第48話 途切れた分析

 父の話だと矢張り北欧の旅行中で当時二歳半だった兄は湿地帯で足を取られて溺れかけたそうだと仁和子は報せてきた。

「何故彼女はメールで済ませたのだろう」

「お兄さんのあの資料の分析が佳境に入っているから余計な詮索を挟ませない彼女の配慮だと思うよ」

 と云うがそれは俺への配慮じゃないかと思ったが、三島にアッサリと躱された。

「それで篠田さんの心にどんな変化があったんだ」

「その原因を松木先生は夢分析を試みたらしい此の辺りの記述が多分そうじゃ無いのかなあ」

 ーー君は、アッ、失礼、篠田さん、あなたは子供の頃は随分と親を困らせていたんでは無いでしょうか。

 ーーそんなことはないです親の云う事をよく聴く出来過ぎた子供だったようです。

 ーーそれはあなたが物心ついてからの話でしょう。その前については何も覚えて無いと思うが。

 ーーそれが普通なんでしょう。誰も物心つく前の自分なんて知っていればそれは天才か魔物何でしょう。

 ーー魔物にたとえる処が尋常じゃあありませんね。

「これはいったいどう言う心理なんだろう」

「おそらく自然を畏怖して崇拝するその裏返しの心境が幼児に於いて芽生えていると先生は指摘している」

「なるほど確かにカウンセリングではそうなっているよ」

 三島はこれはひとつの誘導尋問のようなものだろうと言われても倉島にはピンと来ないが次を見てみる。

 ーーそれはどう言う意味なんですか。

 ーー特に深い意味は無いんじゃよ、人間本来はその二つを併せ持って生まれているが親の躾や社会の教育によって善良な魂だけが育ってゆくが決して悪魔的な心が消滅するもんでは無いから、だから生きる上において人は苦しみ葛藤する。此のバランスを欠いたごく僅かな人達が自虐に堕ちて犯罪行為に走ってしまう。だが多くの人は此の紙一重の処で苦悶しながら心の葛藤と闘って持ち堪えながら人生の終焉を迎えられるように私たち精神科医は頑張っているんだよ。

 ーーそれは本当に誰にでもあるんですか。そのー、心の中に魔物は棲んで居るんですか。

 ーーなあ〜に、恐れることはない単なる怠け癖だよ。それをもっともらしく理屈っぽく騒ぎ立ててるだけだよ。それらに比べれば篠田さんだって立派に生計を立てている。

 ーー本当にそうでしょうか。

 ーーそうだとも。ただもの心つく前の記憶に何か嫌な事が無ければ良いのだが。

 ーーそれはどうしてですか。

 ーー篠田さん、あなたはあの池の浮き島に漂う向こうに側に何か視えませんか。

 ーー特に何も見えません。

 ーーじゃあどうして恐れるんでしょう。あなたはどこかであれに似た湿原のような風景を見ているんだ。だから深い森に包まれると安心するんでしょう。

 ーーそうです。鬱蒼とした木々の中に居ると安らぎます。

 ーーそれはもの心ついてからですか。

 ーーいつからかよく解りませんが気が付けば営林署で働きたいと決めました。

 ーーその切っ掛けを掴んだ出来事はありませんか、例えば犬や猫、まあ何でも良いですから溺れる光景を目にしませんでしたか。

 ーー動物じゃ無いですが友達と川で遊んでいて友達が溺れる光景を目にしました。

 ーーそれはいつです。

 ーー小学生の時です。

 ーーそれ以後にそれに似た夢は見ますか。

 ーーいえ見ませんが夢に水面が出て来ると胸が痛くなりうなされて起きることがありますしその日は暫くは頭が重くだるいです。

 ーーそれはこれから夏を迎えるのに悲劇的な兆候ですよ。それじゃあ海や川に泳ぎに行かないですか。

 ーーいえ、特に拘らずに行って川のせせらぎや押し寄せる波の音には癒やされますね。

 ーーじゃあ波風一つ立てない静まりかえった池の水面みずもに拒否反応を示して恐れを抱くまでになった原因が特定されなければその頭痛は繰り返され生命をおびやかしますよ。ところで篠田さんは夏と冬はどちらが気分が高まりますか。

 ーー夏は気分が高まり草木の眠る冬は憂鬱になります。

 ーーそれで拓けた草原より夏の深い森に包まれたい。そう云う夢を好んでいるのだね

 ーーそうです、そんな夢を見た翌日は一本一本の木々の声まで此の耳元に届くような気がして。だから池が突然現れる恐怖に打ち勝てて深い森にどんどんと分け入ってしまう。

 ーーじゃあそこで心の中が全てが吹っ切れてしまうのですか。

 ーーそうだと思います。それで先生はそんな夢で何か分かりましたか。

 ーー段々と心の拠り所が見えて来ましたね。もう少しで切っ掛けを掴みそうです。まあここ暫くは梅雨の長雨で籠もりきりですがそろそろ梅雨も明けそうな本降りが続いてますがこれが過ぎれば直ぐそこに夏の太陽が迫ってますからそれまで根気よくカウンセリングを受ければいいでしょう。

「ここで篠田さんが受けたカウンセリングは終わっているようだ」

 そう言われて倉島はそこで資料の記述が途切れていて頷けた。

何故なぜ先生はもう一押ししなかったのだろう」

 何故此処で先生は次回のカウンセリングまで結論を延ばしたのか不愉快だ。此処であなたはこうだからこうしなければならないと説いていれば、篠田さんはあの池に魅入られなかった気がする。

「ここで結論を引き延ばしたのはおそらくは心理分析で一番大事な時なんだろうやっと掴みかけた心の襞を見失わないためにも焦らず時間を掛けてもっと細かくカウンセリングを繰り返して導き出してゆけば篠田さん自身は気が付いていない、いや記憶の片隅に押しやられて消えて仕舞って深層心理の中に収まっている想い出を彼の前に引き出せたが……」

 それは篠田さんにとっては想い出したくないトラウマで、これが彼の精神を不安定にさせている要因だろう。それをどう修復させるのか、外科医なら病気の根源を見付けて、どう切除するかが腕の見せ所だが、外科と違って切り取れば良いもんじゃない。なんせ相手は形の無い心の修復なんだ。想いだしたくない辛いものを乗り越える愉しさをどう導けるかだった。


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