第46話 診察の核心を探す

「此の問答から分かるように篠田さんは山へ帰ろうとしている。あの人には拓けた土地より、もっと山深いそれこそ神聖にして犯すべからずの土地への郷愁に駆られた。だからこの施設で悶々とした日々を送っているとすれば、倉島さんが此処へ来たあの夜の心境と同じなんじゃないか。まああれは俺が君の近くで煙草をぷかぷか吹かせて居たから良いけれどね」

「じゃあ三島さんは俺の神経を紛らわせる為に、あれからいつもあの紫煙の煙に俺を包んでいると言うのか」

「まあそこまで言ってないが、結果はそうなっているじゃないか」

 お陰で倉島は完全にあの池から離れられたと謂っても過言では無い。要は関心を他に向けられれば、深泥池なんて怖くないのだと三島は言っている。彼がのうのうとしてられるのも、深泥池に代わる存在があるからだ。それは仁和子さんだと倉島同様に決め付けている。これも航海中に読破した心理学の本の賜だと云ってのけた。

「さて問題は崇拝をしていないのにそれでも篠田さんは深泥池に心を通わそうとしたのだろうかだ」

「ウン? それは違うだろう三島さんはさっき言ったばかりでしょう彼は心ここにあらずで山へ帰ろうとしていると」

「崇拝で無く疑念を抱いているんだよなんでこんな所に氷河期の生き残りの植物が自生しているんだと、これは神木に似た信仰心が、いや、厳密には神抜きの信仰心、いや、迷信、いや、伝説のたぐいを払拭したいのだろう」

「それでその結果を求めてあの池に日々近寄った」

「要するに懲りすぎたんだ人間はそうなると一体化を求めるまあその究極が恋だろう」

「ウッ、じゃあ篠田さんは深泥池に恋した」

「そこまでは本人に成り切らないと分からんが突き詰めれば要は程々が良いんだ特に恋はなあ」

 思い詰めた恋ほど悲恋を招く、と三島は経験談を踏まえてのたまわっているようだ。

「三島さん、今解決すべきは恋で無く此の資料から仁和子さんのお兄さんの真相にどこまで迫れるかですよ」

「分かっているがこれは決定打が欠けているなあ」

 と三島は再び資料に目を通した。

「と言うと何が抜けているんだ」

「篠田さんの心の動きについて先生はどうこう言ってない」

「だから問題ないんじゃないの」

「そうならこれ程苦労しないんだよ」

「じゃあ先生が問題を捜そうとしないんだろう」

「それでは精神科医は務まらんよ」

 と言いながらどっかで先生は、篠田さんの異常性を見抜いている。だからあんな問診をしたんだ、と三島は解ったような事を言っている。倉島にすればそれは要するに真面な人間だからで、それはそれで結構なもんだと開き直っている。

 処で先生、夜になるとあの池の淵で人影を視るんですけれどと篠田が訊くと、先生はそれは月夜だろう。あの淵には人のような枝振りの木が一本あるんだよ。勿論それは在る一定の角度からしかお目にかかれないけれどね、と答えている。

「何ですか此の問答は」

「それは核心を突くカウンセリングだなあ」

 とどれどれと二人は注目した。

 ーー君は幼い頃は月が常に自分の頭の上だけに付いてきてくれていると思ってただろうでも大きくなるととてつもなく遠くにあるからちょっと走ったぐらいでは簡単に離れてくれないと判るように、月は様々な人に様々な形で付きまとう。

「普通の問診じゃ無いですか」

「その次のページだよ」

 ーーだからそれはストレスによって月の陰がその木に掛かった時にその影が変に見える時がある。

 ーーストレスなんていつも私は山の木ばかり視てますから今診断でおっしゃったように見えるわけがありませんよう。

 ーーそうかじゃあここへ来てからどうだね。自然の中には色んな池があるが普通の気候帯にある池としては此処の池は特別だろう。

 ーーそれは北の寒冷地では見かけますが、こんな暑いところでは見かけませんね。

 ーーそこだよ、在るべき場所で無い所にそんな池が有れば、そこで自我形成において過去に受けたトラウマを思い起こさすような精神的外傷を患わせる。その場合に多くの人は在りもしない人影を幻視てしまう。だから此の施設はそのような精神的外傷の患者には打って付けの療養場所なんだよ。

「それってどういう意味ですか」

「難しく考えずそのまま解釈すれば良い、まあ続きを見てみよう」

 ーー不安な情勢にあっては発病しないがこの安定した社会情勢の中では勿論、物価高や経済的格差は生じているが、普通に生きていれば命がおびやかされる心配はないだろう。その安定した精神に太古の地球の生き証人のような希な存在が目の前に有れば特別な刺激を伴わせるんだよ。

 ーーそれがあの池にまつわる伝説なんですか。

 ーーああ、だからそんな心に囚われそうな人の分析をしている。篠田さんにはその兆候が端的に現れているから十分に気を付けて普通の池だと決め付けて居れば問題はないでしょう。

 ーーでも太古から存在する池でしょう。普通ならとっくに野原になっているのに何故埋まってしまわないんだろう。 

 ーーそれを考えるから自然を畏怖する篠田さんには普通の人には考えられない篠田さん特有の心的外傷が出来てしまう。だからその治療だと思って私のカウンセリングに専念して貰いたい。

「此の辺りが核心じゃないだろうか」

 と日付に目を遣ると、篠田さんの失踪した日時に近かった。

「これで篠田さんの心境に近づけそうですね」

 倉島はこれで仁和子さんをぐっと引き寄せたと心を弾ませた。

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