第2話 因縁

 人間個々に、どこに逆鱗があるかは分からないものである。

 アナハイムのオーナーであるモートンは、逆鱗というほどでもないが、なかなか進まない来年のチーム編成に苛立っていた。

 もっともそれはGMのブルーノの怠慢とか能力不足ではなく、モートンの直史との交渉を最優先に、という縛りなどから発生していたのだが。

 ブルーノからすると、やはり先発を揃えるのが一番重要なのだ。

 直史との契約も、確かに重要なものではある。

 ある意味、直史を相手に新たな契約を結ぼうというのは、それだけ評価をしているからである。

 ただチームバランスを考えた場合、やはり抜けてしまった先発の補強を優先しなくてはいけない。

 ちなみに去年のワールドシリーズ、申告敬遠をせずに試合を落としていた首脳陣は、あの最後の盛り上がりのおかげで、ドサクサ紛れのようにそのまま慰留されていた。


 直史の、先に他の戦力を整えてくれというのは、はっきり言ってお門違いである。

 せめて施設や設備に関してなら、選手として意見することもあるだろう。

 だがチーム編成にまで口を出してきた。

 若林はそのあたり、少し不注意ではあったろう。

 球団が直史をスペシャルな選手として見ていることは間違いない。

 しかしチーム編成に関して、選手が文句を言ってくるのか。

 直史の口調などに直接接した若林は、そういう感じでないのは分かっていた。

 それでもこれはいわば、越権行為に近い。


 もっとも直史も、そのあたりの基準は分かっているつもりだった。

 NPBでも選手が首脳陣批判をするのは、タブーとなっている。

 実際はいくらでもやっている選手はいるが、そのたびに問題になっているのだ。

 極端な話、野球チームというのは戦うための集団だ。

 常識的な話だが、指揮系統は上意下達。

 選手がいちいち監督、MLBの場合はFMであるが、それに反論していたら試合にならない。

 もちろんFMも現場に、裁量をちゃんと持たせている。

 現場としても一つ一つのプレイに、いちいち指示を出されていては集中出来ない。

 だが戦略自体は、指揮官に従ってもらわなくては困るのだ。


 今回の直史は、口を出したのは若林に対してだけである。

 マスコミに対しては何も言っていないし、同僚の選手に対しても何も言っていない。

 他の仕事であっても、平社員が直接社長に何かを提案したらどうなるか。

 いやこの場合は、システム的に考えれば、会社が契約している特殊技術職が、ちゃんと段階を踏んで上の者に話をしていることになるのか。

 ならば中間の人間としては、面子が潰れるわけではない。

 ただオーナーとGMが話し合って、これ以上はないというぐらいの完璧な契約を用意した。

 それなのに全く違うところの話をされるので、不愉快になるということでもあるか。

 そもそも直史は、契約をしていない。

 そこが決まらなければ他の選手との契約に、どれぐらいの金が使えるかも決まってこない。


 どちらが悪いというわけではない。

 強いて言うなら、来年で引退する予定の直史が、それを言わないのが悪い。

 自分はもう引退するから、しかも年俸の上昇など考えないから、さっさと他の戦力を準備しろ。

 乱暴な言い方であるが、これがちゃんと伝わるならば、一番アナハイムのフロントも動きやすかっただろう。

 ただ直史はプロ入りの時にも、ほとんど反則に近いことをしている。

