第4話 フロリダからアリゾナへ

「お兄ちゃんはもとお金を使うべきだと思うの」

「貯金しているだけのお金は、意味がないよ」

「なんだ突然に」

 二月、スプリングトレーニングが始まる前に、直史はフロリダにやってきた。

 もちろん瑞希も一緒であり、子供たちも揃って来ている。

「子供の世話なんてシッターに任せて、お兄ちゃんは夫としての役割を務めるべきだと思う」

「子供の離乳食を作ったり、自分で食べさせたりは、確かに面白いかもしれないけど」

 どういう文句のつけ方だ。


 直史は典型的な田舎の長男として育てられた。

 基本的に家事などは、あまりしてこなかっただろうと思われることがある。

 確かに両親は共働きであったが、祖母がいたために食事などは作ってもらっている。

 しかし田舎においては、子供でもしっかりと家庭内で仕事をさせる。

 さらに大学とプロ一年目は、寮で暮らしてもいる。

 現在の家においては、遠征の多い場合はどうしても、瑞希が家庭内のことをせざるをえない。

 だが日本時代は、普通に掃除などは直史の担当であったりした。

 田舎の年末の大掃除は、男衆も総出で色々と片付けるのだ。


 佐藤家の古いほうの家などは、いまだに障子が使われている。

 数年ごとの張替えなど、むしろ瑞希はしらなかったりした。

 梅酒を造ったり、梅干を作ったり、味噌を作ったり、餅をついたり。

 これらにおける肉体労働は、普通に田舎の農家ならやることだ。


 直史は黙々と家事も育児もやる人間で、そしてツインズは美味しいところだけは自分でやって、難しいところはプロに任せる。

 育児に関しては自分たちのような、他人に厳しい人間がやるのは、ちょっと問題が起こるかもと思っているのだ。

 むしろ大介のいることがいないため、この二人は父親役のようなことを、家庭ではやっていたりする。

 何でも出来るのと、何でもやるのとは違う。

 それがツインズの教育方針である。


 もちろん直史も、全部が自分で出来るとは思っていない。

「真琴にも何か、習い事をさせようとは思っているんだが」

 とりあえずピアノとバレエと水泳をやらせてみて、何かやりたいと思ったなら続けさせようか、という考えである。

 三つもやらせるのか、と思ってはいけない。

 四つも五つもやらせてみて、望んだもののみを残す。

 そういうことに直史は、金をかけようと思っている。

 子供の教育、特に単純な勉強以外に金をかける。

 直史はそういうタイプの教育が重要だと思っている。


「なんならサッカー教えようか?」

 などと言っているのは、今回も参加のアレクである。

 野球のみならずスポーツだったら万能系のアレクは、ブラジル出身なだけあって、普通にサッカーボールの扱いは巧みだ。

 そっちに進まなかったのは、サッカーがコンタクトの多いスポーツで、壊されることを恐れたこと。

 その身体能力のスペックに、空間把握能力、咄嗟の機転なども考えれば、サッカー選手になっても大成したかもしれない。

 だがアレクがサッカーではなく野球を選んだのは、やはり日本人の血があったからとも言える。


 ただ南米はかつてのような、サッカー王国ではない。

 才能は全て、ヨーロッパのクラブに引き抜かれてしまう。

 それが関係しているわけでもなかろうが、アレクは野球をしている。

 将来的には両親や兄弟なども、アメリカに呼びたいと思っている。

 これが南米流の、アメリカンドリームだ。


 ブラジルにそのままいてはいけないのか、と直史は思ったりした。

 だがアレクが伝えるのは、南米の治安の悪さである。

 中南米の国の都市は、治安が本当に悪い。

 日本で一番治安の悪い都市が、中南米の平均よりはるかに良い。

