第37話 松木の言い分

 尖塔の有る洋風の喫茶店から出た四人は表で景山と三人は別れた。遠ざかる景山の後ろ姿を暫く眺めて角を曲がったところで三人は反対方向に歩き出した。一方の景山は鬱蒼と茂る森を切り開いた広い宝ヶ池通りを曲がり、行きしなに女の子と打つかりそうになった地下駅の出入り口を通り抜けた。その先にはこんもりとした木立に包まれ、角の無い丸いホテルが在った。景山はそのホテルのロビー横のフロントに居る受付嬢に景山と名乗り、そう言えば解ると峰山を呼び出してもらいロビーラウンジのソファーに座って待った。

 暫く待つとおやじさんと声を掛けられた。おう元気かと云うなり前の席を勧めた。

「わしの後を遣ってくれていると思っていたあのホテルを辞めてしもたんか」

 峰山が長野県の高校を出てから入ってきたあのホテルでわしがノウハウの全てを教えたのにと残念そうに訊ねた。

「後を任されながら申し訳ないです」

 まあ色々な事情があったと思うが何も言うなと「夏休み中で宿泊が一杯だそうだなあ」と直ぐに間を置かずに話を変えた。これには峰山は親父さんのお陰だと恐縮した。

「又どうして此処が分かったんです」

「いや、灯台もと暗しやなあ、いやな、わしは今此の直ぐそこの深泥池みどろがいけにある施設に居るんや」

「ハア? 課長は国の出先機関の特殊法人が母体の宿泊施設を任されたですよね」

 まあそやけどちょっと張り切り過ぎて、地元の民営旅館業を圧迫したと裏でおかみに訴えられて、左遷されたと公営ホテルの経営の難しさを説明した。

「それでもうホテル業はわしの手から離れてしもた」

 どうやらこれからは、落ちこぼれ官僚の椅子取りゲームのように、尻に付いて回されると落胆した。これから先々で就くポストで遣り方に意義を挟めば、天下り先は閉めだされて、他の公共施設の理事や館長のポストも蹴られて、早い退職に追い込まれ退職金の上乗せもなくなる。何事もこれからは事なかれ主義で、平々凡々とやっていかなあかんようになったと嘆いている。

「わしにはどうもそういう生き方が性に合わんのや」

「そうでしょうねえあのホテルで十年以上も親父さんのもとでみっちりとホテルマンとしての修行を教え込まれましたからあの当時を思うと接待する方からアッサリと接待されるような生活は合わないでしょうね」

「峰山もそう思ってくれてると有り難い今すぐとは云わんが新しいホテルが出来る噂でもええ着工前にそう言う話がホテル同士で流れてくるはずや工事が決まってからではわしのようにホテル業から遠ざかってアンテナがない者は出遅れればそれがそのまま尾を引くから寄り合いや会合で他のホテル仲間とは密にして情報を持って来て欲しいんや」

「あのー、今一度伺いたいのですがもうホテル業界とは縁がもうないんですか。いえ、どうして私が此処にいるのが判ったのか気になりまして」

 そこで景山は施設の三島から此処のホテルの篠田まで辿り着いた経過を説明した。話を伺った峰山は巡り巡ってそんな数珠つなぎに結ばれた縁に導かれて来られたことにいたく感心した。

 それで篠田のお兄さんの件ではかなり骨を折って頂いて彼女の上司として改めて礼を言われた。それに対して景山は、別にたいした事じゃなく礼を言われる物じゃ無いと峰山の肩の荷を軽くしてやった。こうして昔の師弟関係の復活にはそう時間が掛からなかった。

「どうやらこの街にも外資系のホテルが増える噂が絶えないらしいです」

「ほうー、それはええこっちゃどっちにしても資本は外国でもお客さんを切り盛りするのは日本人やからその話は掴み損なわんように」

 と景山は期待した。

「それで親父さんはいつその篠田が私の部下だと知ったんですか」

「先ずは三島が篠田と云う受付嬢を知ってからその後にやって来た倉島という者が彼女が君の部下だと分かったらしいから一月以上前だろう。だがわしが知ったのは最近や。篠田さんのお兄さんのカルテを精神科医が門外不出だと頑張られるとこうして此処へ来るのが気まずくなるさかいなあ。それまで彼女には内緒にしてもらってたよ」

「じゃあそれから親父さんは篠田のためにその精神科医と交渉して頂いたんですか」

「まあそう言うこっちゃ」

 ーーまあどっちにしてもわしも入居者のカルテを見たのは初めてだが、あの松木と云う医者と患者について話したのもこの件が初めだ。依って彼の考えを尊重してやるためにその言い分、即ち松木のこれまでの研究成果を先ずは聴かされた。

「人間は自ら死を選べるもんじゃない人は死の直前まで生きたいと望んでいるもんだと分かったよ」

「じゃあどうして意に反して人は死ぬんですか」

「つまり松木の言い分はこうだ」

 ーー生きたいと思う気持ちを何処まで持ち続けられるか。言い換えれば死の恐怖を無意識に受け入れた時に脳細胞の伝達物質が、いつもと違う回路を通り、人は死の行動に走るらしい。此の切り替えは紙一重なんだ。例えば首吊りで足元の台を蹴り倒してから、脳細胞の伝達物質が異常に気付いて、正常に働いたとしてももう手遅れだ。本人にはそれはないと先生は願っている。

「もしも、飛び降りた直後に意識が戻ればそれは悲劇ですね」

「その場合は魂は永遠に現世を彷徨さまようらしい」

 と非科学的だがその精神科医はそう云っているそうだ。だからそれをもっと早く気付く手立てを彼は研究している。無意識に死を選ぶようなら、絶対にいつもと違う回路を伝達物質が通れない訓練方法を、何十年もあの施設で彼は模索している。

「それは可能なんですか」

「それが過去の者が研究した条件反射を松木は自殺防止に応用しょうとしている。篠田さんのはその膨大な資料の一部に過ぎないらしい」

 松木は自殺願望などあり得ないと全面否定して、死の真際に於ける生きるすべを探っている精神科医なのだ。

 


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