第49話 兄の真相に迫る
お盆も過ぎてホテルはかき入れ時を過ぎるように、夏の暑い太陽が西に傾いて、次第に天空から地平線に向かって陽は落ち始めている。ホテルと云うサービス業は勤務時間が不定期だ。それはパート以外は勤務態勢が
松木が公開した篠田の診察資料は、カルテと云うより殆どが一対一のカウンセリング形式の記述で占められて、松木の所見は記載されていない。おそらくそれは治療がまだ完治していない試行錯誤をそのまま記録したに過ぎなかった。だからこの資料は見る者によって、その解釈には様々な要素がまだ残っていた。しかしながら此の資料を専門の同業者に見せるわけにはいかない。非公開を貫く精神科医の松木の偉業が掛かっているからだ。勿論そこには景山代理に絶大な信頼を持ったからこそ、学会誌での発表まで非公開を貫く根拠を曲げさせた人への恩義まで裏切れない。だからこそ三島と二人だけで分析した。分析結果は専門の精神科医には到底及ばないと思われていたが、三島らには既に篠田の深層意識の根源らしき物を大雑把ながら仁和子から訊いていた。後は仁和子の両親から兄の過去について訊けば、ほぼ精神科医より確かなお兄さんの真相が掴める時が来たようだ。
三島と倉島は資料を持って、意気揚々と待ち合わせ場所である、尖塔をあしらった喫茶店に足を踏み入れた。
此の周辺も長い夏休みの終焉を告げている。数日前の観光客に拠る雑踏は鳴りを潜めて本来在るべき地元のいつもの暮らしに戻って来ている。此の店も一時の賑わいから逃れるように静かな佇まいの中で三人は窓際のテーブル席に鎮座していた。
テーブルの上には前回同様にアップルパイとバスクチーズケーキに紅茶と珈琲が並んだ。禁煙店で煙草が吸えない三島は、アップルパイに更にジャムを付けて
両親が北欧の旅行中にちょっと目を離して隙に、三歳になる前の兄はそこがまだ陸地の続きだと思って、足を踏み入れた時にその事件は起こった。
これは、そう、まだもの心が付かないほど幼い時の出来事だ。そして、その一生を破滅に導くかも知れないほどの恐ろしい体験だった。だが本人はそんな過去が在った事などスッカリと記憶から削り落ちていた。一生涯にわたって心に残り続けるほどの大きな出来事なのに。幸か不幸か未成熟で発達段階の途中だったのが幸いして、彼の記憶の中にはその欠片どころか痕跡する留めていなかった。そこで両親は此の記憶は本人に取って好ましくないと判断して封印してしまった。それは彼が亡くなってからも続いていたが、松木資料を分析した三島が仁和子に問い合わせてから、此の事実が初めて表に出た。後は心理学の本で得た三島達が此の真相にどう挑むかだが。
「この時に両親は必死で兄を沼から引き上げたんですこの時の兄は凄く怯えていて暫くは何も手に付かなかったようで両親は余程に辛い思いをしていると感じてそれからこの事は一切ひと言たりとも夫婦間でも話題にしてはならないと厳封してしまったからあたしは三島さんから依頼を受けるまで知らなかったんですよ」
せめて兄があんな風になる前には話して欲しかった。それが身内以外から報された事が相当ショックだったらしい。それで簡潔なメールでの返事になったことを詫びた。これには三島も倉島も責めるどころか慰めている。
「あの資料を読んでも解るように松木さんは結論を出すのを諦めたのは篠田さんから深層意識の根源らしきものを掴む前に中断して、今も松木さんはお兄さんのそんな過去は知らないから出したくても出せないのが実状だろう」
もし知ったとしても対象者が失踪して治療の続行が不可能なら、その結論は研究対象に添ったものに成るはずだと三島は確信している。後は松木さんの自己満足を満たすだけだと、だからその事実は我々三人だけの共通したものとして他言を避けた。そうは云ったところでもう本人は居ないのだから、これ以上は第三者の介入は無意味だと結論付けた。
「だから我々だけで解明しょう」
仁和子はちょっと不安な眼差しを見せた。
「なあーに大丈夫さ、一般論では専門家に太刀打ち出来なくてもお兄さんに関しては我々は相当勉強して精神科医よりも深く関わっているから大丈夫さ」
二人はそこで真相を確信出来るからと念を押した。此の頼もしいひと言が効いて仁和子も眉を緩めてくれた。
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