第40話 峰山は仁和子を呼び出す

 地下鉄烏丸線国際会館駅を降りて、四番二の出口を抜けると、目の前には林に包まれるようにホテルが建っていた。それが篠田仁和子が務めるホテルだった。従業員通用口から出勤すると、受付窓口の守衛と話す上司の峰山に見つかり「着替えればちょっと来てくれ」と声を掛けられた。彼女にすれば兄の事だとピンときた。

 制服に着替えると、二階にある十畳ほどの従業員室の控え室に入る。部屋にはお湯の給水器前にポットとワゴンが置かれて空いたスペースに椅子とテーブルがあった。そこには何人かがたべっていて同僚の女の子から「峰山さんなら事務所の業者用接待場所で待ってる」と伝えられた。なら最初にそう指定すれば良いのにとまた一階へ降り直した。

 事務所にはデスクが整然と並び、その一角に観葉植物で囲まれた三畳ほどの応接セットに峰山が待っていた。彼女が来るといつのも厳格な顔に似合わず、緩めた頬から僅かに白い歯を覗かせながら前のソファーに勧められる。

「何でしょう」

 と仁和子も釣られてちょっと頬を緩めた。

「景山さんを知っているのか」

 唐突に訊かれて予定したとはいえ、途中を省くなと言いたくなるのを抑えて「どうかしましたか」と逆に質問した。これには峰山も君らしいと苦笑いをした。そこで彼も単刀直入に、この前に君のお兄さんの事で会ったと告げられた。そして景山さんがお兄さんが居た深泥池の施設の責任者であるのも確認するとどうやら峰山は少し戸惑った。

「その件で景山さんが突然此処へ来られてあれには驚かされたよ」

「あらっ既に景山さんは此処へ来られたのですか」

 と彼女は今まで黙っていたのに恐縮したが、それは景山さんが口止めしておきながら、勝手に曝露ばくろされたと判り彼女には複雑だった。

「全くあの人は自分のペースで全部遣ってしまう人なんですか?」

 あたしには口止めしておきながら峰山と直接会ったのが仁和子には不安なんだ。そこで峰山は、以前のホテルでは景山さんが培った接客業の全てを教わった。その師弟関係から良し悪しの区別はハッキリしている人だと言って、彼女の不安な気持ちを落ち着かせた。

「まあお兄さんの事は手土産代わりで課長は、アッ、前のホテルでは景山さんは課長で私は平のペイペイだったが人前では課長、二人の時はおやじさんと呼んでいたんだよ、その気楽さでお兄さんの治療カルテの件であの施設の医者と談判したそうだが……」

 あれほど極秘扱いの篠田さんの記録をコピーして、ここまで披露しているのは、景山さんを信頼しているからだ。それと医者も今までのお飾りの管理職と違いこの景山なら、四十数年にわたる人の心理の本質に迫る今までの医療活動に報いてくれる良き理解者だと思った面もあるのだろう。それほど心血を注いだ資料を景山さんが努力して手に入れて貰ったのだから閲覧できて良かったと強調した。

「それでお兄さんの事は気が済んだか」

「ウ〜ん、それが益々謎が深まるばかりなんです」

「そうか景山さんもそれを嘆いたそうだ」

「どうしてですか」

「これは景山さんから聞いた話だがあそこは単なる施設でなく国の研究機関なんだ。それが証拠に一見すると真面な人間ばかりだが直接機械や運行に携わる運転手などの精神の安全管理を目的に作られた施設らしい。入居者は単なる営業を除く多種多様な物や自然に関わる人で主に機長、船員、鉄道員など達で考えられない人為的な運転ミスで事故又はそれに該当した人達らしい。まあそれ以外の者たちも若干居るがお兄さんもその部類に入る人だから呼ばれたようだ」

「それは初耳だわ、あの施設には詳しい三島さんって云う人さえそれは知らないでしょうね」

「誰だ、その三島さんって言う人は?」

「何でも一等航海士で航海中に心理学を極めた人らしいの、その人に兄の診察記録を分析して貰っているんですけれどどうして兄があの池に近付いたのかは診察途中で中断して其の先を今分析して貰ってるんですけど難しいみたい」

「それはお兄さんのせいで無くそれは池のせいなんだあの池にまつわる伝説に導かれてしまった人達の話は此処でも良く聞かされるよ。此の近くで食材を納める業者や農家からね」

「そうなんですかッ、そんな話は此処では聴いたことが無いけど」

「当たり前だよそんなもの大っぴらには出来ないよなんせどこにも根拠の無い噂だからね一部の人にしか話すわけないよ。ましてお客さんと直に接する部署にはそんな根も葉もない情報を流せないだろう」

 彼は此の噂を聞いて一度あの深泥池に行ってみた。バス停から観る池は間際まで道路が迫りどうって事無いが、拓けてない向こうの山裾側は境が分かりにくい湿地帯のように成っている。だから増水すると浮き草が動いて分かりにくいし、なんせ底なし沼だという噂だからなあ。でも噂で商売、営業は出来ないよと峰山は言っている。

「それもそうね氷河期からの生き残りと云うだけで何も解らないんだから、でも本当なんでしょう」

「まあね、でもお兄さんのことはなんとも言えんが景山さんに言わすとあの伝説はあれは仏教で言う人間が持つごうだと言っている」

「何ですかそれは」

「人間が織り成す前世からの心の複雑な綾模様。泊まりに来る客は旅の安らぎを求めているが普段の家や会社では人と人との軋轢あつれきに揉まれてみんな心に鬱積うつせきしたものを持っている。それを忘れさせて心静かに寛げる宿を提供する。謂わばおもてなしの心。それが接客業の基本だと景山さんから言われたなあ」

 と今更ながらあの人の心の深さを思い知らされた。


 

 

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