 別に日本を賞賛するとかではなく、それが現実なのである。

 アメリカという国にしても、成功者であるアレクは、確かに暮らしやすい国になっている。

 だが中南米と同じく、簡単に銃で人が死ぬところは、潜在的に恐ろしい場所なのだ。


 本当ならば日本に行きたい。

 だが日本は三つの理由で移民するのは難しい。

 一つには単純に、条件が厳しいということ。

 もう一つは言語がほぼ日本語で、強いて使われるのが英語だということ。

 そして最後に、日本という国家の閉鎖性が挙げられる。

 客人として、特別な存在としているなら、日本という国は悪くない。

 だが当たり前に存在するには、難しいのが日本という国なのだ。

「上杉さん、早く政治家になって、日本を住みやすくしてほしいね」

「難しいだろうな。政治でどうこうなるものではないと思うし」

 直史は現実的だ。

 そして自らが保守的なだけに、保守的な思想も分かる。 

 もっとも直史の外国人との付き合い方などを見ていると、むしろリベラルなのではと感じるものなのだが。




 大介、アレク、樋口と厄介なバッターに対して、直史はボールを投げていった。

 スタジアムを借り切って練習をしたりする。

 随分と豪勢な金の使い方のように思えるが、一日借りても1000ドル程度。

 スプリングトレーニングの開始まで、一ヶ月を貸切にしても、3万ドル。

 300万円は高いのか安いのか。

 それによってどういう成績を残す結果になるかで、高いか安いかは決まる。


 大介の金銭感覚は、高校時代とNPB時代の、その中間あたりにある。

 無駄に金を使うことは避けるし、贅沢も避ける。

 だが自分が自由に使える時間を確保するためには、やはり使った方がいいのだ。

 金でどうにかなるものは、基本的に金でどうにかしておいた方がいい。

 もちろん無駄に金を使えというわけではない。

 金を使うことによって、人間が手に入れることの出来る、最大の財産。

 それは時間だ。


 時間というのも、いくつかの意味がある。

 単純に自分がやらないといけないことを、他の人間にやってもらう。

 あるいは移動や手続きなどを、スピーディーに済ませてしまう。

 もう一つの意味では、若さというところか。

 人間30歳を超えると、もう単純にパワーの上限値は見えてくる。

 もちろん技術でそれを補うことも大切だが、若さを保つためには生活を管理することが重要だ。

 野球選手などというものは、時間があれば練習、トレーニング、研究をして、若い間にどれだけ成長できるかが鍵となる。

 大介に比べれば直史は、自分で出来ることは自分でやっていく習慣にしている。

 それは大介よりも先に、この世界からは引退するからだ。


 この生活のサイクルを持ったまま、一般人の生活をする。

 それはとても危険なことだ。それこそまさに、引退したプロスポーツ選手が破産する、理由の一つになるだろう。

 引退したプレイヤーが破産するのは、それまでの金銭感覚を捨てられないからだけではない。

 それまではずっとその競技にかけていた時間を、他の何にかければいいのか分からないからだ。

 ひりひりとした勝負に慣れていたスターは、ギャンブルなどにはまったりもする。

 だがそれよりは大きな金額を動かす、ただそのものに価値を見出したりするのだ。


 直史はだいたい、ザ・パーフェクトと呼ばれることが多い。

 だがその本来の仕事から、ジャッジメントなどと呼ばれることもある。

 弁護士であって判事などではないのだが、法律の担い手であることは確かであろう。

 引退してからの方が、自分にとっての本当の人生。

 それを本当の意味で理解しているのは、短い間であったが既に、弁護士として働いていたからだ。

 