 MLBに来るとまでは、さすがに思っていなかったが。

 そこはある意味直史も、傲慢な部分はあるのだ。

 自分がこんなに安く働いてやるのだから、さっさと他の戦力の準備をしろ。

 ワールドシリーズで大介と対決することが、直史にとっての至上命題なのだ。

 金ではない。夢でもない。名誉でもない。

 単純に大介と対決したいという、いわば男の意地である。


 高校から大学、そしてプロではなく自営業。

 プロ野球選手も自営業ではあるが、直史は弁護士という選択をした。

 昔に比べて弁護士も、それほど確実な職業ではないのだが、それは地盤や看板を引き継げなければという話。

 瑞希の父が個人営業の商店や、地元の中小企業との間に築いているパイプ。

 これをそのまま引き継げるのなら、それはとても堅い商売なのである。


 一度、野球の正道からは外れてしまった。

 それを大介が引き戻した。

 もちろん直史は、それが言い訳だと分かっている。

 難しくはあるが単純に金の話なら、用意できなくはなかったのだ。

 もしあの場で断っても、大介は残念そうな顔をして、普通に金を出していただろう。

 直史は大介と戦いたかった。それが本音として存在する。

 だからこそ最後の一年、大介と確実に勝負したいのだ。


 そんな直史の本音や、誰にも言っていないことを、理解出来るはずはない。

 瑞希とセイバー、それにツインズあたりの身近な女性陣は、ある程度気付いているだろうが。

 直史は合理的で論理的な人間であるが、根底においては合理や論理を超越する。

 中学時代に勝てもしないチームで野球をやっていたという事実で、それはある程度説明がつくだろう。

 もちろん中学生に、そこまでの判断を求めるのも、無茶な話なのかもしれないが。




 アナハイムは現在、プロスペクトの育成が微妙である。

 去年はガーネットやリッチモンドといったところのピッチャーが、そこそこ出場した。

 平均程度の能力は示していたし、他にもオフシーズンに、MLBではないが傘下にある独立リーグで鍛えている選手もいる。

 スターンバックとヴィエラが抜けて、あとはリリーフも補強したい。

 あの二人が抜けたということは、それだけリリーフにかかる負担も大きくなるだろうからだ。


 打線の方は逆に、さほどの問題はない。

 アレクと樋口は二年目で、ターナーとシュタイナーも契約が残っている。

 ただターナーに関しては、まだFAまで時間があるが、今のうちに契約しておこうかという話もある。

 間違いなくバッティングでは、今のリーグでも五指には入る。

 来年で26歳と、台頭するのは平均的速度であったが、一気に成長してきた。

 打線については、とりあえず今は充分な戦力がある。

 もっとも数年後を考えていれば、もっと動いていかなければいけないのも確かだ。


 アナハイムの判断としては、戦力がどれぐらい維持できるかで、補強の仕方が変わるのだ。

 センターラインはキャッチャーの樋口とセンターのアレクで、かなり強くなっている。

 二遊間はそのかわり、打撃力は低い選手になっているが。

 直史とあと何年契約出来るかで、チーム全体の方針が変わってくるのだ。

 樋口にアレクの、打てるセンターラインの選手に、ターナーというスラッガー。

 あとは先発陣をどうにかすれば、ターナーとの大型契約を結んで、五年以上はポストシーズン進出を目的とした、コンテンダーとして動くことが出来る。


