第44話 船乗りと心理学

 まあ理屈はそうだと云いながらも三島は、倉島が整理して積み上げた中から「これは条件反射は人間の真理まことを映す物では無いと書かれた本だ」と別の一冊の本を取りだした。

「それには何て書いてあるのだ」

 倉島は読みかけの本を置いて訊ねた。

「そこには理屈で夢は叶えられぬ弛まぬ努力が在ってこそ実は結ばれるそれは条件反射で無く自分の頭で捉えた物だけが実現できるものだろうとこの本は締めくくっているのだ。要はどれほどの苦しみを重ねてもそこから発散されるのは反射神経や深層心理でなく研ぎ澄まされた理性からなんだとこの本の著者は称えている」

 二人が本を片手に齧り付いていたトマトはスッカリ無くなっている。だがもうトマトを必要としないほどに議論は益々冴え渡る。

「本当に死を克服出来るのはそんな理屈や理論では無い思いやりの愛から作り出してくれる愉しみに勝る物は神が居ないように此の世に存在しない」

 三島の言う無神論は完全に神を否定する物では無いのだ。そんな勇気を持った愚か者はこの世に存在しない。彼には神に代わる存在が彼の心を大きく支配している。それは偉大なる道徳心だ。これに勝る神は存在しないと三島は、船乗りらしく暗黒の航路の先に見つけたものらしい。

「でもそれで死を克復出来るとは思えない。松木先生は死ぬなと指示出来るほど落ち込んだ人に愉しい思いをさせる為に何を提示していたんでしょう。それでそんな死から踏み止まれる楽しみって何だろう」

「それは難しい質問だなあ」

 三島はぷかりぷかりと紫煙を上げながら、

「例えば此の煙のように、俺には至福のひとときを導いてくれても別の人から見れば厄介な煙に過ぎないように人の思いは様々だ」

 と笑っていた。 

「だから健全な人は他人がくだらないと思える物でも、本人の心の持ちようで細やかな幸せに結びつけられる物だ。要するに欲望には限りが無いんだ。だから限度を本人自身が決めきれないところに不幸が訪れるんだ」

 なるほどと倉島は三島の自分よがりの理屈に感心させられた。

「じゃあここに居る人々は限度が決められないって言うのか」

「だから先生はささやかな人には希望と幸福がみなぎっていると暗示して諭すんでなくそそのかすように問診から導こうとしているらしい」

 だから先生の仕事は夜になると、書斎に籠もってそれぞれの患者との問診を想い浮かべて、どう質問すれば良いか思案に暮れているようだ。

「それで先生はいったい何を提示すれば理性が幸福感に支配されるかその研究にほぼ人生の大半をつぎ込んでいる。お兄さんの問診ではどんな物に幸福感を生じるか調べてそれから挫折感と幸福感を常に連想できるまで繰り返し訓練してこの実験の成否はどこまで堪えられるかが問題でそのような人をピックアップしてあの施設に招いていたようだそして実験に的さない人は早々と退院させている」

「それじゃあ三島さんはもう直ぐ退院だなあ」

「またそれを言われるが中々どうしてあの先生には引き延ばされている」

「それもまた新たな研究対象じゃないのかなあ。なんせ人の心は千差万別で話題には事欠かないでしょうこの施設の人達は」

 選りすぐりだと倉島は言いたいようだ。だが三島にすれば有り難迷惑だと言いたげだ。彼には何よりもこんなに長くおかに上がった事が無かっただけに、矢張り言葉を飾らないで本音がつかる船員暮らしのほうが楽なようだ。心理学にはまり込みながらよく言うよと倉島は鼻で笑った。

「船乗りって航海中は言葉を飾らないのか」

「船は板子一枚下は地獄って言うからなあその上に居りゃあ遠回しな面倒臭い話なんか遣ってられる訳がないだろう。だから船乗りは単純で先生も遣り甲斐がないだろう」

 と云いながらも三島が又聞きだがと面白い話をした。

 ーー航海中に大時化おおしけに遭って船が沈没したんだ。皆は救命ボートテントに飛び移れた後は救助を待つだけだと知ってほっとしたんだ。だが無線士一人だけが浮かない顔をして、みんながノンビリと救援を待っていても、彼一人その輪の中に入れない。そして自律神経失調症と謂うのを患って僅かな食料さえ受け付けなくなって初めて遭難信号を出してないと分かった。正確には傾いた船室から流された物が、無線機に当たり発信できなくなって、治す間もなく浸水して命からがら逃げたそうだ。その時はみんなから非難されたが、事情が判ると俺たちも着の身着のままで脱出できたんだから無線士ばかり責めるのは酷だ。死ぬときは一緒だとみんなはもう一蓮托生を決め込んで彼を元気づけた。船会社は定期連絡が途絶えて遭難したと判断して、直ぐに海上保安庁に連絡したが、遭難場所が特定できず広範囲に捜索した。その結果、十日後に発見されたが、十三人居た遭難者のうち無線士が亡くなった。

「死因は何だと思う」

「さあかなり責任を感じていたんだろう。それで皆より苦しんだんだろうなあ」

「神経衰弱だ。船内という限られた空間で生きて居れば常に後と先余計な事を考えないで本音のほうが楽なんだ。その時はカッときてもしゃないもっと早く言え ! 、それで収まるんだ。何もない海の上で争ってもどうしょうもないんだそれより打破する方策を練る方が先決なんだよ」

 航海中は誰も腹に溜めて置けないから心理学も無用だと三島は言った。


 

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