第3話 道程

 直史は反省していた。

 相手に良かれと思っていたことだったが、実際は一番いいのは、最初から三年しかMLBではやらないと、この交渉の最初に言ってしまうことだったのだ。

 ならば若林も、早々に他の仕事に入れたわけであるし。

 さすがに「わざわざ日本まで来たのに」と言われたら「呼んでない」と反応するだろうが、彼の時間や球団フロントの時間を奪い手間をかけたことは、自分の不義理であると思っている。

 価値観の違いを、直史は理解していなかった。

 ただフロント側も、一般的な価値観で考えすぎていたことは確かである。

 最初から、家族のために三年で日本に戻ると言っておけば、一番角が立たなかっただろう。

 それで納得せずになおも交渉しようとしたなら、それはさすがにフロントの問題だと思う。


 ともあれ契約についての問題は、12月中には片が付いていた。

 色々と問題は残していたが、直史としてはそれよりも、重大なことがあった。

 それは過去に一度だけ経験していたこと。

 極端なコントロールの乱れである。


 大学時代、一度だけ球速の限界を高めようと、トレーニングを重点的にしたことがある。

 その結果は確かに、10km/h近い増速となっていた。

 しかし練習では問題なかったのに、本番のマウンドではフォアボールを連発。

 あの試合の結果のおかげで、直史の大学時代の成績は、ほんの少しだけ人間味を残している。

 もっとも16四球でノーヒットノーランという、世にも奇妙な記録が生まれてしまったりもしたのだが。


 年末はすっかり、佐藤家で過ごすことが決まっている大介も、心配そうな顔をせざるをえない。

 キャッチャーとして受けてみても、ストレート以外の変化球は、どうにかゾーンに入れるのが精一杯。

 これが、限界を超えた代償なのか。

 一方の大介も、似たような問題は発生してたのだが。

 疲れただけなのは武史である。


 SBC千葉において動作解析をしてもらえば、完全に体のバランスが崩れているらしい。

 なにがそんなに問題なのか、それはさすがに分からない。

 ただバランスを取るなら、三半規管の問題ではないか。

 直史はバランスボールなども使って、体軸と体幹の異常の把握に努めた。

(これは……まずいな)

 だが上手くいかない。


 以前の乱調時には、すぐに戻すことが出来た。

 だが今回はそうはいかない。

 実家の庭に作ったマウンドで、投球練習をする。

 季節も季節であるので、たっぷりとアップをした上での話だ。

 時間をかけてSBCまで行って、トレーナーと話し合って調整をする。

 だがどうしても、ストレート以外のコントロールがつかないのだ。


 SBCにいるキャッチャーに、ブルペンで投げる。

 その構えたところに、完璧に決まる。

 150km/h近くは出ているスピードで、そのコマンド。

 これのどこが調子が悪いのだ、と周囲の人間は思っただろう。

 だが直史は、ストレートなら1cm単位でコントロール出来て当たり前。

 変化球でも狙ったミットに入れるのが当たり前。

 速度、変化量、角度まで。

 それが出来なくなっている。


 そのあたりのコントロールの技術を身につけたのは、基本的に高校一年生の時。

 セイバーの指導と言うか、セイバーの用意してくれたコーチの指導と、ジンによるものだ。

(仕方ないか)

