第9話 神の裁量
左腕をだらんと下げた、意識ある少女が俺たち二人の存在に気づいた。
ティカが治療道具を持って近づくと、翼が動かないらしく、足下に落ちていた小刀を握り、近づくティカを切り裂こうと横薙ぎに振ってくる。
きゃっ、と咄嗟に避けたティカは後退し、バランスを崩して尻もちをつき、持っていた道具が地面にばらまかれる。
倒れたティカを追撃しようとはせず、その場から動かないアンギラス族。膝枕をしている仲間がいるからだとは思うが、小刀を持つ彼女は、俺たちを見ているようで、見ていない。
眼球に光がなかった。
「……もしかして、見えていない、のか……?」
消えそうな声で、くるなッ……と微かに聞こえた。
小刀の切っ先を俺たちに向け、
「私たちに、近づくなッッ……!」
「違うっ、俺たちはお前らを攻撃なんてしない! 同じ組織の仲間なんだ!」
「味方なんていらない。私たちは二人だけで、生き抜くって約束したの! どれだけ仲間だと、助け合うと誓っても、いざグレイモアを目の前にすれば平気で仲間を囮にして自分だけ助かろうとする! 信用できるのは、この子だけしかいないわッッ!」
目を瞑ったまま動かないもう一人の少女の顔へ、頬ずりをする。
見ていたティカが、ばらまかれた治療道具をカバンにしまい、俺の元へ戻ってきた。
治療を拒否する少女と、もう必要のない少女。
ティカの出番は、ここにはなかった。
俺は気づくのが遅かったが、ティカはもっと早く気づいていた。
気づいていながら聞く少女の言葉は、叶わない願望でしかない。
頬ずりをする彼女はまだ気づいていない。
それを客観的に見ている俺たちは、薄情かもしれないが、事実を見る――。
「あの子、もう死んでる」
「……それは、言うべき、か?」
「遅かれ早かれ、気づくことだと思う。
でも、不安定な精神状態の、今じゃない……」
少女にとって、今の心の支えは、膝枕をしている相棒だ。それを失ったと知れば、支えを失くした彼女は、どんな行動を起こすのか……。
予想がつかないわけではないが……、だからこそ言わない方がいいのかもしれない。
けれど、ずっとこのまま立ち止まり、彼女の死を受け入れられる精神状態まで回復するとも思えない……、だったら。
「言った方がいいのかもしれない。あいつが現実を受け止められなくて、どんな状態になったとしても、今ここには俺がいる。止められる、止めてみせる!」
「そう……じゃあ、あの子のこと、お願いね」
すると、ティカが数歩、前に出て、彼女の小刀が届かない場所から、告げようとする。
「無理しなくても、俺が言うのに」
「これは、わたしの仕事だから」
多くの人を看取ってきた。
仲間の死だって、初めてではない。ティカはそう言って強がっていたが、私情を抜きに語れるほど、彼女だって心を失くしたわけでも、仕事に徹底しているわけでもないのだ。
背中からでも、自分への許せなさと間に合わなかった悔しさが分かる。
そして、伝えた。
彼女は既に死んでおり、二度と目覚めることはない、と……。
そうして心を安定させるための人形として扱うのは、可哀想だと。
彼女を支えにしているのと同時、困難から抜け出そうと、後ろを振り向かず、現状で立ち止まらず、前へ進もうとしない理由にしていることも見抜いていた。
ティカの言葉は、彼女に届いたのか――。
「……ええ、そうよ、そうね。分かっているのよ。この子はもうっ、死んでいるってことも、ここにいたって仕方がないってことも、全部、全部ッ! 分かっているのよッ!」
でも。
「離れたく、なかった。
……ねえ、うんと昔の話になるけど、アンギラス族が生まれた理由って、知ってる?」
既に死んでしまっている少女の頭を撫でながら――そんな唐突な質問に、俺たちは咄嗟に首を左右に振る。考えても分からなかった。
アンギラス族は謎が多い。というより、特定の者にしか伝わっていないことが多いのだ。同じアンギラス族でもない限りは、知ることができない――。
「この世界にいるであろう、『神』の存在を維持するためらしいわ。神は世界を創造し、生命を分岐させ、種族を作り出した万能存在……、でもおかしな話よね。
グレイモアという敵が攻めてきているのに、私たちを守ってくれないなんて――」
アンギラス族が一体、何人、犠牲になったのか。
それを言ったら、世界中の種族たちは、どれだけグレイモアに殺されたのか。
神に最も近い種族の、神への信仰が、揺らぎ始めていた。
「えっ……」
彼女の翼が、先から黒く染まり始め、同時に皮膚にも黒い影が伸びてくる。
それはやがて、全身を覆うように、アンギラス族、特有の白さが失われていた。
「世界を救おうとしてくれない、この子を見捨てる神様なんて……ッ」
小刀を握る力が強まった。
彼女の目に、前進する希望の光が宿るが、それは決して良いものだとは思えなかった。
彼女は言う。
「いなくなっちゃえばいいのよ」
ドンッッ! と、真横の壁が崩れて現れたのは、四つん這いで歩くグレイモアだ。
そして、まるで奥に潜む昆虫が移動するかのような足音が、止まることを知らない。
発していないはずなのに、大きな音に反応して、まるでここに向かってきているような……。
「なんでっ、どうしてこの場所に……っ!」
「ティカ、逃げるぞっ」
「でも、あの子はッ!」
