第42話 三島と心理学
でもそうは言ったものの、出掛けに覗いた彼の姿はなんとも形容し難いほど、実にシリアスなニヒリストだった。あのワンルームに等しい部屋にベッドと机が在り、そこには心理学の本が彼の試行錯誤を物語るようにランダムに散らばっていた。三島はと云うとロビーの自販機で買い求めて、既に空になったコーヒー缶から、燃え残りの紫煙の煙を漂わせていた。どうもはかどっていないようだ。それをどう仁和子に説明すれば良いか、混迷を極める彼の頭脳が採った方法がさっきの続きだった。
「あの本に関しては面白い余談があるんだ」
と言えば彼女は此の話に食い付いてきた。
「なんせ大衆小説と心理学の本では値段が桁違いだから間違えた本屋の
「まあそうなの本屋の主人もまだかまだかと本が送り返されてくるのをそれこそ首を長くして待ったでしょうね」
「その一方で本屋の主は平身低頭で間違えた大学に謝りに行ったそうだそう言う
「そのワッチって何なの?」
「船の機関員を除く乗員みんなで寄港地に着く手前まで二時間ずつブリッジで見張りをする二時間経てばワッチ交代と次の者に順繰り告げて行く勿論ワッチは船が大海原を出てからで港や水道を出るまでは船長や航海士が操船をするから一般船員にワッチが廻って来るのは操船を自動に切り替えてかららしい。自動と言っても小型の船は波があるからそれを乗り切るたびに船は左右に揺れる。僅かな揺れの連続でも時間が経てば船は航路からズレてしまうから当て舵をするそうだ船が左右に揺れると舵を常に逆に切って揺れ幅を抑えてやるらしい」
「そうなの、航海士も大変ね。それじゃあ三島さんって本屋のミスが災い転じて福と成す人なのねだから今度もきっと良い結果が期待できそう」
「どうだろうなあ」
「そこに至った経過が余りにも滑稽すぎて並の人には及びそうも無いのね」
と心理学とは無縁な航海士が仁和子の兄の記録を解析するという。此の不思議な巡り合わせに期待と戸惑いが混ざり合い、どう解釈して良いか分からない。
「三島さんはあの孤独な部屋で一生懸命に松木先生が記録した兄との問診記録を一字一句を読み解いている。どうしてそこまでするのかしら」
「あの人の巡り合わせがそうするんだ船内の限られた世界に限られた物しか無ければそれにのめり込むように今はお兄さんの資料が在りそれを解析出来る知識と成果を期待されれば没頭してしまう人なんですよ」
「それってあたしのこと」
「いや、特に特定の人を指し示す物でもありませんが……」
と倉島は途端にライバル意識が出ると、アピールポイントなのに急にトークダウンしてしまった。闘争心が乏しい男の宿命を背負ってしまったと後悔するより、蹴落とす非情さを失わせた彼の人生に、祝福を贈ってくれる相手を探せばいいんだと己に言い聞かせる。
「何も気にするものじゃあないでしょう」
と此のしばしの沈黙の間合いに仁和子は倉島の人柄を掴んだようだ。
「あなたはつまらいものに気を使う人なのね」
仁和子はちょっと小悪魔的に微笑んでいる。これが倉島には心の奥底を覗かれたようで気まずい思いに囚われた。
「まあ、それより倉島さん、あなたもあの池に呑み込まれそうになったのね。あの診察記録を見てそれがずっと気になったのです。わたし、思うに、兄の命は消えても想い出はあの池に残る。だから倉島さんが見た人影は兄の面影なのかも知れない。だからあの池は今までどれだけの想い出を背負い込んでしまったのでしょう」
仁和子は遠い兄の想い出に惹かれてあの池に導かれてゆく。あの池は多くの人の面影に依って、今日まで生き永らえているから、人は伝説を語り繋いでいるらしい。だから兄はあの池に引き込まれたと結論付けた。
「それで仁和子さんはあの資料からお兄さんがどうして雨上がりの危ない時期だと知りながらあの池の淵まで行ってしまったのか理解できたのですか?」
「あたしは三島さんほどの知識がありませんからあの問診記録からそこまで理解できる予備知識が乏し過ぎてあの資料を何度見ても当日の兄の行動は不可解だらけよ、あれで心理や行動を読み解こうとする精神科医の先生方の苦労には頭が上がらないわね」
と半ば諦めてしまえば、一層に三島の苦労が身に染みるらしい。これには倉島も辛いところだ。
「そうですね、だからそれを最も理解してくれていると確信したから松木先生は景山さんに資料のコピーを渡されたんだ」
もっとも景山さんには心理学の心得は全く持ち合わせていないが、そこがホテルマンとして磨き上げた接客業の極意の極みが、発揮された結果だと倉島は思った。
「でもその景山さんと交渉してくれたのは倉島さんだから」
とその功績を買わればほっとけずに、これから三島と一緒に解析を手伝う約束をしてしまった。
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