 直史は久しぶりに、かつての相棒に電話をかけた。




 高校野球の監督というのは、とてつもなくブラックな職業であることが多い。

 普通の野球部であってもそうだが、特に私立の強豪など。

 業務の内容が多いということもあるが、それ以上に大きいのはプレッシャーだろう。

 強豪で、しかも名門。

 そんなチームの監督に、他で実績を上げているとは言え、OBでもない人間を。

 ジンはそういう環境で、帝都一の監督をやっている。

 確かにプロにまで送り込むほどの選手を育てたら、巨大な利権に絡める。

 そこで大きな収入を得ることも出来る。

 だがこれは全て、特殊な職業である。

 はっきり言って重圧に対して、報酬が釣り合っているかは微妙なところだ。

 それでもこんな因果な仕事をしているのは、情熱と野心があるからだ。


 帝都一の野球部グラウンド近くに、学校職員の宿舎はある。

 ジンは家族でそこに入っていて、ほとんど毎日、休みなく働いている。

 拘束時間で武史は、MLBをブラックだと言った。

 だが高校野球の監督に比べれば、はっきり言って屁でもない負担なのだ。

 好きで、面白くて、たまらない。

 高校野球に魅せられて、己の人生を捧げてしまう。

 そんな仕事が、甲子園を狙う高校で、野球部の監督をするということである。


 正月三が日は、さすがに選手たちも親元に帰る。

 だが監督であるジンは、正月に実家に顔を出して、そのまま宿舎に戻ってきた。

 選手たちに何かあれば、すぐに対応する。

 そのためには第一に、学校にいないといけない。

「まあそんなわけだから、設備も使えるわけだけど」

 今でもたまにキャッチャーをするジンは、プロテクターを装着し、室内練習場にやってきていた。

「今さら俺が見て、何かに気付くかなあ」

 大学野球までは、直史のピッチングを見ていた。

 だが樋口と組んでから、明らかに直史のピッチングのクオリティは上がっている。


 正直なところ、樋口が新潟に帰っていなければ、付き合ってもらったかもしれない。

 だが自分のピッチングの、根本的なところが崩れている。

 そんな場合はやはり、大元に帰るのがいいのであろう。

「わざわざ時間を取ってもらって悪いな」

 直史としては、ジンの多忙さは承知の上である。

 そして本来ならまずいことにも、手を突っ込んでいる。


 現役の高校生選手たちの画像を見て、彼なりのアドバイスをするということ。

 直接指導ではないので、ギリギリセーフと言えるかもしれない。

 だが監督を通してでも、現役のプロ野球選手が指導をするというのは、知られれば問題ない。

 そして直史は法律は基本的に守るが、罪にならない法律は破るし、高野連の規則は法律ではない。

 この場合の直史が優先するのは、道徳である。

 より自分のレベルを上げたいという、純粋な高校球児の気持ち。

 それを尊重するために、規則を破ることには、別に躊躇などなかった。




 なるほど、とジンは頷いた。

(確かにスピードもキレも、大学時代からは比べ物にならないけど……)

 何か、直史のもっと、根本的なところが、確かにジンの知るものとは違うと思う。

 そう考えて、スルーを要求する。

 直史が飛躍することになった、最大の武器である魔球。

 プロ入りしてからはむしろ、使用頻度は減っている。


 他の変化球とは、全く原理が違うので、なかなかまともに打てはしない。

 だがこれを多用してしまうと、これだけを集中して狙ってくる。

 結局のところ大介に打たれたのも、このスルーであった。

 スルーチェンジであれば打たれなかっただろうに。


 話を聞いて、実際に球を受けて、なんとなくジンには分かってきた。

 ストレートのコントロールは、確かにほとんど乱れていないように思える。

 だが実際の球速を見れば、3~4km/hの幅で動いている。

 直史はストレートの速度も、1km/h単位でコントロール出来たはずだ。

 

 変化球の乱れが目立っているが、ストレートも完全ではない。

 まずは基本となるストレートを、完全に元通りにしなければいけない。

 140km/hのストレートを、全く同じスピードで投げる。

 そして同じコースへも。

 反復練習だ。

 昨今では長時間練習は悪、という風潮があるが、反復して何度もやらなければ、身につかないことはある。

 逆に繰り返すことによって、どうにか才能の差を逆転することもあるのだ。


 そしてもう一つ気付いたのは、左手で投げた時のコントロールの悪化である。

 左手で投げるピッチング練習は、今まででもずっと行っている。

 だがそれを、ここしばらくはやってこなかった。

(なるほど……)

