第2話 追いかけてもつかめず
「一体俺は、あと何日過ごせばいいんだと思う?」
試験を待ちわびる前のような、終わりを望む声は軽やかだった。
早く終わらないかなあと夢見るその姿は可憐な少女のように楽しげで、だからこそ、黒い眼に潜む絶望に、長いこと気づけないでいた。
いつも人の輪の中で楽しげに笑い、口元は緩やかな半円を描いていた。笑う声は軽やかで、その声を風交じりに耳まで届く場所にいた。
そんな位置にいたから、見えてもいなかった。
『一体俺は、あと何日』
そう言ってにこやかに笑う顔を。
「どれくらい」
黒い眼が、世界を嫌って鮮やかに煌めく。
お前なんか嫌いだと吐き捨てるような無表情を向けられ、いらないと捨てられることを繰り返し、ようやく気づいた。
「過ごせばいいんだと思う?」
『生きればいいんだ?』
そう言ったときの、窓辺から差し込む光を、まるで写真のように覚えている。
柔らかに曲がる口元とは裏腹に、終わりを待つ暗い瞳は、それをよすがに光っていた。
生きることよりも、終焉をよすがに日々を過ごし、そんな毎日に心底飽きているような口調だ。生きることに意味なんてなくて、ただいつでも終われるという希望だけが、彼を生かしていた。
だから彼は大抵のものに執着がなかった。
大抵と言うことすら、言いすぎなほどに。
彼は、執着がない。
友人も恋人も、モノを取られても、怒りもしない。困ったなと首をかしげることが大半で、いつも平然としていた。そんなさまを見られては、器が大きいと言われたり、泰然自若と言われたりする。
執着がないだけだというのに。
そのくせ、好奇心だけは旺盛だった。
だから優しくて博識で気が回り、なんにでも興味を示す彼の周りは、いつも人が絶えなかった。
それなのに、彼は誰にも執着しない。
彼にはなにを失ってなくしてもどうでもいいという身軽さがあった。
それは、屋上から飛び降りるような自殺志願に似た。
彼の生き方は、自殺志願者そのものだった。
いつどこから落ちても構わないという身投げをするような生き方をしていた。
それなのに、いつも自分のそばで、楽しそうに笑っている。
『ナライ、ほら』
彼が好む英語の歌詞を、ナライは当時、理解できなかった。
(今なら、わかる)
英語はすこぶる苦手で、試験のたびに頭を悩ませていた。うなりながら試験勉強をするナライに、彼はおかしそうに笑って、勉強を教えてくれた。
『どうして、そんなに本を読むし、バイオリンも弾けるのに、英語が苦手なんだよ?英語だって、きれいなことばで溢れてるのに!』
情緒がない、とおかしそうに笑いながら、イヤホンの半分を差し出して、同じ曲を聞かせた。
英語が苦手だというのに、外人が歌う曲ばかりがそのイヤホンからは流れた。彼はそのとき自分が聞きたい曲ばかりを聞かせてくる。
曲の趣味は合わないとわかっていて、それでもナライは彼から渡されるイヤホンを拒まなかった。
『また同じ曲か』
『今日は違うよ。ほら、紅茶のCMで使われてたのあったろ。あれだ。聞いてよ、ナライ兄ちゃん!たぶん別に好きでもないと思うけどね』
その瞬間は、どれだけそばにいても許された。
音楽が流れる時間だけは、イナサは何も言わなかった。
『なぜ俺の趣味じゃないとわかっているのに、差し出してくる』
『お前が受け取るからだよ、ナライ兄ちゃん!お前は視野が狭いからさ、俺は心配なんだよ。そういうところ、一途で情熱的で素敵だけど、多様性は許すべきだ。牧師アーサー・キングも言ってるだろ?』
ひとこと言えば、倍の言葉で返してくれる声を、ナライは気が付けば待ち望んでいた。
彼はいつもそばに来てくれて、ナライの元でいろんな話をしてくれた。
どんなところでも楽しみを見つけることが上手で、あれこれやと話しては、にこにこと笑う。
だから本当に、ナライは長いこと、彼の黒い眼の奥に眠る深淵に、気づけないでいた。
「おいおいナライよ……」
はあ、と頭を赤茶色に染めた男が、ナライの前で、大げさな身振りで顔を覆った。
「マジか?これは現実なのか?俺はまだクォイランに起こされずに寝てるのか?ふふん、なるほどな、兄さんが出てきたこと自体が夢か。俺はまだ寝てる。きっとそうだ」