 このあたり大介の場合、引退したらどうするのか。

 アマチュアの高校時代から、大介の生活と言うか、人生の中心には野球があった。

 もっとも実際にその時になれば、ツインズが色々と用意するのだろう。

 大介の野球の才能ではなく、大介そのものを選んだのがツインズだ。

 ただスポーツ選手はその肉体をもって、金を稼ぎ人々を熱狂させてきた。

 それが引退して、すぐに他の道を歩けるものだろうか。


 おそらく大介が引退してからの人生は、それまでの人生と同じぐらいの長さになる。

 大介はいつも、遠すぎる未来を見ようとはしていない。

 目の前のことに挑戦し、そしてそれを越えていく。

 直史のような人生を、最初から俯瞰で眺めている人間の方が、希少なのである。




 コントロール全般は、ほぼ戻ってきた。

 だがほんの少しではあるが、10球に一球ぐらいはわずかにコントロールしきれないボールがある。

 普通ならそれぐらいは、許容範囲であるのだろう。

 しかし元の直史であれば、失投などは一試合に一つもあるかどうか。

 失投を打たれて一発ともなれば、後悔してもしきれないというものだ。


 本人は満足していないが、周囲は既に呆れている。

 左手で投げたボールが、しっかりとコントロールされた変化球であるのだ。

 野球の多くのプレイは、左右が非対称。

 それをあえて両方でやることで、体のバランスを整えている。


 ピッチャーなどは肩肘をはじめとして、完全に片方しかいらないように思える。

 実際に筋肉などを鍛えるのは、直史も違うと思う。

 単純に左で投げることで、体軸をしっかりと意識するのだ。

 するとピッチングでの体重移動で、どのように体全体に軸があるのかが分かる。


 軸を意識している間に、直史はより肩肘に負担がかからない投げ方が分かってきた。

 この一年で潰れてでも、全力を尽くすつもりなのは変わらない。

 だがより負荷がかからない投げ方が分かったのだ。

 その投げ方で全力の負荷をかければ、どういう結果が出てくるのか。

「うわ」

 スピードガンを持っていた椿が、直史のストレートを計測して驚いていた。

「155km/h出てるけど」

 こういうことになるのだ。


 クラッチ式とアーム式では、クラッチ式の方が肩肘への負担は少ない。

 だが今では一概にアーム式が悪いとも言えず、梃子の原理を使うようにして投げれば、しっかりと力が伝わって球速が出る。

 しかし直史は体の一番の体軸から、まず体を動かしている。

 ボールを持った肘は、途中までしっかりと折りたたんで、遠心力が最初からはかからないようにしてある。

 だが体が開く寸前にはその腕を伸ばして、遠心力もかける。

 結局のところ遠心力は使うが、ほんの一瞬でいいのだ。

 その一瞬が、肩肘に強烈な負荷をかけるものではあるのだが。


 直史自身は、やれることをやっているだけであった。

 だが周囲から見ると、あれだけ完成したピッチャーが、さらに完成度を上げてくる。

 しかも今まではあまり力を入れていなかった、スピードの部分で。

「これは役に立たないな」

 そしてあっさり、スピードを捨ててしまう。


 なんでやねん、と周囲が頭を抱える。

 その中で樋口は、冷静に判断していた。

「それでも負荷がかかりすぎるのか?」

「そうだな」

 直史が求めるスタイルは、とにかく省エネで投げるスタイルだ。

 アナハイムのピッチャー事情は、この二人が一番よく分かっている。

 スターンバックとヴィエラ、二人の抜けた穴を、安定して埋められるピッチャーを揃えるのは無理だ。

 だがそれでもレギュラーシーズンで、確実にポストシーズン進出を狙うために出来ること。

 それは直史が、中四日で投げることだ。


 去年は場合によっては中四日、という状況で投げていた。

 だが完全に中四日で投げれば、あと一人分の戦力にはなる。

 なぜならそれは、直史の勝率が関係している。

 100%試合で勝てるエースが、五勝分の勝ち星を得たなら。

 それは10勝5敗のピッチャーがいるのと、ほぼ同じような意味を持つ。

 実際のところはもう少し複雑な話になるのだが。


 完全に中四日で投げるとなると、おおよそ35試合に登板することになるか。

 さすがに投げさせすぎだと、周囲がうるさくなってくるかもしれない。

 直史がいくら努力し節制していても、人間であればどうしようもない、限界というものがある。

 それは細胞の老化だ。

 若い頃のような回復力は、必ずなくなってくる。

 ペース配分をしてレギュラーシーズンを乗り切るのが、先発のローテとしては重要なことなのだ。

 そしてポストシーズンでは無理をする。

 もっとも無理と言っても、去年のようなものと変わらない。

 大介以外はなんとかなるだろう。




 そして二月も中盤、スプリングトレーニングの開始時期となる。

 バッテリー陣は野手より先に、アリゾナへと移動である。

 大介とアレクだけは、まだ自主トレをするつもりらしい。

 もっとも大介の場合は、先にスプリングトレーニングに合流するのかもしれないが。


 アリゾナのテンピに移動した二人は、まずメディカルチェックを受ける。

 直史はやはり、知らない顔が多いなと感じた。

 約30人のピッチャー。

 この中でベンチに残るのは、12~13人ぐらいなのだ。