 確かにバランスが狂っている。

「これである程度は、方向性は見えたんじゃないのか?」

「そうだな」

 大きく息を吐く直史である。

「ゲームのレベル上げを最初からやり直すってのは、こんな感じなのかな」

「最近のゲームはレベルは持ち越しで、強くてニュー・ゲームらしいけどな」

 ちなみに資金も持ち越しであったりする。


 ジンとの話によって、ある程度は問題点が判明した。

 あとはどんどん投げていくだけである。

 ただどうせ投げるなら、バッターに向かって投げたい。

 しかしそんな相手をしてくれるのは誰か。


 大介とツインズはアメリカに向かうだろう。

 スプリングトレーニングの前にフロリダで合流する予定だが、それまでにもバッター相手に投げたい。

 だがある程度ちゃんとしたバッターが、大量に揃う場所。

「なくはないだろ」

 ジンは日本の野球界なら、シニアからプロまで、だいたいの情報を把握している。

「クラブチーム、大学の草野球チーム、あとはそれこそ、NPBの自主トレ集団」

 確かに、投げる相手はいくらでもいるか。

「じゃあ今度はこっちを手伝ってもらうぞ」

 そしてジンは帝都一の選手たちの、各種データを持ってくる。

 特に助言を必要としたのは、ピッチャーに関してであった。




 実力があるからといって、全ての野球選手がプロに行くわけではない。

 性格の問題、将来性の問題、また怪我の後遺症など。

 直史がその気になって伝手を辿れば、ピッチングの相手になってくれるバッターは、いくらでも出てきた。

 かつては自分が所属したクラブチームや、大学野球の同好会。

 大学生であってもプロアマ憲章に引っかからないところに、プロ級の選手がいたりする。


 早稲谷をはじめとする六大学の野球同好会。

 大学の理不尽な野球部に、野球を見捨てた人間は少なくない。

 こちらから提供できるものは多いのだ。

 普通に、佐藤直史というのが、ブランドになっている。

 これの練習相手をするのに、金を払うどころか、無料で協力してくれる。

 大学の野球部に入っている人間には、参加できないサービスである。


 企業の社会人チームにも、同じようなことが言えた。

 現在の日本の社会人野球チームなどというのは、下手をすればNPBの二軍よりも、才能が揃っていたりもする。

 社会に出て、金をもらって働きながら野球をやるということ。

 そうして気付くのが、プロになっても全ての人間が、プロに携わった世界で生きていくわけではないということ。

 社会人チームであれば、安定して給料をもらえて、しかも引退後もちゃんと職があるのだ。

 社会人チームを持てるほどの余裕がある会社は、当然ながら一流企業であることが多い。

 そこで働いていくなら、不安定なプロの世界に入るよりもずっといい。


 プロで成功する圧倒的な自信などというのは、ノンプロの社会人のレベルを知れば、なかなか持てるものではない。

 社会人の中でも圧倒的な実力を持つ者や、ドラフト指名で意中の球団に入れなかったなど、ごく一部の選手は、そういった実力と自信がある。

 そういった一部の選手には、確かに今の直史では、ちゃんと打たれたりする。

「しかし面白いこと考えるね、お前も」

「足代まで出してくれて、それでなければこうやって送り迎えまであって、練習に付き合ってくれるというのがなんとも」

 本日の同行者は、これまた久しぶりの手塚であった。

 直史について取材するというマスコミと共に、千葉と東京を中心とした企業チームを回っている。

 いい選手がいるとすれば、クラブチームにさえも。

 こんなオフシーズンでも、こんな急な話でも、どうにかなってしまう。

 MLBの現役ピッチャーとの対戦というのは、それほどまでに価値があるものらしい。

「高校生相手とかも出来ればよかったかもな」

 プロアマ規定でそれは無理である。

「さすがに高校生では通用しないでしょう」

 昔は某球団が暗黒時代だった時、地元の○○高校の方が強い、などと言われたこともあったものだが。


 高校野球は、所詮は高校野球レベルである。

 甲子園に行くような名門の野球部の選手でも、大学野球や社会人では、通用しなかったりするのだ。

 もちろん中には、高校時代の西郷や樋口だの、そういうレベルの選手もいないわけではない。

 だが絶対値では確かに遜色なくても、平均値が明らかに違う。