彼はちらりと手の指を開いて目を向けると、またはあ、とため息をついた。そして見たくないと言うように指を閉じる。
「俺は沖縄にお前を置いてきたはずだ。それで東京にすぐに帰ったんだぞ。そのあと美容院に行って髪の色も変えた。ピアスも外しただろう。服装もちょっと系統を変えた。なのにどうして俺の前には、ナライがいるんだ?」
「……そんなことだろうと思った」
そばで大人しく寝ていたイナサは、次の日の朝にはいなかった。書き置きもせずに霧のように消えたイナサがすることなどわかりきっている。
すぐに見た目を変え、住むところだけはわかっていないだろうと家に帰ったに決まっていた。
案の定そのとおりで、感想を低い声でぼそりとつぶやくと、イナサはすぐに顔を上げた。
眉根を寄せて、どういうことだと不機嫌そうに睨む。
「いい加減、俺も慣れる」
逃げられることに、とは言わずとも知れたようで、イナサは不機嫌そうに秀麗な顔を歪めた。
「何がどう慣れたっていうのかな?ナライ兄ちゃんよ、あてこすりか?お前はいつからそんな皮肉を覚えるようになっちゃったんだ。悪い大人になっちゃって、俺は心底かなしい」
大げさに肩をすくめて呆れた動作をするイナサに、永遠に突き止め方など教えてやらないとナライは思った。
「お前が俺のそばにいないからだろう」
一体、離れていた期間のなにを知っているんだ、と言うと、イナサは目を丸くした。
「だから、お前が悪い」
「……い、いやいや、お前、なに……この間から、変だぞ……」
離れて耐えられないのはイナサも同じはずなのに、彼はいつもナライを突き放す。
あまつさえ、結婚して家庭を持て、とナライに言い放つ。
イナサは困ったように肩にかかりそうな後ろ髪をくしゃりとなでた。
困ると後ろ首をかく癖は、昔から変わらない。見た目がいくら変わろうと、中身はずっと同じだ。
「だって……だってナライ、そういうんじゃなかった、だろう?なのに、なんなんだ。俺がいないと生きていけないとか、そんなのお前、言わなかっただろう?」
そうだよな、と同意を求めるような表情に、そんなわけあるか、と否定したいのを、ナライはこらえた。
夜の街の明かりに照らされて、黒い眼が光る。
昔から妙に伺うような、媚びるような視線を向ける目が、世界を嫌って鮮やかに煌めく。
「……言っていたら、お前は逃げなかったのか?」
それはもしもの話だ。
高校生のときも、大学生のときも、ナライはそれを口にすることができなかった。
高校生の時は、いっときの遊びにされ、大学生のときは、関係がある男のひとりにナライを入れた。
高校生のときは、仕方がなかった。そのときにそんなことを言うのは、重いという自覚もあったし、イナサはなんだかんだとそばにいてくれるのだろうと思っていた。
けれど、それはナライの思い違いだった。
「は、あ……?」
イナサは信じられないものを見るように目を丸くして、ぽかんとした。
自分と違って女顔のイナサがそういう表情をすると、妙に幼く見える。
「……あの、あのさ、ナライ」
まじめな声音になったことを察して、ナライはイナサの手首をとり、くるりと背を向けた。
「オイ、ナライ!」
なんなんだ、と怒りのにじむ声をあげながら、イナサはついてくる。
「これ沖縄とデジャヴ……人さらいだぞ、ナライ……」
「ほぼ合意だ」
だってイナサは本気でいやな時は、腕力で抵抗してくるのだ。
それがないから、イナサは嫌がってはいない。
「そんなわけあるか!お前はいっつも俺の話を聞かないよな!文化祭のときもそう!昔からそうだ!勝手に俺から同意をとったことにする!」
「お前は本当に鈍い」
どこがだ、と反論する声を聞きながら、ナライはすたすたと街の中を歩いた。
きれいなイナサの容姿は、いつも人目を引く。最近は飾り立てている分、年齢が図りにくく、20歳くらいに見えてしまいそうだ。
イナサはそんな視線にも頓着していない。自分が他人からどう見られているかにあまり興味はなかった。
「大体、ナライはいっつも身勝手だ。勝手に俺を引きずっていくし、勝手に俺の前に来る。なんで来た?帰れ!今回はマジでクォイランが黙ってないからな!」
「誰なんだそれは」
昔からずっと、この男には別の男の影があった。