 全ては直史との契約が、また結べるかどうか。

 そこが重要なため、GMは動きが制限されるし、オーナーも苛立っている。

 ここで双方の調整が出来るのは、全ての事情を知るセイバーである。

 だが彼女はここにおいて、自分の目的のために動いている。


 アナハイムのフロントにいるが、それは単純にアナハイムを強くしようという考えからではない。

 彼女は基本的に、金のために動いている。

 人は金では動かない、などと言われていて、実はそれは正しかったりする。

 だがいざ動こうという時に、金がなければ動けない。

 彼女は人が動くために、金を稼いでいる。

 そして彼女が重要視するのは、アナハイムのオーナーが儲かることではない。

 リーグ全体が活性化することや、果ては野球というビジネスが活況化すること。

 もちろん自分の仕事を、そこだけに集中するわけにもいかない。


 直史と大介の対決を演出し、それによって世界を動かすのには、本当に時間がかかった。

 労力も金もかかったが、一番は運が良かったと言うか、世界がそう動いてくれたと言うか。

 真琴に病気がなければ、直史をプロの世界に連れてくるのには、もっと雑な手段を取るしかならなかった。

 大介がプロの世界に誘ったが、彼の言葉でなければ直史は、プロの世界には来なかったかもしれない。

 そしてようやく二人が揃ったところで、直史の契約にはポスティングの一文を入れさせた。

 あとは大介のスキャンダルを演出し、MLBに逃走させる。

 それから直史も契約を盾に、MLBに引っ張ってきたt。

 やってることは完全に悪の黒幕だな、と思うセイバーであるが、どうにも事態が自分の都合のいいように働きすぎた。

 おそらく大きな流れは、既にあったのだ。

 自分がここにいることさえも、その大きな流れの一つ。


 セイバーは、金を増やすことの天才である。

 だが金を増やすことにおいて、セイバーよりもさらに巨大な才能を持つ者は、世界中にたくさんいる。

 そして直史や大介といった才能は、世界を探しても今のところはいない。

 自分は替えの利く人間だからこそ、その領分を弁えるべし。

 ただでさえ自慢の出来ない裏技も使っているのだから、それを自分のために使ってしまっては、おそらくバチが当たるだろう。

 日本で育ったセイバーには、そんな日本的な倫理観がわずかにある。




 アナハイムがメトロズに勝てなかった理由を、しっかりと考えていこう。

 これは逆に、去年はメトロズに勝てた理由、さらにその前のメトロズが優勝できた理由とも関連してくる。

 まず最初に、大介の一年目。

 大介が74本、200打点、241得点を記録している。

 単純に打撃力が、圧倒的に強化された。

 最終的にヒューストンとワールドシリーズで争い、殴り合いで勝利している。


 ただその次の年からは、勝因が明らかになっている。

 ピッチャーだ。

 アナハイムが優勝し、メトロズの連覇を阻んだ。

 単純に直史が、一人で三勝もしたからである。

 そして今年は勝てたのは、武史がどうにか直史と渡り合ったからだ。

 上杉を直史に当てていたら、去年も勝てていたかもしれない。

 去年の投手運用を、メトロズは失敗しているのだ。

 もっとも上杉が投げなければ、クローザーがいなかったことも確かなのだが。

 

