エースはまだ自分の限界を知らない[第七部A エース編]

草野猫彦

一章 くすぶる季節

第1話 契約

 人間の肉体操作には、二つの側面がある。

 一つは一度記憶すれば、長くやっていないことでも、自然と出来るというもの。

 水泳や自転車の運転などが、これにあたる。

 もう一つは一日でもやらなければ、取り戻すのに時間がかかるというもの。

 楽器の演奏やバレリーナの肉体操作などが、これにあたると言われている。


 直史は自分のピッチングを、後者だと思っていた。

 だが実際には、両方の側面を持っているのだ。

 確かにある程度までは、その技術は低下していく。

 しかし一定のレベルは、保持しているというものだ。

 クラブチームで野球をしていた頃、司法修習や仕事を開始した当初は、ほとんど練習などしていなかった。

 そこから半年ほどをかけて、元にもどしていった。

 25歳の成人男子が、第一線からはずっと離れていたのに、それを半年で戻せるものなのか。

 もちろん協力してくれたトレーナーなどは、最先端の理論を持ってはいたりした。

 だがそれでも、そんなことが出来るものなのか。


 いくら理論があって、それが正しく思えても、自分の感覚に優るものはない。

 もちろん自分の感覚に従って、ちゃんと通用していればの話になるが。

 日本に戻って実家のコタツでぼんやりしていて、言われていた二週間が過ぎた。

 これだけ動かないというか、時間を無駄に使っているように見える直史の姿に、両親も驚いたものである。

 だが嫁の瑞希がその分、子供たちの相手もしたし、家の中のこともしたし、直史の世話もしていた。


 心配していたものだが、二週間が過ぎたその日、直史は日が高くなるまで寝ていることはなく、ようやく普通に起きてきた。

 両親が仕事に行くため、朝食を作っているその時間。

 パジャマではなく部屋着でもなく、ジャージに身を包んだ直史。

 死んだ魚のような目をしていたのが、輝きを取り戻していた。

 そして朝食を食べると、ランニングに出かけたのであった。


 二週間の沈黙があったため、マスコミは話題の流れの早い現在、もう家をマークなどしていなかった。

 田舎の道を直史は、軽く30分ほども走ったか。

 呼吸によって酸素を肺に送り込む。

 そして血液が体内を巡り、今の自分の状態を教えてくれる。


 右肘が、まだ少しだけおかしかった。

 これはまた病院に行かなければな、と直史は自己診断を続ける。

 そして自宅に戻れば、そこからは頭脳活動も開始する。

 リハビリにトレーニングと、計画を立てていく。

 また完全に瑞希任せで断絶していた連絡も、ようやく再開する。


 死んでるんじゃないか、とまで思われた直史だが、いよいよ動き始めた。

 年末にかけて、世の中は忙しくなってくるのだが。

「球団のマネージャー、若林さんが来るってさ」

 直史の言葉に、瑞希は首を傾げる。

 一応体調や医師の診断も、球団には提出している。

 あれだけでは足りず、電話でもなくわざわざ、面会に来るというのか。


 もし来るとしても、セイバーが年末にでも来るのかと思っていた。

 あるいは正確なデータを必要とするなら、あちらに来てくれと言ってくるだろうに。

 もしくは東京で、専門の病院で診断をするなど。

 若林は確かに通訳もしてくれていたが、スカウトなどもしていたはずだ。

 それがここで来るというのは、不思議な感じがした。

「セイバーさんに確認してみれば?」

「そうだよな」

 時差も考えて、メールで送っておく。

 さほどのタイムラグもなく、あちらから電話がかかってきた。




 直史を慰留するために、球団が新しい契約を結ぼうとしている。

 しかもそれは長期契約の大型契約で、オプトアウト条項などもつけてくるという。

 普通にアナハイムに住んで、そして野球を続けるならば、これ以上にいい条件はない。

 だが直史には全く魅力的ではなかった。


 利益だけを考えるなら、新しい契約にした上で、一年限りで引退してしまえばいい。

 それで1000万ドルプラスインセンティブの、おそらく二倍以上の年俸になる。

 だが直史は契約をそのまま利用する人間ではない。

 世の中には信義というものが必要だと思っている。

 アメリカと違って日本では、慣習的なものが一般風俗などと言われて、法律の細目を補っているところがある。

 直史の価値観的に、新しい契約を結んで一年だけで引退というのは、完全にアウトなのであった。

「セイバーさんは知っているはずですが?」

「それを言うと私と貴方の関係が、親密すぎると知られてしまうでしょう?」

 セイバーは確かに、直史との関係性は深い。

 だがそんな裏事情まで通じているとは、確かに知られたくはないのか。


 どうしてプロの野球選手は、プロ野球選手になるのか。

 そもそもの原理論になってしまう。

 昔からの夢? 己の才能を活かすため? 人生の自然な行く先? 新たな次のステップ? 金を稼ぐため? 自己実現の方法? 存在証明?

