第3話

その日私は公園の木陰で鳥のさえずりを聴きながら本を読んでいた。

少ないプライベートの時間は、静かな公園で読書をするのがお決まりだった。


街を出歩くときは地味過ぎず目立ち過ぎず、街に溶け込むような格好をするのが鉄則だ。


その日は日除けにサングラスをして、ブラックのタイトなボトムスに、ふんわりとしたブラウンのカーディガンを羽織っていた。


近くのスタンドでテイクアウトしたコーヒーを片手に黙々と本を読んでいると


遠くからワンワン!と鳴く声が聞こえてきた。


この公園は芝生が綺麗に張ってあるので、犬を遊ばせにきている人もよく見かける。あちこちに犬がいるため、特にその鳴き声を気にとめることはなかった。


私はそのまま読書を進める。


ワンワン!先ほどの犬がまだ鳴いている。やたら元気な犬がいるな。とこの時初めてこの犬を意識をした。


小説の物語も佳境だ。一小節一小節親指でなぞりながら読み進める。幾多の試練を乗り越えた恋人たちは遂に運命の地で巡りあった。


そんな感動的なワンシーンの情緒を掻き消すように


ワンワン!先程より犬の声が声がかなり近くにある気がした。ふと目の前の本から顔を上げて鳴き声がする方を見る。


遅かった。この瞬間を上司に見られていたら、スパイをクビになっていたに違いない。


気がついたときには既にそのしなやかな黄金色をした毛並みの巨大な体躯は私の眼前に迫っていた。


私はなすすべなく押し倒され、じっとりと湿った鼻に身体中を嗅ぎ回られた。


「や、やめて!やめなさい!」

押し返そうにも、上に覆い被されるような体制で中々力が入らない。


「こら、ジョン!離れて!ジョンこら!」

この犬をジョンと呼んだ男はリードを引っ張ってなんとか引き離してくれた。

ジョンは先程にもまして勢いよく吠えている。


「ジョン!落ち着いて!ジョン!」

男はしばらくジョンに激しく振り回されていたが、ジョンもだんだんと落ち着いて、最後には私のことなど最初から居なかったかのように芝生の上にご機嫌でごろんと寝そべっていた。


「ご、ごめんなさい。ジョンが突然走り出してしまって、お怪我はないですか。」

飼い主らしき男は私に手をさしのべてきた。


「ええ。大丈夫です。」

私は彼の手を握って立ち上がり、ぐるりと自分の体を見渡した。

怪我はないが、カーディガンは黄金色に輝いているし、体が全体的にべたついている。


「良かった。ああ、服が汚れてしまいましたね。クリーニング代弁償します。」


男はほっとした顔をした。何が良いものか。服どころか顔までべろべろだ。弁償どころか慰謝料を請求したいところだが、ことを荒立てたくない。


「いいえ、大丈夫ですよ。ワンチャンも公園で遊べて楽しかったんでしょう。お気遣いなく。」


私はこの場から離れようと思い、いつの間にか手から離れていた小説を探す。


「ええ、いつもは人見知りなので普通の人には懐かないんですけど。なぜだか貴方にはとても興味があったみたいで。」


その青年は恥ずかしそうにこめかみをポリポリとかいていた。その左手には私の小説を持っている。いつの間に拾ったのだろう。


「そうだ!もし良ければ近くのカフェに行きませんか。美味しいコーヒーをご馳走しますよ。」


「あら、コーヒーならあるし、お気遣いなさらないで。お散歩続けてくださいな。」

しかしコーヒーを置いていた位置に目をやると、今の騒動で倒れてしまったのか、すっかり中身は芝生にあげてしまったらしい。

私は気まずそうに彼を見上げた。


彼はなぜか嬉しそうに

「そんな状態ですし。僕そこのカフェでバリスタをしているんです。味には自信がありますよ。それに…貴方に興味があるのはジョンだけじゃないんです。」


彼はまたボリボリとこめかみをかいていた。

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あの誰もが知る恋愛の名曲の主人公が女スパイだったら いしかわさん @ishikawasan

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