手を取って駆け出そうとしたが、ティカが座ったままの彼女を心配して立ち止まる。
真っ黒に染まった彼女は、もうアンギラス族とは思えない。
天使ではなく、姿はまるで、悪魔のようだった。
「今のあいつは、まともなのか……?」
「見た目が変わってもさっきと中身は変わらない子だよっ、目の前にいるのに見捨てることなんてできない! アルは、きっとそうすると思っていたのにッ!」
「もういいの」
それは俺でもティカでもなく、グレイモアの存在に気づきながらも平然とした声で俺たちに話しかける、彼女だった。
最も大切な仲間を胸に抱いて、黒と白の色合いは、まるで相反するものでも、対立しない様子を見ているようでもあった。
「こうなった私は、どうせ生きていてもアンギラス族としては生きられない。私は、堕天したの。……もし、仲間にアンギラス族がいるのなら、気を付けなさい。堕天するのはね、この世界に、神に、絶望した時なんだから――」
彼女は抱きしめた仲間の頬に口づけをして、
「あなたとは、平和な世界で、出会いたかったわ」
グレイモアの開いた手の平が、彼女の頭を鷲掴みにして、地面に叩き付け――飛び散った中身を指でつまみ、口に運ぶ。
ティカの目を塞いでいて正解だった。
こんな光景を見せるわけにいかない。……俺だって、大丈夫とは言えないんだ。
吐き気をぐっとがまんしながら、
「はぁ、はぁ……、ゆっくり、離れるぞ、ティカ。大丈夫だ、こっちに向かってきてるグレイモアの足音に混ざれば、俺たちの足音もかき消えるはずだ……落ち着け、慎重に――」
「…………」
――気づけば、こっちを見ていた。
ティカの顔を自分のコートに押し付けるように抱きしめ、息を殺す。
ヤツは手に持っている液体なのか固体なのか分からないなにかを飲み込み、俺たちの方へ顔を向けている。目がないので視線が俺たちに向いているか、分からない。
こんなことは初めてだ。
音、ではない。もしも音だったとしても、細かく観察することなんて、これまでなかったはずだ。本能のままに襲ってきているはずなのに……。
いつものグレイモアとは違う。彼女を捕食するそのグレイモア――便宜上、『グレイモアA』と呼称すれば、ヤツは確実に音ではなく、俺たちを見ている。
あるはずのない目を使って。
「アル……、わたしはいつまでこうして抱きしめられて……」
「黙ってろ、今はそれどころじゃない……っ」
ゆっくりと後退すると、それに合わせて『A』も一歩、近づいてくる。やはり音ではなく、俺が動いたのを見て、同時に距離を詰めている。
……音ではない、のであれば、気を遣う必要はなくなった。
しかしそれ以上に、逃げ延びる困難さが跳ね上がった。
音で誤魔化すことができない、普通の逃亡劇が、幕を開ける。
「やるしかないな……」
「アル……?」
俺のシルキー族としての力は、メンタルを使わない場合、それはないに等しい。
二年前は元々の影の薄さにシルキー族、特有の影の薄さをさらに強める力で、当時のティカほどではないが、俺も姿を見失わせることには長けていた。
しかしワンダ師匠をモデルに自分を変えていった結果、元々あった影の薄さが消えてしまい、シルキー族の力を相殺してしまったのだ。
だが逆に、他人の姿を消すことには長けている。
俺に視線を集め、影が薄くない者も同様に認識させないようにすることも、メンタルに頼らずとも使うことができる。
つまりだ。
「ここは俺が囮になる。ティカの力と俺の力を合わせれば、ティカは絶対に見つからない……だから、今すぐ、逃げろ」
同時に、俺はある可能性も見つける。
しかし、話せばティカは意地でもやろうと言うだろう。だからティカが気づくよりも早く、この状況を理由にして、急かしてしまい、この場から一刻も早く、遠ざける。
抱きしめたままくるっと回転し、背後の道へ、ティカを誘導する。俺の体から離し、両肩を指で、とんっと押す。
グレイモアと彼女たちの死体を見せないように、間に壁のように立ちながら。
「いけ」
「いかない」
俺を置いていくことに不満があるのだと思って、用意しておいた理由を話す前に。
ティカに、俺の隠しごとが数秒で看破されていた。
「わたしの力とアルの力を合わせれば、自分の存在を相手に認識させないことも可能になる。一対一の戦いに、見えない第三者がいると思えば、逃げるよりも戦う方が賢いわよね」
「気づいていたのか……、そりゃそうか。でもっ、あいつは周りのグレイモアとは違う! 音だけを頼りにしているんじゃないんだ! まるで――地上種や天上種の、敵対種族を相手にしているような意思を感じる!」
「グレイモアだって、わたしたちがそう判断しているだけで、名前だって、意思だってあるかもしれないのにね。でも、だったら尚更、アルを一人にはできない」
それに――、
「もう、昔のままのわたしじゃない」
「……倒しはしない。
身動きを取れなくして、逃げられる状況を作り出したら、逃げる……それでいいな?」
ティカがこくんと頷き、俺たちは覚悟を決める。
「……どうした?」
ティカの足音が俺から遠ざかると、目の前のグレイモアAが、首を僅かに動かした。
まるで。
忽然と消えたティカを、探しているような素振りだった。
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