁併せ呑んだように生気がなく、笑えば男であろうと女であろうと地獄の底まで堕としそうなあまい退廃さを漂わせる。施設の職員は、何人かが彼に呑まれて辞めていった。
『僕のウェィツァイ。ようやく君を思い出したんです』
昔も今も、ジアと呼んでいた男を傍らに控えさせ、彼はイナサに手を伸ばした。
『……兄さん』
変わり果て、それでも自分とよく似た顔をした男の手を、イナサはとるしかなかった。
彼がこうなったのは、すべてイナサのせいだ。
(だからナライ、俺じゃだめなんだ)
「ごめんなさい、ごめんなさい。僕のウェィツァイ」
イナサは、縋るように伸ばされたクォイランの細い手を握った。その傷だらけの手の甲に顔を摺り寄せ、イナサは静かに笑う。
「謝らないで。兄さんは悪くないんだから。当然だよ。兄さんは俺を殺してもいいし、生かしてもいいのさ。当然だろ?好きにして言いに決まっている!でもこの命は、兄さんが殺す時のためにとっておくから、ね?」
だから何も心配しなくていい、とイナサは微笑んで見せる。
その表情を見て、クォイランはつられたように、へらりと笑って、不思議そうな顔をして首をかしげた。
(俺を殺すのは、ナライじゃない)
中国の裏社会の三合会一角、天狼会の党首の直系に舞い戻った男に、イナサはいつか殺されるのだ。
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