 直史と樋口の一致した見解としては、ローテのピッチャーがあと一人、そしてリリーフが二人はほしいな、というものである。

 実績のあるサウスポーのボーエンとは契約したが、二人は彼のピッチングは見ていない。

 そして直史が見る以上に、直史は見られていた。

 羨望、憧憬、嫉妬、敵愾心。

 半分ぐらいはそんなもので、残りは畏敬。


 二年間でレギュラーシーズン62勝、ポストシーズン10勝。

 他にホールド二回にセーブを二回記録している。

 そして敗北がたったの一度。

 ただの敗北ではなく、伝説的な幕引きの敗北だった。


 ピッチャーであればあそこは、大介を敬遠していれば勝っていたのだと分かっている。

 それに大介が、一試合に三度も三振をしたのは、あの試合だけであった。

 とてつもなく高いレベルでの、ピッチャーとバッターの対決。

 ほんのわずかの差が、勝敗を分けたのだ。


 とても人間とは思えない成績を残しているが、ここにいるピッチャーの中では、ほぼ最低の身長と体重。

 特に身長なら直史より低い者はいるが、体重で軽い者はいない。

 だが、だからこそ恐ろしい。

 外見からはそうは思えない化け物。

 大介にもそれは同じことが言える。

 身長はともかく体重は、スピードボールを投げたり長打を打つには、絶対に必要なことのはずだ。

 しかし二人には、その常識が通用しないのだから。


 直史はともかく大介は、もう何度となくドーピングの検査を受けている。

 それで聞かされたのが、治療用の薬の中でも、ドーピングに引っかかるものがあるということ。

 そしてそこから派生した話であるが、今もアメリカではドーピングが普通に行われている。

 そう言うと語弊があるかもしれないが、禁止薬物に引っかからない、そして副作用のないサプリメントなどは、普通に開発されている。

 極端な話をすれば、プロテインの摂取にも何かの問題が起こるのかもしれない。

 そもそもアスリートに必要な栄養を摂取し、さらにサプリなどの恩恵も受ける。

 そこへさらにドーピングなどしていては、結局スポーツの格差も、金の格差になるのか。


 ただアメリカにおいては、ドーピングへの忌避感が大変に強い。

 実際のところは旧東側のドーピングを、問題視したからこその、今の状況があるのだろうが。

 スポーツによってはドーピングの検査などはない場合もある。

 もちろん今ではそんな競技は、ほとんどなくなっているが。

 MLBもドーピング検査で陽性になった人間は、当時はまだ禁止ではなかったとしても、殿堂入りが阻まれたりする。

 このあたりはアメリカも、珍しく潔癖であろう。

 ただアメリカというか欧米の文化は、ルールはちゃんと守るのだ。

 もっともそのルールを変更することに、さほどの忌避感がないだけで。

 ルールを作る者とルールを守る者が戦えば、どちらが有利になるかは言うまでもない。

 一方的にルールを作ってきた欧米社会への不満、たとえば某国の「約束は守らなくて当たり前」というのも根本的な不公平感から発生している。

 もっともそれを通していると、結局は先行している者からの攻撃を受けて、追いつけないことになるのだが。

 なお後追いでありながら、唯一と言っていいほど、欧米を上回っているのが日本だ。

 単純な経済力では中国に抜かれ、どんどん先端技術でも追い抜かされているように見えるが、現実を色々な視点で見てみれば、そう単純な話ではなかったりする。




 明日からが本格的に、スプリングトレーニングの開始である。

 MLBの場合は家族も一緒で、キャンプに参加している選手もいる。

 直史と樋口もそうであるが、夜には二人でバーになど行って、弱いアルコールをちびちび飲みながら話し合っていた。

「本当に、今年で引退するのか」

「ああ、やっと日本に帰れる」

 色々と理由はつけていたが、直史がMLBでプレイしない理由はただ一つ。

 自分自身へのストレスにある。


 契約によりMLBに来ている直史であるが、アメリカで生活するということ、アメリカでプレイするということ。

 これはプレッシャーと言うよりは、ストレスになっているのだ。

 直史は否定するが、間違いなく完璧主義者だ。

 完璧主義者と負けず嫌いが重なると、上手く働けばその分野で、多大な成果を残すことになる。

 しかし直史は、MLBを金目的と割り切っていないがために、他にモチベーションを必要とした。

 それが大介との約束なのだ。


 NPBでプレイしていたのなら、まだしもストレスはなかったかもしれない。

 大学時代から東京で、そして神宮でプレイしていたのだ。

 一時期の断絶はあったが、プロでプレイすることも、それほどの違和感はなかった。

 二年間で50勝した直史。

 おそらく三年目もNPBでプレイしていたら、80勝に到達していたかもしれない。


 実家にも近く、瑞希は仕事が出来て、そして子供たちの世話も見てもらえる。

 そういう状況であれば、ひょっとしたら延長もあったのだろうか。

 少なくとも直史としては、あと一年だからという理由があるから、今を耐えることが出来る。

 いくら給料が良くても、精神を病むようなブラックであれば、それは辞めた方がいい。

 直史の思考としては、そういう計算になるのだ。


 そういえば、と直史は逆に樋口のことを考える。

