風の音がしない
東
第1話 生きたまま見つかる
イナサ、と呼ばれることが苦手だった。
そう呼ばれると、イナサはつかの間、自分のどうしようもない渇望を忘れる。
イナサはずいぶんと長い間、自分の中に湧き上がる欲望と戦いながら生きていた。小学生の時に知り、そして発生した。それは病のように長いことイナサを蝕み、正気を徐々に削っていった。
それを。
つかの間、忘れてしまう。
自分が水に浸かって、死体になってしまいたいことを。
何十年も消えずにいる想いを、イナサはつかの間、忘れてしまうのだ。
イナサは死体になりたかった。
水の中で息ができなくなりたい。水の底で静かに横たわって、何もできなくなりたい。
海の底で死体になって魚に食べられるのを待つように、深海のそこで寝ていたいのだ。
光も音もない世界で、ただ静かに溺れて死んでいたい。明日とも知れない暗闇で、息も何もかも忘れて、死体になっていたかった。
肉は腐敗する前に食われ、骨さえも生き物のよすがにされて、消化されて、跡形もなく消えてしまいたい。
「イナサ」
だけどそう呼ばれると、イナサはたちまち己のカタチを思い出す。
水の中に消えていた意識が戻ってきて、イナサのカタチを作る。まだ消えていないと、息をしていたと思い出させる。
その声は本当に邪魔だ。
面白かった本の題名を読み上げるような、大事な名作を口にするような声で、いつも名前を呼ばれる。
毎回無視しようと思う。
なのに、その声だけがやけにはっきり聞こえて、イナサのいる深海まで声が届いてしまう。
だからいつも失敗してしまうのだ。
毎回、その声に笑って応じながら、もう名前を呼ばないでくれと、何度思ったかわからない。
イナサは死体でいたい。何もかも忘れて、骨も残らない跡形もなく消えて、腐る前に自然に還ってしまいたい。
イナサを、イナサと呼ばないでほしい。
その願いは、何度も離れては再会してしまう因縁の男に向けられている。
「……ナライ?」
だけどイナサはいつもそうして片眉を上げ、ぱちぱちと目を瞬いて足を止めてしまうのだ。自分を呼んだ男の名前を、確かめるように呼び返してしまう。
そのたびにしまったと思っては、適当な愛想笑いを浮かべて、へらりとしながらやり過ごす羽目になる。
犬か猫に呼びかけられるように愛着のこもった、それでいて愛玩動物にこちらに来いと命令するような響きに、イナサは今回も足を止めてしまった。
(おいおい、なんでこんなところで会うんだよ……)
イナサは驚きのあまり言葉を探して、口を開けたまま呆けた。
この男とは、音信不通になってもなぜかたびたび再会してしまう。
そういう宿命なのか運命なのか、お互いに消息も知れないはずなのに、ばたりと会うことがあった。もういいやと逃げ出すのはイナサのほうだ。そのときに、別にナライだって引き留めはしないし、探しにも来ない。
だというのに、イナサとナライの運命の糸は、なぜかたまにこうして絡まる。そのときに毎回、ぐちゃぐちゃに固まって、ほどくことも難しくなるから、イナサは面倒になって逃げだしてしまう。
(ここまで来ると、なんか運命を感じちゃうね、俺は)
へ、と口の端を歪めるように持ち上げて、イナサは笑う。
イナサがいるのは沖縄だった。
それも平日の夜である。普通の社会人なら、すでに寝ているような夜中だ。
そもそもイナサとナライは関東圏にいた。高校生のときに出会ったから、イナサはともかく、ナライの実家は東京にあることをイナサは知っている。
東京に住んでいるイナサが沖縄にいるのは仕事だが、目の前の不思議そうな表情をした男は、非常にラフな格好をしていた。観光客のようにカットソーを着ており、とても仕事で来ているようには見えない。
(そもそも、ナライの性格からすると、沖縄とかまで行くような仕事は選ばなさそうっつーか)
離れていた期間があるとはいえ、イナサはナライの性格をよく知っていた。考えはよくわからないこともあるが、顔を合わせれば、とたんにお互いにくっつきだす。
そのナライの性格からすると、あちこち出向くような仕事は選ばないような気がしていた。高校のときからナライはじっとしていることが好きだし、物静かで落ち着きはらっている。
今日も性格がその見た目に現れていた。