イナサがナライのそばから離れるのは、その男のせいだろうということも、おおよそ察しがついている。
「……俺の兄貴だよ」
暗い声に振り向くと、イナサはうつむいていた。
視線を感じたのか、はっとしてすぐに顔を上げ、怒ったようにナライを睨む。
「30手前で兄にお伺いを立てるのか、お前は」
「クォイランを悪く言うな」
本気でいやそうに言われた言葉に、ちくりと胸が痛む。
(どうしてだ。俺のほうが必要だろう)
ぎり、と手首をつかむ手に力が入り、痛いとイナサが喚いた。
ナライはとあるビルの前につくと、階段を下りて地下に向かった。階段を下りるごとに、肉の焼かれる香ばしいにおいが強くなる。
「ナライ、どこに向かっているんだ?」
イナサは不思議そうな顔をして、ナライにそう問いかける。
「……食事をする」
「……っなら、」
何かを言われる前に店の前に到着し、ドアを開けた。
予約名を店員に告げると半個室の席に案内され、ナライはイナサを座席に放った。四人掛けのテーブルの向かいに腰かけると、メニューをちらりと眺める。すぐに店員を呼び止めると、ナライはさっさと注文をしていく。
イナサは注文されるのを聞きながら、室内の飾りを眺めていた。
やがて料理がやってきて、焼かれた肉が並ぶ。ソースのかかったそれを取り分けてイナサに差しだすと、彼はため息をついた。
「ナライ兄ちゃん、兄ちゃんだけに俺はとっておきの秘密を教えたはずだよな?だから食事はしたくないと言ったし、俺は食事が嫌いだし、肉は嫌いだ。久しぶりすぎて忘れちゃったのかな?思い出してくれ、俺は食いたくない」
「肉だと思うな」
「無茶言うな!どうしてそう暴君なんだお前は?いつからそんなふうになった?俺のやさし~いナライくんはどこにいったのかな?」
トマトとモッツァレラチーズの乗った皿を差し出しながら、平気だろうとナライは言い切った。
実際、イナサが食べたくないだのなんだのとわがままを言うのは、ナライの前だけだ。
そしてそれを言うのは、彼の病が、まだ治っていないことを示している。
その事実に、ナライはそっと眉根を寄せた。
「味がしないなら、なにを食べても変わらないだろう」
「だからいやなんだろうが~」
うえ、と舌を出して、イナサは行儀悪く頬杖をついた。
カトラリーの入った細長い籠からフォークを取り出し、取り分けられた肉をつんつんとつつく。
「肉は嫌いだ」
ぷう、と子どものように頬を膨らませ、イナサはそっぽを向く。
「お前は食事が嫌いだろう」
ナライは構わずに、ミディアムで焼かれた肉を口に運んだ。すでにソースがかかっている肉は、ほどよいやわらかさで、十分に美味しい。
「嫌いだ」
「でも、人前では食べる」
イナサは、他の人間の前では笑って食べ、味覚障害がないように振舞う。
けれど彼は、出会ってしばらくしてからすぐに味覚が感じ取れないことを、ナライに告げた。
イナサは当たり前だろうと肩をすくめた。
「なんでお前の前でまで無理して食べないといけないんだ?お前といる時間が多いんだぞ。やりたくないことはしたくない。いやなものはいやだ。食べたくない。お前と食べると変な味がする」
ナライは、ぐ、とフォークに握る手に力を込めた。
「……だから、お前は鈍い」
「今日は強気だな、ナライ?いい度胸だ」
イナサは簡単にナライを特別だと言うくせに、ナライのものにはなってくれない。
昔はその言葉で満足していた。
そうしなければいけないと思っていた。
(でももう、我慢しなくていい)
ナライは顔を上げると、肉を突き刺したフォークをイナサの口元まで持っていった。
「食べなさい」
「……母ちゃんかお前は」
イナサは差し出されると、仕方がなさそうに口を開いた。
そしてぱくりと飲み込み、眉根を寄せて不機嫌そうに口をもごもごと動かす。
「なんの味がするんだ?ナライ」
「ニンニクと、たぶんリンゴも混じっている。あっさりとしているが、すこしからさもある」
「色は茶色のソースだよな?醤油か?」
「たぶんな」
ナライもそこまで味の分別ができるわけではない。混ざったソースの味の細分化は難しく、できる範囲で答えるしかなかった。
「うまいのか?」
そうして不思議そうに尋ねるイナサの口にトマトを放りこむと、嫌な顔をせずに咀嚼した。