「全盛期の白富東と、今年優勝した福岡が戦えば、どちらが勝つ?」

「ああ、それはうちが勝ちますね」

 うちが、と言うあたり直史も、やはり帰属意識は高校時代にある。

 今の自分になった、最大のルーツというのは、やはり高校時代の経験なのだ。


 手塚にとってみれば、直史が断言するのが、思わず笑ってしまうところである。

 考えてみれば全盛期の白富東からは、メジャーリーガーが四人も出ている。

 七戦勝負などをしても、下手をすれば勝ってしますだろう。

 そもそもMLBの中でもレジェンドレベルのパフォーマンスを残す三人がいるのだ。

 アレクと大介で二点ほどを取れば、直史と武史が完封する。

 確かに出来るだろうな、と手塚も思う。


 そこで手塚はふと思ってしまった。

「今年のお前らがリーグ優勝かけて対戦したミネソタ、あそこと全盛期の白富東が戦えば?」

「それは難しいかな」

 大介は高卒即戦力で、アレクもそうであった。

 それでも大介が完全にキャリアハイの結果を残したのは九年目だ。

 あるいは成績が飛躍的に伸びたのは、四年目と言えるか。


 高校時点での直史は、球速が140km/h代前半がMAX。

 武史にしても160km/hちょっとと、MLBのレベルでは厳しい。

 大学時代に確実に、成長はしていた。

 たとえば早稲谷は在京球団の二軍などとは、そこそこ練習試合はしていたのだ。

 そこでおおよそは圧勝していたのが、西郷と武史が在学していたのが重なる二年間。

 この二人がドラフトで競合したことを考えると、やはりあの時代の早稲谷は強かった。

 ただし大介はいないが。




 今日もまた、社会人チーム相手に、300球ほどを投げてきた直史である。

 練習とはいえさすがに投げすぎではないか、などと相手チームの監督は心配していたが。

 だが直史が今やっているのは、球速を上げるためのトレーニングではない。

 あくまでもただの調整なのだ。


 そしてこのやり方はいいな、と分かってきていた。

 技術的なものではなく、メンタル的なものだ。

 MLBのバッターのように、打てなかったら次を考える、という冷めた考えでは立ち向かってこない。

 天の上の存在であるメジャーリーガーのピッチャーと、対戦するという得がたい経験。

 一球ごとに何かを身につけようと、必死で考えてくる。

 そういった熱量は、むしろMLBのレギュラーシーズンよりも上かもしれない。


 MLBで二年、直史は既に、まともには打てない相手と諦められかけている。

 実際に32試合も先発で完投しておきながら、打たれたヒットは43本。

 被安打率などを計算したら、絶望的な数字になるのだ。

 もしもそんなピッチャーから打てたなら。

 もちろんバッティングピッチャーとして投げるので、ある程度は打たれることがある。

 それでも将来的にプロ入りを目指すバッターや、それでなくとも純粋に野球が好きという人間。

 必死で直史のボールを打とうとしてくる。

 それに対して直史は、とにかく誠実に正確に、対戦していく。


 二月に入れば、フロリダに行って合同自主トレに参加することに決めている。

 それまでにどれだけ、調子を取り戻すことが出来るか。

 直史は自分の人生を、振り返っているような気分になった。

 大学で野球をやるつもりであったが、ドロップアウトした者。

 これは直史にとって、本来の自分であった者に近い。

 そもそも直史は大学時代、野球を本気でやっていたとは思っていない。

 野球においてやたらと連呼される精神力。

 そんなものは全く必要なかった。


 直史には、身体的な素質はなかった。

 だが効率よく成長するための才能はあった。

 精神論を語るのは、技術で学ぶことがなくなってから。

 もちろん同時に精神論も必要ではあるが、セイバーの言っていたのは根性論ではない。

 メンタルコントロールの技術であり、直史はこれにおいては大介をも圧倒的にしのぐ才能を持っていた。

 そんなメンタルを支えるのは、一つには育った環境。

 直史は自分の精神の根底に、代々つながる家の血統があると思っている。

 そしてもう一つは、圧倒的な成功体験。

 直史は高校時代に、甲子園という舞台とワールドカップという舞台の二つで、これを手に入れている。


 それと直史には、余裕というものもある。

 これしかないと思い込み、自らにプレッシャーをかけて研鑽していくのも、一つのやり方ではあるだろう。