黒い髪にすこし色素の薄い眼。外回りをしたことがないような白い肌を見れば、外に出ることを好んでいないのは一目瞭然だ。切れ長目は、じっとイナサを見つめている。
(イケメンなのになあ……)
ナライは冷ややかさが滲むが、中性的で整った見た目をしているとイナサは思っている。頬骨がごつりとした、どちらかというと男っぽい顔は、雑誌のモデルのようだ。
彼はわずかに首をかしげて、イナサの言葉を待っているようだった。
「久しぶりだな、ナライ!」
引きつったような笑みで、時間を感じさせないようにイナサは手を上げて挨拶をした。
「イナサ?」
その呼ばれ方はなんだ、と言いたげに、隣にいた男が首をかしげる。
苗字に少しもかすらない呼ばれ方を不思議に思っているのだろう。
(あー……)
イナサがなぜイナサなのか、ナライ以外に、わかる人間にイナサは出会ったことがなかった。
そうして不思議そうな顔をされるたび、イナサはそのひとに対する興味が薄れていくのを感じてしまう。
(今日の夜はあわよくば、こいつと、と思ってたけど)
やめるか、とイナサは細い眼で見上げて、にこりと笑った。
「ごめん、古い友達なんだ。高校のときの同級生でさ。今日は久しぶりに話したい」
こんなところでばったり会うのも何かの縁だし、という言葉に、仕事相手でもある男は、そうだなとうなずいた。
「それなら、また今度」
「ああ、連絡してよ」
それは仕事の話だった。
ようやく打ち合わせが終わり、明日か明後日には帰ろうかと思っていた。
イナサは時間に縛られず、好き勝手生きている。一応雇われの身だが、上司にあたる人間は、ちいさな会社の社長を副業でしている。そのため、事業の実働をイナサに丸投げしていた。
イナサがどういう働き方をしても文句を言うような性格ではないうえ、利益が出ることすら期待していない節はあるほどだ。
だが、それでも任されたからにはできるだけの利益をだしたい。イナサはイナサなりに利益を増やしては、確実に会社を大きくしていた。
仕事相手である大柄な男が去っていくと、ぐい、と腕を引かれて、イナサは目を丸くして顔を上げた。
そばにまで来ていたナライが、いつものような無表情で、じっとイナサを見下ろしている。
(イケメンなのに、なんでいっつも久しぶりに会うとそんな表情なんだお前)
ナライは久しぶりに会うと、ひどい表情をしている。
まるで葬式に向かうかのような、恋人が死んで途方に暮れたような顔だ。
落ち着いた雰囲気どころか重々しい空気に、周りの人間が避けるようになっている。
はあ、と面白さ半分、呆れ半分の笑い交じりのため息をつくと、す、とナライの顔が近づいた。
「おいおい、ナライ兄ちゃん。久しぶりの再会だろ?もっと嬉しくしてくれよ」
イナサが手を伸ばしてナライの口の端を引っ張ると、ナライは首をかしげた。
「……お前は嫌そうだ」
「いっつも会いたくてばったりするわけ?お前」
会いたくてたまらないなら、イナサは連絡先を消さないし、この男の前から消えたりしない。
ナライだってそのことをわかっているだろうに、彼はそのまま顔を近づけた。
「……そうだな」
そんなわけない、という言葉の同意だろうと思うような言葉に、イナサはそうだろうと得意げに笑おうとして、失敗した。
ちゅ、と口づけをされたせいだ。
ナライの玻璃のような無機質な目が、じっとイナサを見つめていた。
(……やめろっていうのに)
イナサは、外であることも構わず、腕を伸ばした。
ナライの首に腕を回し、口を開いて彼の唇を舐める。
そうするとナライも口を開いて、お互いに舌を絡ませ合った。
イナサのことをよく知っている舌は、ずるりと口内をこするように動く。それが好きだとわかっている動きは当然気持ちがいい。
「ん……は、ぁう……」
ちゅぷ、と唾液を交換し合って、ごくりと飲み込むと、満足したようにナライが口を離す。ナライはぺろりと自分の唇をなめると、その眼を細めた。
情欲がちらつく色に、イナサは小さく笑った。
下から見上げるように顔を近づけて囁く。首筋を指先で撫でると、気持ちよさそうにナライが顔を緩めた。
「……なあ、お前、ホテルとってる?」
どうせ観光かなにかだろうと思って聞くと、ナライはこくりとうなずいた。
「でも今日はやりたくない」
はあ、と物憂げにため息をついたナライは、イナサの首筋に顔をうずめた。
「はあ!?ここまでやっておいて!?」