 直史にはどれも当てはまらない。

 娘の命を救うためと、そして自らも望んだためだ。

 自分の限界を求め、大介と対戦するために。

 正直なところ、その限界はもう、ある程度分かってしまったような気もするが。


 わずか一試合、それも実質は二打席を勝負するためだけに、二週間のダメージが残るピッチング。

 まさに最終戦でしか使えない必殺技ではないか。

「アンチスパイラル相手に、超天元突破しちゃった感じか」

 手塚はそう言ってきたが、ちょっと分からない直史である。

 元々は瑞希の方に用があって、訪問してきているのだが。

 

 直史の立場になると、利害関係者が多くなってくる。

 セイバーはかなりビジネスライクに接してくるが、それでも直史にメリットがあるように行動してくれる。

 手塚のように今でも接触がありながら、さほど利害関係のない相手というのは貴重なのである。

「けど五年で200億円とか、そういうレベルの収入だろ? 弁護士って意外と40歳ぐらいから活動始める人もいるみたいだし、俺なら金を取っちゃうかなあ」

「う~ん……まだNPBならマシなんですけどね」

 直史としては、NPBの先発ピッチャーなら、彼の価値観としては許容できるのだ。

「オフシーズンは確かにありますけど、能力の維持のためにはトレーニングが必要だし、年間の半分以上は試合と移動で取られるし、10連戦も普通にあって休みがない」

 これがNPBの先発なら、「あがり」などと言われてベンチ入りの必要もなく、自宅でのんびりという生活スタイルも出来なくはないのだが。

 MLBは投げなくても、常にチームの同行して飛行機移動。

 登板間隔も短くて、プレッシャーと言うよりは、ストレスが大きいのだ。

「でもそれを他のメジャーリーガーはやってるんだよな?」

「結局は俺が、野球をそこまで好きじゃないって話になるんだと思いますよ」

 手塚は「何言ってんだこいつは」という顔で瑞希の方を見たが、彼女も首を振るだけであった。


 手塚としては漫画家の中には、無茶なスケジュールで描いている人間がいることを知っている。

 芸能関係もやや接触したが、まさにとんでもないスケジュールで働いている人はいるのだ。

 だから問題は、仕事のスケジュールなどの過密度合いではない。

 そもそも好き嫌いを言うならば、直史以上に野球をどうでもいいと思っている武史は、いったいどうなってしまうのか。


 やはり直史の価値観の問題なのだ。

 硬い職業で、ちゃんと定期的に休日を取って、子供たちとの時間も作る。

 そういうかつては当たり前と思われていた、実は幻想に近い生活を、直史は求めているわけだ。

「結局のところ、衰えてからポンポン打たれるのが嫌だという話でもありますけど」

 そちらの方が大きい理由なのではないか。


 プロの世界で結果を残した。

 もう一生を食っていくだけの貯えはある。

 今の時点で、もう史上最高のピッチャーだと言われている。

 そして別に、野球で歴史に名を残したいわけでもない。

「だから俺に金を使うよりは、しっかりとチーム補強に金を使ってもらって、来年もワールドシリーズをメトロズとの対決にしてほしいんですけどね」

「それって可能なのか?」

「……難しいでしょうね」

 アナハイムも相当であるが、メトロズの方がより厳しい。


 直史に金を使わなくていいのだし、ヴィエラとまた契約を結ぶか、あと一人ぐらいは先発がほしい。

 それだけいればポストシーズンまで勝ち進むことは出来るだろう。

 そしてポストシーズンに進めば、あとはピッチャーの重要度が変わる。

 アナハイムの方は、どうにかなると思うのだ。


 しかしメトロズは、ウィッツが抜けてケンプやシュレンプも抜けるらしい。

 クローザーもレノンが単年契約であったので、そこをどうするのか。

 もちろん両チーム共に、これから選手を獲得していく動きはある。

 だが動かせる資金には、限界があるのだ。

 その点ではオーナーが、多少のぜいたく税のみならず、多大なぜいたく税でも払う、メトロズの方が有利だ。

 もっとも実際は、ビジネスを前提に「ぼくの考えた最強のチーム」を作らない方が強かったりする。

 限られた条件の中で、選手を集めていくこと。

 そのためにはより厳しい基準で判断がされるため、甘い判断で高い年俸の選手を集めないのだ。


 あとは他に、選手の性格、あるいは人格までも含めて、現在のメトロズのGMであるビーンズは判断している。

 つまり大金を手に入れてしまって、そこで満足してしまう選手かどうか、というものである。

 ビーンズが選手を選ぶには、もちろんその能力と実績を元にする。

 だがそれよりも重要なのが、ハングリーであること。