 スーパーエースの存在ゆえに、アナハイムがメトロズに勝った。

 するとメトロズはそれには及ばないものの、かなり近い先発のエースを獲得した。

 最終戦を見ると分かる通り、アナハイムにも勝つチャンスはあったのだ。

 下位打線による内野ゴロの間の同点打。

 アナハイム首脳陣の投手運用、そしてリスクの取り方には、ある程度の批判もある。

 だがアメリカ的価値観から言えば、勝負をして負けたのだから、あれはいい失敗なのだ。


 アナハイムはスターンバックとヴィエラがいなくなった。

 必要なのはまず、スーパーエースクラスをもう一枚。

 そして平均程度にレギュラーシーズンのローテを回せるピッチャーが一枚。

 直史、レナード、ガーネット、リッチモンドにその二枚で、六枚は揃えておく。

 打線の得点力が変わらないのだから、平均程度の先発でも勝率五割は保てるだろう。

 そして直史が30勝する。

 162試合の中で、直史が30勝。

 すると132試合が残るが、その半分を勝てば66勝。

 96勝すればまず、ポストシーズン進出は安全圏である。


 そしてポストシーズンは、直史ともう一人、あとはレナードあたりを酷使する。

 いや酷使は言いすぎで、エースのところで確実に勝っていけばいいか。

 今年にしても直史が三勝しているのだから、誰かがあと一つ勝っておけば、アナハイムが優勝していたのだ。

 負けた試合は3-5、1-2、3-4、2-3と、一試合を除いて一点差で負けている。

 一点を取れる打線があるか、一点を守るピッチャーがいれば、それで勝てていたのだ。

 なのでアナハイムは、レベル5の先発二人を取るのではなく、レベル8とレベル2のピッチャー二人を取る。

 レベル2のピッチャーはなんなら、平均以下でも構わない。全体として直史以外の試合で、五分でいいのだ。


 ポストシーズンに、二枚のスーパーエースを揃える。

 去年勝てたのは、ヴィエラがもう一勝したからだ。

 メトロズのピッチャーはスタントンで、そのスコアは8-4であった。

 面白い数字は去年もあった。

 今年は優勝したメトロズだが、ワールドシリーズ全体の得点で見れば、18-26でアナハイムの得点の方がはるかに上だ。

 そして去年はアナハイムに負けているが、そのスコアの合計は19-21なのだ。


 点差はつけられたのに、今年は勝った。

 つまりエースを投入した試合で、確実に勝てばいい。

 そのエースが回復するまでの試合は、とりあえず負けてもいいからエースを休ませる。

 そこまでメトロズは思い切ったわけではないが、実際に武史はワールドシリーズで二試合しか投げていない。

 あと一枚、メトロズから勝てるピッチャーがいたら。

 それがアナハイムの、ワールドシリーズの敗因分析である。




 FAとなっているピッチャーを、色々と調べて交渉しているアナハイムのフロント陣である。

 この場合選手は、希望と条件は伝えておくが、実際の交渉は全て代理人に任せるのがほとんどだ。

 有名な代理人だと、スーパースターを何人も抱えて、一種の権力を持ってしまったりする。

 NPBの場合も代理人はいるが、担当できる選手の数が限られていて、そう大きなパワーバランスを崩す存在になるわけでもない。

 だがMLBはまさに、代理人が選手の未来を決めると言ってもいい。

 逆にいい代理人に選ばれれば、それだけ有望だとも言われる。

 チームの戦略と代理人の戦略で、選手の要望が通らないこともある。

 ただそれでも代理人を立てずに交渉を行うのは、通常のMLBプレイヤーにとっては、あまりに非常識で勝率の低い勝負となる。


 セイバーもまた、かつては代理人をやった。

 現在ではアナハイムのフロントに入っているため、他の代理人に任せているが。

 代理人の懐に入る手数料は、金額の5%。

 これが高いのか安いのかと言えば、単純に1000万ドルプレイヤーの契約を成立させれば、50万ドルの手数料。

 経費はかかるが選手という商品によって、これだけの売り上げをあげるわけである。

 さらにこれが長期の大型契約であれば。

 一億ドルの契約なら、500万ドル。

 しかも長期の契約なら、次に契約を更改するまでに、他の選手を担当することも出来る。

 代理人というのは才覚さえあれば、とてつもないビジネスになる。


 直史には今は代理人はいない。

 MLBには三年しかいないのだし、次のことなど考えていないからだ。

 そもそもデータや契約に関しては、セイバーからのつながりでどうとでもなる。