 日本においてストーカー被害に遭い、それから逃げてきたのが樋口だ。

 ただ根本的に治安というのは、日本の方がいい。

 そしていずれは日本に帰るのだろうが、そのあたりはどうなっているのだろうか。

「上杉さん次第だし、あとは人脈次第かな」

 樋口としてもメジャーリーガーという生活は、あまりいいものではないのだ。


 将来的には樋口は、上杉のために働くと決めている。

 何が一番上杉のためになるかを考えたが、出来れば日本において、伝手やコネを作っておいた方がいいのだ。

 海外からの影響力を作るというのは、ちょっとした裏技に近い。

 アナハイムはロスアンゼルスに近いが、それでもある程度は離れている。

 メジャーリーガーの忙しすぎるスケジュールでは、伝手もコネも作りにくい。

 もっともその短い時間に、樋口は色々としているのだが。


 アメリカに来て彼が変わったのは、女に手を出さないようになったことだ。

 だがそれは、彼の性欲が薄れたとか、倫理観が上昇したとか、そういうことが原因ではない。

 日本人女性とアメリカ人女性の、衛生観念の違いとでも言おうか。

 要するにアメリカに住む女性は、樋口の食指があまり反応しないのである。


 なんという人種差別主義者、あるいは民族差別主義であろうか。

 樋口は日本にもいる、頭のあっぱらぱーなタイプの女と、アメリカにおいては関係を結びたいと思わないのだ。

 有名人の中でも近寄ってくる者はいるが、そこはもう日米の価値観の違いと言えばいいのか。

 要するに樋口の好みに合う女性が全くいないため、浮気をすることがない。

 どういう理由だ、と直史は笑ったものである。




 樋口としてはMLB自体には、直史と同じようにそれほど魅力を感じない。

 だがアメリカという国家の先進性には、それなりの魅力を感じている。

 経済学部ではなかった樋口であるが、金融の知識などはそれなりにある。

 もしも引退したとしても、しばらくはこちらで過ごしてもいいのではないか。

 そんなことを考えているらしい。


 日本とアメリカの違いに、ダイナミックな動きというものがある。

 日本でももちろん、積極的に動く企業人がいないわけではない。

 しかしアメリカは国民的な体質として、有能な働き者が、たくさんいるのだ。

 年俸の使い道は、樋口としてはまず生活費や、将来の子供たちの教育費を考えている。

 だがそれ以外のほとんどは、運用してしまっても構わないのではないか。


 このあたり直史は、保守的と言うか消極的だ。

 基本的に資産運用は、地味で堅実的なことだけをしている。

 第一に重要なのは、自分が色々と動き回らなくてもいいこと。

 もっともそれよりも重要なのは、資産の目減りを防ぐことであるが。


 アメリカは巨大な国家で、金融においても巨大な市場である。

 金がある者で、ある程度の頭があれば、普通に元の資産から、暮らしていけるだけの収入は得ることが出来るのだ。

 もっともそういうアメリカの金持ちは、意外なほどに質素な生活をしていたりする。

「うちは妹たちはともかく、俺は疎いからな」

「それはそれでいいと思うぞ」

 樋口としては、直史の生き方も堅実だとは思うのだ。

「強いて言うなら現金のある程度は、金に替えておけばいいぐらいかな」

「ああ、インフレ対策とかか」

「今の日本の市場だと、一度高騰は収まっているからな。けれど金の価値は基本的に、ずっと値上がりが続いている」

「それは聞いたことがある」

「お前のところは不動産があるから、それはそれで現実的な資産だとも思うがな」

 忘れてはいけないが、直史の実家は土地はたくさん持っている。

 農地であったり田舎であったりで、それほどの価値はないのだが。


 本格的なキャンプを前に、なぜか資産運用の話などをしている。

 おそらくそんな話題がメインになるのは、この二人だけであるだろう。

「俺はどうにか、10年間MLBでプレイしたいな」

「それだけプレイしていたら、年俸もかなり高騰するだろうな」

「それもあるが、10年MLBでプレイしていたら、MLBの年金が満額出るんだ」

 NPBと違いMLBには、選手への年金というものがある。

 もっともその条件は、かなり厳しいものだ。

 金額は10年プレイしていれば、およそ年間20万ドル。

 選手時代に比べればはした金に過ぎないが、それでも一家が食べていくには充分すぎる。

 しかもこの金額は、最強国家アメリカ様のドルベースなのである。


 直史は本業が弁護士である。

 そして弁護士は、専門家ではないが税金や年金などの問題にも強い。

 日本の弁護士は、基本的に自営業者が多い。

 もっとも大手弁護士事務所は、会社として経営されているのだが。

 なので将来的にはどう年金を増やすかなど、色々なことを学んでいる。

 実は漫画家や小説家、芸術方面の人間に向けた、特殊な年金もあるのだ。

 別に年金でなくても、還付型の保険などもあるのだし。


 これが直史にとって、MLBでのラストイヤー。

 そしてプロ野球選手としてのラストイヤーになるはずである。

 だがその開幕を前に、バッテリーが話し合っているのは、野球には全く関係のないことであった。

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