 そしてストイックであること。

 金に汚いのはいい。もっともっと金を求めて、さらにパフォーマンスを上げようとするからだ。

 ストイックであることはそれに反するような気もするが、一番に肝心なことは忘れていないこと。

 それは金を稼ぐために、自分が何をしなければいけないか、ちゃんと分かっていることだ。


 オーナーのコールの、とにかく優勝したいという欲求。

 いい選手を集めれば勝てると思っているかもしれないが、それは間違いなのである。

 単純な話、いい選手というのは、どういう選手であるか。

 それはもちろん、成績を残してきた選手であるだろう。

 だがもう一つ、重要な観点がある。

 それはこれからも、成績を残せる見込みのある選手だ。


 金を手に入れて、贅沢を始めた選手。

 それは別に悪いことではない。

 だが練習やトレーニングの量と質を減らしたら、そこでもうその選手は終わる。

 現在のパフォーマンスを保っていればいい、と考えるプレイヤーは、よほどの傑出した者以外は、より上を向いていなければどんどん落ちていくのみ。

 大介は毎日単純に、素振りだけをしているのかどうか。

 NPB時代よりは明らかに、練習やトレーニングに使える時間は減っているのがMLBだ。

 それでも成績が伸びているのは、ツインズたちの分析に頼るところが大きい。


 GMのチーム編成というのは、最終的にはチームバランスが重要になる。

 アナハイムのモートンが、GMに口出しをして、分かりやすく金になる野手を取りたがるのは、いいことではない。

 そもそも野手を何人もそろえて、それでチーム内が上手くいくというのか。

 ハングリー精神を持っている選手というのは、ある程度他の選手を、リスペクトしながらも叩き落す機会を狙っている。

 自分が活躍するのに、他のスタープレイヤーは邪魔だからだ。

 ただこのエゴイスティックな面も、ある程度は許容しなければいけない。

 自分のエゴを出していけなければ、それは自己主張が足りないことにも通じる。

 なのでチーム内には、リーダーシップのある選手が必要だったり、調整役が必要だったりする。

 こういった選手としての数字では出ない価値も、考えていかなければいけないのだ。

 メトロズもアナハイムも、一気に強くなったのは、それは圧倒的なプレイヤーがチームを牽引し始めたから。

 大介の活躍によって、ジュニアなどは頭角を現したと言えるし、アナハイムならばターナーは、直史の影響で成長した。

 そこまでを見るGMというのは、実は少なかったりするのだが。


 問題児であるが、同時に起爆剤になってくれる選手もいる。

 そしてMLBにおいて重要な、ワールドチャンピオンになるということ。

 これは絶対に、何が何でも勝ちたいという、執念を持っていなくてはいけない。

 自分の成績に対するハングリーさ、金を稼ごうとするハングリーさ。

 それよりもさらに上の、ただひたすら一番上に行きたいというハングリーさが、優勝のためには必要なのである。




 アメリカからわざわざ日本までやってきたのは、通訳兼マネージャーであった若林と、アナハイムの分析班の人間が一人である。

 そして出してきた条件が、七年3億5000万ドルという提示であった。

 単純に言うと、単年で5000万ドル。

 現在の為替レートであるなら、60億円以上。

 たった一人の選手に、そこまでの金が出せるのか。

 もちろん出せる。その理由の一つには、直史が日本人だから、というものがある。


 世界で野球スポーツの主流である地域は、意外にも多くない。

 北中米アメリカに東アジア、そのあたりが商業的に成立する限界だ。

 もちろんプロのリーグは他にも、世界各地にある。

 だがプロの選手が、一生それだけで食っていけるというのは、あまりにも少ないのだ。


 人口一億を数える、日本という国。

 なんだかんだ言われても、いまだに野球人気のある日本人が、MLBを見るきっかけになる。

 それが日本人選手の活躍なのだ。

 MLBのグッズが、日本でも売れる。

 そういう商業的な価値も、直史は持っているのだ。


 もっとも実際は、最初の五年により、その年俸の比重は大きくかかっている。

 残りの二年は安くなるのだ。

 年齢的に直史は、現在30歳。

 技巧派のピッチャーとはいえ、そこまで肉体が衰えないか。

 それを考えるなら、35歳までに年間6000万ドル。

 残りの二年に2500万ドルずつというのは、ある程度分かりやすい条件だ。

 この金額は現在のMLB選手の中で、間違いなくトップとなる。

 そしてもし35歳あたりで衰えても、残りの二年は保証する。

 メジャーリーガーはやはり、引退までが肝である。