 特に契約に関しては、アメリカの弁護士ではないが、直史も弁護士だ。

 他の選手の契約などを見て、どういうものが妥当かは分かっているのだ。


 ただ直史に関しては、単純に成績だけで年俸を決めることは出来ない。

 そのチームというか、MLB全体に対する貢献度が、あまりにも高いからだ。

 なのでアナハイムとしては、ほぼ限界に近いところから、既に金額を提示している。

 そしてその金額についても、しっかりと説明が出来るようにしてあるのだ。


 直史が渋るとすれば、年数であろうかな、などという予想はされていた。

 30歳の直史に、七年の契約。

 だが技巧派の直史は、おそらくそう年齢でパフォーマンスは落ちないのではないか。

 なので10年契約などを持ち出されるか、などとも覚悟はしていた。

 しかし直史は全く、金額にも年数にもこだわらなかった。

 次に契約するチーム、おそらくラッキーズなりトローリーズなりの金満球団との密約でもあるのか、と邪推するのも当然であろう。

 直史自身は約束をしたが、口約束で正式な契約とも言えない。

 そもそもアナハイムとしてはGM自身が、直史の代理人と交渉したいと思っていたのだ。

 だが直史は日本に帰り、そして代理人もつけていない。

 このあたりアナハイムのフロントからすると、なかなかの交渉上手なのではないか、と見えてしまうのだ。




 とりあえずアナハイムは、まずスーパーエースクラスのピッチャーを一人手に入れた。

 今年FAを取得した、28歳のボーエンである。

 サウスポーでMAXは100マイルと本格派だが、ツーシームとチェンジアップ、そして遅いシンカーを使うタイプだ。

 チームの援護に恵まれていないピッチャーだが、それでも去年は12勝4敗。

 防御率、WHIP、奪三振能力にK/BBなどの数字は優秀である。

 左のスターンバックが抜けたので、同じ左の先発がほしかった、というのはあるだろう。

 分析班によるとアナハイムの打線の援護があれば、おそらく年間で10勝は貯金を作れるのではないか。

 もちろん最終的には、運が左右してしまうピッチャーの数字。

 しかし三振が取れて四球が少ないというのは、それだけでも分かりやすい魅力だ。


 彼一人に、一億ドル以上の金が投入された。

 だがFAになってからの契約というのは、そういうものなのだ。

 大介のように短い期間で成績を残し、一気に大きな契約にするというのは、なかなか難しいものだ。

 あと一枚のピッチャーは、平均的な先発が欲しい。

 それに獲得するだけでなく、育成する方からも話は上がってきている。

 また去年のマイナーで、短いイニングをしっかりと投げられるピッチャーは、結果を出してきている。

 勝ちパターンのリリーフが強化されるのは、ありがたいことだ。


 そんなチーム編成の結果を携えて、若林はまた直史と会うこととなった。

 直史側から東京にまで足を運ぶのは、実は不思議なことなのである。

 契約を成立させたいならば、そちら側が足を運ぶべきだ。

 それが商売における、当然の人間関係なのである。


 この不自然さも、アナハイムのフロントが、直史を疑う理由となっている。

 直史としては単純に、東京まで足を運ぶのが苦痛でないし、瑞希と一緒に久しぶりに東京を歩くか、と思っているだけなのだが。

 人間の感覚というのは、どうしても先入観というか、よって立つ価値観によって、見方が変わってくる。

 そのあたりを残念ながら、直史は理解できていない。

 むしろ瑞希の方が、想像力を広げるタイプなので、なんだかおかしいな、という程度には感じてきていたりする。


 若林は球団側の状況を、直史にちゃんと説明した。

 及第点のエースではなく、ポストシーズンで勝てるエースを準備した。

 その点では直史も、アナハイムを評価しないわけにはいかない。

 実際に去年も、レギュラーシーズン123勝を記録していたが、ポストシーズンに出るにはそこまでの成績は必要なかった。

 レギュラーシーズンの記録を作るのではなく、ポストシーズンの短期決戦を重視。

 直史にも分かりやすいチーム作りだ。


 よって直史は本格的に困ってしまった。

 たとえばこの新しい契約、直史が一年で引退したとする。

 その場合はもちろん、他の球団との契約は出来ないと、ちゃんと書いてある。

 NPBまで含めたプロのリーグには入れないのだ。

 だが完全にプロ野球から引退してしまうなら、残りの六年のペナルティなどはない。


 直史が単純に、自分の利益だけを考えるなら、この七年契約を結んでしまった後、一年で引退すればいい。