「おいしい」
ナライの答えに、そうか、とイナサは目を細めた。
「なあ、ナライ。こういうおいしいものを共有していく相手は、やっぱり家族だといいと思うんだよ、俺は」
一度失敗しても、次があるだろうといつもの調子で朗らかに笑うイナサの口に、ナライは肉を放りこんだ。
イナサは眉根を寄せてもぐもぐと口の中で肉を噛み、ごくり、と無理やり飲み込む。白い喉が動くさまを眺め、ナライは自分の口に肉を運んだ。
「もう結婚はしない」
「次こそ、お前にあう相手かもしれないだろ?そのひとは違ったんだよ。運命の糸は放っておいたらつながらない。自分で手繰り寄せにいかないとな?そうだ、どんな女の子がいいんだ?」
好みのタイプを聞かせてくれ、と好意の溢れる顔で言うイナサは、気のいい友人そのものだ。
うまくいかずに離婚して、それを慰める友人の姿を崩そうともしない。
ナライは白いチーズをイナサの口に放り込み、自分も口に運んでから、意味がないからしないと答えた。
「意味がないってどういうことだ?なんでそんな風に決めつけるんだお前は!」
「俺は、種無しらしい」
「……」
簡潔に答えて肉を口に運ぶと、イナサは頬杖をつき、笑った表情のまま固まっていた。
ぱく、と口を動かしたイナサの口にトマトを運んでやると、しゃく、と半分噛んだまま、視線を落とす。
やがてすべてトマトを噛み切ったのか、半分になった赤い野菜がぼとりとイナサの口から落ちていった。
「うわわ!」
イナサは慌てて皿を引き寄せてトマトをそこに落とす。そして紙で口元を拭うと、えーと、と言葉を探した。
「子どもができないからな。お前の言う通りにはならないから意味がない」
家族を作って。
子どもを作って、孫に囲まれて、当たり前のように幸せになってくれ。
そこにイナサはいないけれど。
結婚してしばらくして子どもができなかったため、ナライは検査をした。そしてその事実が判明したとき、ナライはすぐに離婚を申し出た。
「……なんだよ、それは」
どうしてお前にそんなことが起こるんだ、とひどい不幸を眼にした時のように、イナサは途方に暮れていた。弱肉強食の摂理に飲み込まれる弱い動物を、かわいそうだと言うように。
この時ばかりは、心底同情するようなイナサの目に、絶望はなかった。
ナライは食事を続けながら、残念だったな、と言いたい気持ちを抑えた。
(残念だったな、俺にそういう幸福を与えられなくて)
イナサに言えば、どういう表情をするのだろうとナライは考えていた。
喜ぶのだろうか。
悲しむだろうか。
妻の嘆きや悲しみよりも、ナライはずっとイナサに伝えることを楽しみにしていた。
だってもう、イナサが課す『当たり前の幸福』とやらに浸からなくてもいい。
イナサが説く常識なんてものにすり寄らなくていい。
(イナサ、お前は本当に、鈍いんだよ)
自分のことを考える目の前の男を、ナライはにこにこしながら眺めたかった。
さすがにそれをすると怒られそうだし、色んなことに気づきそうなので、ナライは平然と食事を続ける。
「だからイナサ、言っただろう」
ナライは淡々と言葉をつづけた。
イナサの手元の皿に残る、噛み切り半分になったトマトの残りを、フォークで自分の口に運ぶ。
「俺は、ひとりは無理だと決めたと」
さみしさを押し付ければ、イナサは悩むように眉根を寄せた。
(俺がお前を大事に思うように、俺はお前に大事にされてる)
ナライがイナサの特別であることくらい、ナライはとっくに自覚がある。
大事にされているのも、わかっている。
(でもそんな大事のされ方は、いらない)
ナライに常識がないと言うのなら、その通りだ。
(お前は本当に、鈍くてかわいくて困る)
高校生のころから向けられる熱量が一向に変わらないのも、探し出した末にいつも見つけられているのも、イナサだけを選びたいのも、ぜんぶ彼は知りもしないのだから。
ナライがトマトをごくりと飲み込むと、イナサは申し訳なさそうに、ごめんと謝った。
これでしばらくイナサは自分のもとから離れないだろうと、ナライは表情を変えずに安堵し、イナサの口に肉の切れ端を運んだ。
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