 だから衰えても2500万ドルは払うというのは、これまた破格の条件なのだ。


 さらにオプションとして、アナハイムはオプトアウトを付けてきた。

 オプトアウトというのは、FAになった選手の中でも特に選ばれた選手のみが持つ権利で、直史の場合は五年後に行使出来る。

 五年後の時点で、この契約を直史側から、破棄できるというものだ。

 つまり35歳の時点で、全く衰えないピッチングをしていた場合。

 二年で一億ドルなどという契約を、他のチームが出してきたら、そちらに移ることが出来るのだ。

 もちろん衰えてしまっていたら、2500万ドルでそのまま投げればいい。

 ただしこの2500万ドルというものでさえ、MLBの現役ピッチャーでは、10人といない金額である。


 以前にセイバーから、こういった話が出るだろうとは聞いていた。

 ただしあの時は五年契約という話ではなかったか。

 トレード拒否権もそのままで、ただしマイナー降格はある。

 たとえ直史がボロボロに衰えても、マイナーでプレイしているだけで2500万ドル。

 故障などをしても、6000万ドル。

 ただしこれまでにあった、インセンティブ契約はない。

 さすがにこれだけの金を出すと、インセンティブでさらに総年俸が上がることは、許容出来ないからだ。


 正直なところ、若林も職員も、そこそこ楽観的であった。

 この超大型契約は、直史の年齢を考えれば、とてつもないものであるという認識がある。

 MLBの歴史を見てみれば、10年契約や12年契約などで、さらに巨額の契約はあるが、直史の場合は七年契約だ。

 単年計算してみれば、過去最高の金額。

 もし直史がもう少し若ければ、さらに長期で大型の契約になっていただろう。

 大介の単年計算3000万ドルプラスインセンティブよりも、さらに巨額の年俸になる。

 もっともあちらはあちらで、数年後にさらに契約を結びなおしそうであるが。

 ただ武史までも抱えている現在では、難しい話になるかもしれない。


 これに加えて今までと同じ、マンションなどの用意にシッターなどの料金、また家族が応援に来る時のチケットや交通費など。

 生活の様々なところまで、球団はサービスを提供する。

 一個人にこれだけの金が動く。

 まさにアメリカという国の巨大さを感じて、さすがに直史は驚いたものだ。




 直史は清貧を良しとする人間ではない。

 金に動かされてはいけないという信念はあるが、稼ぐことを否定するものではない。

 弁護士などをやっていれば、人間はだいたい、金が原因で問題となるし、それを解決するのも金であったりするのだ。

 金がなければ世界を動かすのは、とても不便なことになるだろう。

 情報のやり取りが現在の主流だなどといっても、その情報で金のやり取りをやっているのだ。


 だがそれでも、金に動かされてはいけない。

 このあたりのどうしようもない頑固さが、直史の特徴である。

 ホテルの一室に出向いたのは、直史と瑞希の夫妻。

 配偶者を連れてきたことは、むしろ若林たちにとっては、いい傾向だと思えたものだ。

 現代の先進国家で庶民が、金で動かないということはまずない。 

 あるとすれば金額に不満がある場合だ。

 しかしこの契約は、合計で日本円420億円。

 この金に目が眩まない人間がいるというなら、ぜひ連れてきてほしいものである。


 なお、連れてくるまでもなく、目の前にいたりする。

「私の契約はあと一年ではなかったか?」

 今年、直史はインセンティブを含めて、1700万ドルの年俸を得ていた。

 そして三年契約の最後が、来年であるのだ。

 セイバーから聞いてはいたが、この詳細な金額までは聞いていなかった。


 もしも万一直史が難色を示すとすれば、契約年数かな、とも思われていた。

 MLBの選手というのは引退後、五年で破産する人間が八割とも言われている。

 収入がなくなった後も、支出を減らせずに破産するのだ。

 ただ若林は通訳という役割で、直史の近くにいることが多かった。

 直史の私生活は、メジャーリーガーとしてはとても質素なものである。

 また配偶者の瑞希もそうであり、二人が比較的金をかけるのは、子供たちの育成環境ぐらいだ。

 あとは直史の場合、時間の短縮のために、交通機関の高いものを利用することは比較的多かった。

 他にはコンディション調整のために、食事を別に用意してもらったりだとか。

 だがこのあたりは球団の契約の範囲内で、自分の金を出してはいない。


 直史の金銭感覚は、やや裕福な家庭という程度のものである。

 子供の教育を考えていることは、アメリカの上層家庭と同じである。

 変な趣味もないし、そもそも欲望が少ないように思える。