 だが実際のところ、日本の青少年の環境というのは、極めて恵まれている。

 アレクなどと話してみたり、アメリカの実情を見たりしていると、貧困家庭の人間が一発逆転という手段は、確かにスポーツなどの才能を発揮するぐらいしかなかったりする。

 日本は経済状況が悪化し、企業も昔ほどは儲かっていないなどと言っても、なんだかんだと生きていけるだけの仕事はある。

 それに対して他の国では、これで成功しなければ、あとは犯罪者になるしかないなど、極端な人間が多い。


 そんな日本人には、やはり根本的な部分で、ハングリー精神が足りない。

 だから下手にプレッシャーを与えるよりも、他の選択肢があるという余裕をもって、冷静に挑んだほうがいいのだ。

 かつては大学野球部などというのは、企業では営業として歓迎されたものだ。

 だが今ではもう、時代が変わっている。

 コンプライアンス案件で、根性だけでどうにかなるものではない。

 冷静に、合理的に、効率的に。

 そして勉強の方も忘れないようにというのが、現在の正しい高校野球だと、ジンなども言っていた。

 もっともそれでも、プロになるしかない、と考えている生徒はいたりするらしいが。




 直史はあせらなかった。

 中学時代の、何をしても勝てないという、泥沼のような絶望感。

 だがあれは、底なし沼ではなかった。

 別に勝てなくても、死ぬわけではなかったのだ。

 それから高校で、効率的で正しいトレーニングをした。

 大学野球はほとんど、自分でそれをやる延長であった。


 段階を踏んで、投げていく。

 まずはコントロールと、特にカーブ。

 速度、コース、変化量。

 ストレートとカーブだけでも、そのあたりのコントロールがはっきりしていれば、そうそう打たれないものなのだ。


 しかしMLBレベルになると、それだけでは足りない。

 直史はパワーピッチャーではないのだ。

 スライダーにシュート、チェンジアップにカットボール。

 それぞれの変化球が、徐々にコントロールを取り戻していく。

 球速は150km/hがMAXと、あまり重要視はしない。

 球速までが必要な対戦相手は、かなり限られている。

 大介と対戦する場合は別だが、他のMLBの一般的なバッターと考えた場合。

 ある程度は失点しても、試合に勝つことは出来るのだ。


 アナハイムのチーム編成の情報も、徐々に伝わってきていた。

 絶対に必要だと思っていた、先発を一人補強している。

 それもサウスポーで、スターンバックの穴は埋めたと言える。

 ただ戦力補強という点で言うなら、メトロズの方が積極的であろうか。

 一番から六番まで、かなりの長打も期待出来る打順を作った。

 だがクローザーに関しては、まだ決まっていないらしい。

 直史はさすがに、メトロズの資本力やGMの考えまでは知らないし知ろうともしない。

 とりあえず両方が、今年も勝てる戦力を揃えている。

 それで充分なのだ。


 この二年間で直史は、分かったことがある。

 MLBの場合、レギュラーシーズンで圧倒的に勝つことは、さほど重要なことではない。

 記録を更新するような勝ち星を上げていたアナハイムであるが、さらに上回る記録を残したメトロズに負けた。

 だがプロの世界で、日本時代も含めて四年、ようやく直史はレギュラーシーズンの戦い方の肝が分かってきた。

 それは勝つことを考えるのではない。

 いかに上手く負けることかが、重要なのだ。


 32戦全勝という直史がそれに気付いたのは、安静を命じられて、マンションでゴロゴロしながら敗因を探っていた時のことである。

 ワールドシリーズ、アナハイムは、圧勝する試合では圧勝し、そして僅差の試合を全て失っていた。

 僅差で負けるのは、選手ではなく首脳陣の責任。

 これが野球における常識である。

 過去のレギュラーシーズンで大きく勝ち越したチームなどは、意外とワールドチャンピオンになっていなかったりもする。

 全ての試合を勝とうとするのではなく、必要な試合を勝つ。

 トーナメントでもないのだから、それは当たり前のことなのだ。

 もちろん直史としては、自分が投げる試合では、一度も負けるつもりはないが。


 だが、負けた。

 レギュラーシーズン無敗の男が、ポストシーズンで一試合だけ負けた。

 そしてその敗北によって、ワールドチャンピオンを逃したのである。