「うん」
「……冗談だよな?」
思わず顔を引きつらせて聞くと、くつりと喉を震わせてナライは笑った。
「本気だ」
「うわ、ねえわ。お前ホント最低」
はあ、と大仰にため息をつくと、ナライはイナサの腕を叩いた。
その動作にイナサが首に回した腕を解くと、ナライはがしりと手首をつかんで、歩き出した。
幸いにして周りに人はいなかったようで、イナサは腕を引かれながら、周囲を見渡して小さく息を吐く。
「おいナライ、お前のせいで俺はもう戦闘モードなんですけど?」
「仕方ない。平和条約を締結しよう」
「ほかを漁るから離せよ!」
そう言ったとたん、ぎちりと手首をつかむ手に力がこもった。
わずかに痛くなって、そのまま痛いと喚くと、ちらりとナライが顔を向けた。
「……俺ももう、若くない」
「そうだな、ていうかその原理でいくなら俺も若くないと思う。まあ、俺らが言ったらそこいらのハゲにはめちゃくちゃ怒られるだろうけど。ナライ兄ちゃんよ、俺がいくつか忘れたのか?」
「俺のほうが、ちょっとだけ生まれるのが早かっただけだ」
ナライとイナサの誕生月は同じだ。
そして二日だけ、ナライのほうが早い。
偶然会っただけの友人がそんなに誕生月が近いのがおかしくて、イナサはふざけて兄と呼ぶことが多かった。
「二日な、二日!ていうか、にいちゃーん?腕がいたいんですけどー?久しぶりなのに本当にお前はやさしくな、」
「もう、お前に捨てられたくない」
突然言われた言葉に、イナサは目を見張った。
「……」
そしてイナサは、言葉を失った。
「……な、ら」
かさついた唇からこぼれた呼び声は、その先にどんな言葉を乗せようとしたのか。
イナサ自身もよくわからなかった。
しかしイナサが何かを言う前に、言葉はさらに続いた。
「お前がいない人生を、生きていけない」
(……ああ、死んでいればよかった)
その言葉に、イナサはうつむき、心の底から生きていたことを後悔した。
(なんでもっと早く、死んでなかったんだろう)
水に溺れで溺死していればよかった。
死体は海に捨て、二度と戻ってこないようにすればよかった。
この男が、土の下のイナサに縋らないように。
「……なに言ってんだよ」
そうして絞り出すのが精いっぱいだった。
けれどそんなことを言う時ですら、イナサの顔はへらりと締まりなく笑う。
一度絞り出せば、その言葉をばかばかしいとイナサは笑い捨てた。
「お前、結婚してねえの?だったらはやく結婚でもしろって。寂しいからそんなことを思うんだよ。いいじゃん、嫁さんに子供に、孫までできれば家族いっぱいだろ?そうすれば寂しくない」
自分なんかいなくても問題ないだろう。
そういう声は、震えもしなかった。
イナサはいつも通りだ。
いつも通り、この男に彼女を作ることを勧め、自分以外を選べと言う。
ナライはイナサがいなくても平気なはずだ。だって高校生まで、少なくとも出会うまではイナサはそばにいなかったし、その消えたあとも、イナサがいなくても平気だったのだ。
「もう、それは終わらせた」
ナライは静かにつぶやいた。
その言葉に、イナサは思わず目を丸くした。
「はあ?」
「彼女を作って結婚して離婚した」
「……待ってくれ」
そう言ったのに、ナライの歩みは止まらなかった。
「おいナライ!」
「お前が言ったんだろう、前に」
低い声でぽつりとつぶやかれ、イナサは絶句した。
(ああ、言った、言ったけど!)
イナサがこの男と前にしばらくいたときは大学生だった。
その時、相変わらずイナサとナライは体の関係があった。
そばにいると、ナライが手を出してきて、イナサも拒否しない。だからなんとなくいつも、触れ合ったり抱き合ったりしていた。
でも、付き合っているわけではなかった。ナライに甘い言葉をささやかれることもなく、イナサもそんなことを言ったことはない。
そもそもイナサには当時、彼女がいた。
イナサはそんなことはへっちゃらだった。倫理観なんてものはどこかに置き忘れていた。彼女とセックスもしたし、ナライにも抱かれた。
そんなことは、死ぬよりもどうでもよかった。
誰にどう扱われようが、イナサは気にしていなかった。
でも彼女はかわいいと思っていたし、イナサはそれなりに大切にしていた。
(言うしかないんだよ!お前がいっつも俺をそうさせてる!)
