第39話 揺らぐ松木の定理

 茶会は終わり兄の資料は三人の頭の中に仕舞い込まれた。だがその解釈は三人三様で店を出て再び宝が池に足の方が勝手に向かっている。

 三島の解釈に仁和子は腑に落ちない。どこか視線は捉えどころのない闇をさすらっている。おそらく兄に関しては、そんな弱い人間じゃ無いと心に決めているのに、三島の話にぐらつき始めた眼だ。妹は彷徨さまよっていると、おそらく兄が居ればそう声を掛けたかもしれない。

 だが三島が云うのは人間のもろさだ。それは大なり小なりみんな背負い込んで生きている。それがあの池を前にして人生の重みになる奴だけが迷い込む池なんだと言い聞かせて、倉島があの夜に観た人影は幻視まぼろしに過ぎないのだと心の奥底に叩き込んだ。

 三人は宝ヶ池の周回コースを散策し始める。といつものように仙崎さんが此のコースを走ってきた。三人の中の女の子に珍しそうに目に留めると彼は走るのを止めて歩き出した。

「おやッ、いつものご両人、今日は奇妙なデートですか」

 と仙崎は茶化し始めた。これに三島が笑って応え、松木先生との治療はどうですかと声を掛けた。

「あの先生は凄いよ国連のPKO派遣で痛んだ心の傷を見事に修復してくれたよ」

 派遣された自衛隊の南スーダンの紛争では、宿営地の近くにまで銃撃や迫撃砲弾が落ちてきた。あれは衝突でなく戦争だった。しかし国民は知らされてないから俺たちはいったい何処までやれば良いんだと半ば自棄になる隊員もいた。それで帰国してから心を病んでしまった奴もいたが、俺は何とか持ち直せた。

「じゃあもう退院ですか」

 と三島が意味ありげに訊ねる。

「いや、それがこれから本格的な問診治療が始まるらしい」

「ハア? それはどう言うこと」

 と倉島が素っ頓狂に聞き返した。しかし三島にすればこれは折り込み済みらしく頷いている。

「じゃあこれから反復練習ですね」

 それはそのまま篠田の資料のお復習さらいのように三島は言った。そうとは知らずに仙崎は「詳しいですね」と感心する。

 マラソンから徒歩に切り替えた仙崎と四人が並んで周回コースを歩くが、夏場の午前中でも暑いのに、まだ走れるのは三等陸曹の仙崎ぐらいだ。その屈強な仙崎さえあの施設で治療を受けている。それだけ彼も精神が脆いのだ。

 一緒に歩き出すとホテルの受付嬢である篠田を仙崎に紹介した。これには仙崎もそれで三島さんはあのホテルに入り浸りなのかと冷やかされた。人聞きが悪いと三島も倉島も弁解に立ち回っている。これで仁和子は穏やかに話題に入り込めた。

「ホオーあなたのお兄さんもあそこで療養されていたんですかそれで快復して良かったですね」

「それが仙崎さん、良くないんですよ」

「なんでまたどうしたんですか」

「どうやらあの池に呑み込まれたらしい」 

 仙崎は急に沈痛な表情を湛えた。そして彼も一度ははまりそうになったらしいが、あの時は間際に足元の異常な感触に危険を感じて直ぐに飛び退いたらしい。流石はもとレンジャーで慣らした瞬発力だ。

「確かにあの池は反射的に足が引けなければ危ないですよ。足元に踏み留まる力が微妙になっておやっ? て考えればもう手遅れでそのまま引き込まれますよあの池は」

 これには倉島も実感が籠もって背筋が寒くなる。そしてあの治療カルテではお兄さんの快復には役に立ってないと思わざるを得ない。だが彼女にはどう説明して良いか一層あの淵に行って体感して掴んで貰うしかなかった。いつか案内してあげたいが、一人では絶対に行かせたくない。

「それじゃあ仙崎さんはもうあの施設を出られるんですか」

「いや、篠田さん、これからですよ本格的な精神療養は今までは安定させる治療何ですよ」

「ほうー三島さんはどうしてそう決めつけられるんですか」

 篠田の記録は、丁度今の仙崎さんが快復する一歩手前までいったが、本人の失踪で終わっている。おそらく仙崎さんも、あの篠田の診療記録と同じ治療を受けていたらしいと三島は推測して、一部を披露すると、仙崎はどうしてそんなに知っているのか不審がられた。

「三島さんは長い航海で心理学の本を読まれたのですよ」

 まあ注文した娯楽小説がどこでどう取り違えたのか、精神科医が手にするような本が船内に配送されていたそうだ。

「それなら三島さんに診て貰ったほうがリラックスできていいかもしれんなあ」

 と仙崎に言われて三島はある程度の緊張感がなければ問診は覚束おぼつかないらしい。そしておそらく競輪選手の布引さんの場合は、深層心理を条件反射によって、無意識に導き出せる反復練習に入っているんだろう。でも結果は人それぞれバラバラだろうとも指摘した。

 なるほどと仙崎はどこまで分かったのか知らないが暑くなるまでに走り終えたいとまた走り去った。

「あれだけのきめ細かな診察にも係わらず何故兄は自殺したんでしょう」

「自殺じゃあ無く引き込まれたんですよ人は意識している限りは生き続ける、いや、生を模索するようになっているんです」

「三島さん、でも仙崎さんや布引さんを観ているとあの二人はいつもこの近くを走り回っていてあの池に干渉する暇なんて無いんでしょうねそこへ行くと営林署に居た篠田さんは真面にあの池と向かい合う日があるんでしょうね」

「そんなの仕事とは関係ないよどんな猛者もさだって死ぬのは怖いが生きるのが怖い奴だって少なくとも漁船には乗っていたぜ」

 要は人間の心理なんてどんなに研究しても、限界があるってことを此の資料は俺たちに訴えているんだと三島は言いたげだった。

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