 野球に関して分かっている人間で、ワールドシリーズ敗北の責任を、直史に求める者はほぼいない。

 それ以前の段階で、首脳陣の判断ミスがなければ、既に勝っていたからだ。

 四試合に投げて、四失点のピッチャー。

 これで責任まで押し付けられたら、たまったものではない。


 ワールドシリーズ全体で見れば、アナハイムは26-18とメトロズに得失点差で勝っている。

 優勝した去年は21-19であったので、去年よりもメトロズを抑えて、さらに得点は多くなったのに、それでも最終的には負けているのだ。

 四戦勝ったチームが、ワールドチャンピオンになる。

 一発勝負のトーナメントではないのだから、その点は非常に重要となる。

 無理な仮定であるが、アナハイムが大差勝ちしていた試合の点を、負けた試合に移せればどうなっていたか。

 もちろん優勝していた。

 だが試合は、一試合ごとに勝敗がつく。

 だから無理なのだ。


 本当に?


 これは直史が考えることではない。

 アナハイムのGMとFMが考えることだ。

 今のアナハイムに必要なのは、尖った戦力。

 5の戦力を二つではなく、9と1の戦力を持つことだ。


 負ける試合は1の戦力、この場合はピッチャーを使う。

 その代わりに9の戦力で、確実に勝つべき試合を勝つ。

 もちろん実際には、そう上手く行くわけではない。

 ただメトロズの負けた三試合を見ると、本当に上手く負けているのだ。


 ジュニア、オットー、ウィッツの三人で負けている。

 武史を別とするなら、ジュニアとウィッツの二人は、むしろ勝ちを狙うべきエース格だ。

 だが負ける試合であっさりと負けて、次の試合に引きずっていない。

 アナハイムの場合、第二戦でスターンバックを引っ張って負けたのが、最後の分岐点であったと思う。

 あそこで無理をしたから、スターンバックは第五戦で故障した。

 スターンバックが七回ぐらいまで投げられれば、おそらくは勝てていた。

 そしてスターンバック自身、FAになって大きな契約を手にしていただろう。


 そういえば、と直史は考える。

 スターンバックは結局、どうしたのだろうかと。

 肘の靭帯の移植手術までは、アナハイム球団が出すはずである。たいがいはそういう契約になっている。

 しかしその後のリハビリなどはどうするのか。

 直史が見た限り、順調にリハビリをすれば、スターンバックはまたMLBに戻ってこれるとは思う。

 今のトミージョンの成功率は、それほどまでに高いのだ。

 もしも問題があるとすれば、故障を恐れて全力のピッチングが出来なくなること。

 ただこれも精神的なものなので、トミージョンからは復帰できるというのがスタンダードになってくると、より復帰できる確率は上がってきている。


 セイバーに聞けば、普通にスターンバックがどうなったのかは分かるだろう。

 だがチームメイトだったとはいえ、プライベートではそこまで親しくはない。

 むしろ直史に対しては、敵愾心を持っていた気がする。

 ここまでFAではなかったが、年俸調停を得てからは、おそらく年に500万ドルぐらいはもらっていただろう。

 ならば一年間を無駄にしても、どうにか生きていけるはずだ。

 もっとも無駄遣いなどをして、貯金や資産がねければ、ものすごく困ったことになっただろうが。


 ほとんどの選手は直史と違って、引退すれば次に何をすればいいかなど、決まっていないのだ。

 特にMLBの場合、選手としての才能と、コーチやトレーナーとしての才能は、分離されて考えられている。

 NPBのように、球団がポストを用意してくれるのは、あまりないことだ。

 もっとも広告塔になるぐらいまでの選手であれば、スポンサーとの契約を結んでいてもおかしくはない。

 大介などもそちらの方から、スポンサー契約で収入を得ているはずだ。

 直史の場合は、特に契約をしていない。

 野球での分野で、縛りを入れられるのは嫌だと思ったからだ。


 これがラストの一年。

 人生で野球を真剣にやる、最後の年。

 年末にあったわずかな焦燥感は、もう消えている。

 徐々に戻っていくのが、むしろ今は楽しみであった。


 ラストシーズン。

 波乱の一年が、始まろうとしていた。

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