眉根を寄せて迷いなく歩く背中を睨みつけながら、イナサは唇を噛んだ。
ナライは、近場のホテルに泊まっているようだった。建物は真新しく、室内は清潔感がある。受付にも寄らずに、新しい建物の中に入っていくと、ナライはエレベーターに乗り込んだ。
カードキーを操作しながら高層階を押されると、イナサは閉じられたエレベーターのドアに映った自分から視線をそらした。
清潔感のある重苦しい雰囲気の青年のそばにいるのに、イナサは不釣り合いだった。
人工的に染めた赤い髪は、不自然なほど発色の良い血の色だ。肩近くまで伸びた髪を前髪ごと後ろに撫でつけ、髪にあうよう、わずかに化粧をしている。
それでも元からの女顔じみた造りは消しきれず、白い肌も相まって、一見すると女か男かわからない。
耳元には左右でいくつもピアスが開いており、いくつ開いているのかイナサ自身でも覚えていなかった。おまけに今日は、片耳に花弁を模した女もののピアスを垂らしている。
性別もよくわからないほど派手な己の姿は、ナライとは正反対だ。
おおよそ彼が関わりそうもない見た目をしている。
(……なんでこれで俺を見つけるんだ)
前はこんなに派手ではなかった。
だが、ナライは、何事もないようにイナサの名前を呼ぶ。
「……なんで離婚したんだ」
かろうじてそうなじるようにつぶやくと、部屋のある階についた。静かな廊下を歩きながら、ナライは別に好きでもなかった、と素直に告白した。
「お前が結婚はしろと言うから、してみただけだ」
部屋のドアを開けて連れ込まれると、イナサは顔を歪めた。
「もうはっきり言うけど、お前、頭おかしいぞ」
「……そうだな」
ナライはそう言って、ばたんとドアが閉じた。イナサの手首をつかんだまま、ドアに押し付け、イナサの手首を指先でひっかく。
ざらざらとした傷跡を撫でる感触に、イナサは拳を作った。
「もういいだろう?」
ナライは顔を寄せて、耳元で囁いた。
「何がだよ」
ナライの声に、イナサは力なく顔を上げる。
見上げた男の黒い眼は、すこしだけ得意げだった。
「もうお前が言ったことは、一通りやった」
「バカ言ってんな、本気か、お前!?」
いつも、おかしくなっていくのはナライのほうだった。
高校を卒業した後、イナサはおかしくなっていたナライから離れた。
そして大学生になってもまた、ナライはおかしくなっていった。
いつもそうだ。
離れたていたことが間違いみたいに、二人でいると、気が付けばそばにいる。
高校の時もそう。大学のときは、お互いの家に入り浸った。
長い時間を埋めるようにくっつきあって、そのくせ、ぐしゃぐしゃに糸が絡まり、イナサはナライをおかしくさせる。
「お前は結婚して子どもを作って、家族に囲まれて、」
「それで、お前を忘れて生きろと言うのか」
「当たり前だろ!お前、だってお前、もう高校生じゃない、いい年した大人だろうが!!」
「それはお前も同じだろう」
その言葉に、イナサはかっとなって手首を振り払った。
「同じなわけねえだろうが!お前はきちんとした家のきちんとした人間だったろう。なんもなかっただろうが!それをちょっと遊んだくらいで、なんでこんなことになる!?おかしいだろ!」
ああ、死んでしまいたい、と心の底からイナサは思った。
どうして早く死んでいなかったのか。手首だけでなく、首を切るべきだったと、イナサは己の選択を悔いた。
(今からでも遅くない。そうだ、このあと、海に身投げしよう)
東京になんて戻らなくていい。
ここで死ねばいいのだ、とイナサが思ったとき。
「イナサ、」
低い声が、そんな思考を、打ち消した。
色素の薄い玻璃のような瞳が、ただじっと、イナサを見ていた。
「今日は偶然ばったりじゃない。俺はお前を、探していた」
「な、」
その言葉に、イナサは驚愕のあまり、顔が引きつった。
「俺は、お前がいなくては、生きていけない」
ナライは、そう言って、そっとイナサの体を引き寄せた。
離れていた魂を、体の中に戻すように、硬い手がイナサの肩甲骨をそっと押す。自分の体の中に戻したいとねだるような動きに、イナサは泣きたくなった。
「ひとりだけでは無理だと、ようやく決めた」
抱きしめられながら、やっぱり早く水死体になっておくべきだったと、イナサは心の底から後悔した。
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