 だから逆に、金だけでは動かないとも思えたが、以前より何も悪くなっていないという契約。

 インセンティブだけはやや不安要素であるが、直史はストイックに自分のピッチングを追及すると思われていた。


 だが感触が良くない。

「球団としてはミスターをより高く評価し、より良い関係を築きたいと考えています」

「なぜ来年が終わってから話をせず、今年に?」

「それは今ならば、我々がまず、独占的に交渉できるからです」

 契約が切れてからでも、もちろんすぐさま交渉に入ればいい。

 だが今ならば、他の球団からの接触はない。


 まさか、既に接触があるのか。

 だからこそすぐにサインをせずに、こうやって話をしてくるのか。

 直史がほんの少し、困った表情をしているのも、その疑念を膨らませた。

 他の球団と既に、再来年以降の黙約があるならば、それはもちろん違反である。

 ただ直史が、そういうことをする人間とは思えないのも確かだ。

「私との契約はともかく、来年のチーム編成はどうなってるんだ? 先発が足りていないのは確かだが」

「それについてはまた別の問題ですので」

「いや、ワールドシリーズにまた進出するためには、重要なもんだいだろう」

 直史の言葉で、若林はやや合点がいく。

 つまり直史は自分の契約よりも、チームが再びワールドシリーズに進出することを重視しているのか。

 大型契約を既に結び、巨額の富を手に入れたプレイヤーが、次に欲するのがチャンピオンリングや名誉だ。

 しかし直史は一年目に、既にそれらを手に入れている。


 チームのことを考えているのか。

 直史はマウンドの上以外では、保守的で自己主張をしない人間なので、そこまでチームのことを考えているのか、と若林は意外に思った。

 だが考えてみれば今年も、あれほどボロボロになってまで最終戦、14回を投げぬいたのだ。

 チームの勝利を第一に考える人間だと、そう思ってもおかしくはない。

 わざわざこれまで、口に出してチームが大切だなどと言ったことはない。

 だがエースとしての役割に、チームを勝たせることだとは言っていた。

「先にチームの編成を整えろと? ですがアナハイムは第一に、ミスターの契約をチーム編成の主軸に考えています」

「アナハイムは今年、優勝できなかった。それにスターンバックは故障し、ヴィエラも離脱。優勝できるチームで戦いたいんだ」

 それはさすがに、若林の管轄外である。


 もちろんGMのブルーノは、来年以降も勝てるチームを作るつもりではある。

 だが来年もまたポストシーズンはともかく、ワールドシリーズまで勝ち進めるチームを作れるか。

 作ったとしても、ワールドシリーズで勝てるのかどうか。

 直史の口調からは、メトロズを想定相手としている気配がある。

 だがメトロズのチーム編成も、かなり大変だとは聞いている。


 ともあれ、直史の主張したいこと自体は分かった。

 直史の契約がまとまってからでないと、他の契約を結ぶことも難しいのではあるが。

 元々契約というのは、一日ですぐに決まるということは、アメリカにおいてもほとんどない。

 直史が七年以上の期間を要求してきたら、というのも想定していたのだ。

 方向性が全く思いもよらないものであったが、とにかくGMとの連絡は必要だろう。

「金額や年数自体には不満はないのですか?」

 そう質問されると、直史も困るのである。


 あと一年だけ。

 直史はずっとそう考えてきたし、これは自分だけの問題ではない。

 瑞希の仕事の関係や、子供たちの教育など、直史は日本で暮らすことを前提としている。

 MLBの場合はスプリングトレーニングにポストシーズンも考えると、八ヵ月半は拘束されることになる。

 それに直史は、佐藤家の長男であるのだ。

 年末年始はともかく、夏の盆に不在というのは、あまり気分がよくないのだ。


 これを正直に言ってしまうのは、まずいことになるかもしれない。

 だから直史は、とりあえずこうは言っておく。

「正直、三年だけしかMLBでプレイするつもりはありませんでした。だからこの契約延長には戸惑っています。ですがそちらが安心するよう、これだけは言っておきます。私はMLBの他のチームと契約を結ぶつもりはありません」

 今はこれが精一杯。

 オフシーズンは、まだまだ始まったばかりであり、事件は色々と起こりそうである。




×××




 ※ 第七部序盤は、第七部Bと交互に隔日投下していきます。

   あと第八部パラレルを更新しています。限定ノートの方もまた投下予定です。

   パラレル五話と六話は期間限定公開です。

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