 そうすれば6000万ドルが手に入り、そして自由も手に入れる。

 だが現時点で、直史の契約は一年が残っている。

 それは1000万ドルとインセンティブというものだ。

 なんならこの七年契約に、さらにインセンティブもつけてもいいと、若林は言われてきている。

 もっともその場合、交渉はまだまだ続くことになるが。


 契約の点などから言うなら、七年契約を結んで、来年で引退というのも、禁止されてはいない契約である。

 なにしろそうでもないと、故障で引退する選手の場合など、どうすればいいのだ、という話になる。

 しかし直史にとっては、あと一年しかいないのに、七年契約を結ぶというのは、さすがにアナハイムにとって不誠実だと考える。

 よってついに、心中の考えを明かさざるをえなくなった。

「私はもう来年で引退し、子供の環境のためにも、日本に戻ってくるつもりなんだ」

 若林としては、目が点になる話である。


 420億円の契約なのだ。

 実際のところは税金などで、ほぼ半分にはなってしまう。

 子供の環境などと言うが、高等教育を受けさせるためには、アメリカ以上の環境などないだろう。

 若林はごく自然と、アメリカが最もいいという価値観を持っている。

 そしてそれはある程度間違ってはいない。


 問題なのは直史の、いわば郷土愛とでも言うべきものだろう。

 愛国心と言ってもいいかもしれないが、直史としてはそこまで強烈なものではない。

 郷土において生活し、日常を送っていく。

 これを最優先するということを、人生はステップアップだと考える、アメリカのビジネスマンは理解できない。

 とにかく若林は、これを本国に伝えるしかなかった。




 アナハイムのフロントは、特にオーナーのモートンは怒った。

 直史の言っていることを、頭から信じなかったからである。

「密約があるんだろう」

 そう考えるモートンに対して、GMのブルーノも否定しきれない。

 アナハイムの三年で、圧倒的な成績を残す。

 そして今回のアナハイムの提案した以上の、大型契約をどこかと結ぶ。

 なのでアナハイムとの契約を、更新することが出来ない。

 証拠は全くないが、そう考えるのが自然なのである。


 いっそのことトレードに出したらどうか。

 あと一年の直史で、ものすごいプロスペクトを獲得することが出来るだろう。

 だが直史の今の契約には、トレード拒否権がついている。

 なのでその手も使えない。


 マイナーに落とすことは出来る。

 だがそれは感情面をよそにすれば、完全に意味がない。

 わずかに、総年俸の計算を抑えることが出来るという利点はあるが、普通に今年一年、メジャーで投げさせた方がいい。

 今年もそもそも、ワールドチャンピオンを目指して戦力を揃えているのだ。

 だからこの一年、全力で直史を使う方がいい。


 密約の証拠でもあれば、いくらでも攻撃することは出来る。

 そしておそらくその密約は、彼女が絡んでいる。

 というわけで呼ばれたセイバーであるが、ため息をつくだけであった。

「元々彼は、三年しかMLBでプレイするつもりはなかったんですよ。だから最初から三年で契約したわけで」

 直史を紹介したのは、彼女のつながりだ。

「なぜこの間は言わなかったんだ」

「彼が考えを変える可能性は、充分にあると思ったんですけど……」

 直史はプロには来ないと言っていたが、それでも自分の信念より優先するものがある。

 娘の手術費用のために、プロになったのだ。

「だから彼が、子供たちを故郷で育てたいというのは、本当のことなんですよ」

 アメリカ人は、家族を持ち出されると弱い。

 離婚率がものすごく高い国であるが、家族、特に親子関係などは、尊重しないのがおかしいと考える国民意識がある。


 直史の契約更新は不可能。

 そしてトレード拒否権もある。

 つまり出来るのは、今年を全力で使い、ワールドチャンピオンを狙っていく。

 モートンもブルーノも、そのあたりは理解した。

 だがどうしても感情的に、納得出来ないことはある。


 直史がそう考えているなら、もうどうしようもない。

 なんとか割り切ったつもりではあるが、どうしてもしこりは残る。

 幸いなことに、この話は現場にまでは伝わっていない。

 だがフロントにはどうしても、直史に対する隔意が残ってしまったのであった。

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