第35話 仁和子の予定
翌朝には看護師に勧められて朝食だけは食べて退院して帰ってきた。なんせ手荷物一つだけだから気軽に散歩がてら施設の玄関に戻って来た。さっそく受付のおばさんには、連絡すれば迎えに行くのにと言われても、荷物のなさに「その必要も無いか」と笑われた。そして景山代理から、三島さんに余り無理しないように二、三日は出歩かないようにと言付かったと伝えてくれた。そこへこれから迎えに行こうとした倉島がやって来た。
「三島さん一人で退院したんですか」
「看護師さんが付き添うと言われたけれど煙草が吸えないから断っちゃったよ」
「まあそこまで相手に気を遣う人なら煙草は止めるなあ」
と倉島が云うと、解りきったことを聞かんでくれと云う顔をされた。どうやら病院を出て此処までの途中で既に一本吸ったらしい。
「倉島さんには色々と経過報告を聴きたいから部屋へ行きますか」
と誘われたが行き先は部屋で無く、三階の踊り場でソファーに座り込まれた。さっそく缶コーヒーを空けると煙草を吸い始めた。
「代理は受付のおばさんの言伝では暫く養生せーと云ってるらしいなあ」
「そりゃあそうだろう第一に糸が取れて直ぐ退院させる病院は無いと思うがなあ」
「たかが盲腸だよ」
「そのたかが、で、手遅れで亡くなった奴も居るんだぞ」
「だからまあ今日はここに居るから倉島さんに華を持たして
無論それは望むところだが何か取って付けた言い方が気に入らん。と言いながらも彼女も結果を待ってるだろうと、あの藪医者からお兄さんの診察記録を渡されたとメールを送った。
「じゃあもう一本吸って待つか」
「エッ、ちょっと待て! 医者からはなんと言われてるんだ」
あの病院では禁煙していたから先生も特に何にも云わなかったらしい。それは知らないだけで良いわけ無いだろうと口論しているとさっそく着信があって、もう直ぐすれば手が空くから来て待ってて下さいとメールを寄越してきた。それで倉島は暫く煙草を慎むように言って彼女のホテルに向かった。
外に出ると矢張り夏の日差しが強いが心地よい風が吹いて何とか暑さはしのげた。ホテルに着くと、受付フロントに居た彼女から、あと十分ほどで交代が来るからと、いつものラウンジで待機した。
彼女は殆ど待つこと無くやって来た。席に着き珈琲を注文すると、直ぐに昨夜景山さんに誘われて居酒屋で松木との遣り取りを話した。
頷いて聞くだけだったが説明が終わると、景山さんってどんな人ですかと訊かれた。あッ、そうだったあの施設の責任者だと云う以外はなにも話してないんだ。
「妻子ある五十前後でホテルマン一筋でやってこられたけれど今は不本意な転勤をさせられて
と通り一遍の説明をするとホテル一筋なんて何だか寂しそうな人ねとポツリと言われた。たまに顔を合わせてもひと言二言の挨拶しか交わしてない。膝を交えて会ったのはあの日が始めてで、それほどの印象は受けなかった。今になって彼女の言う一筋を思い返してみてどうなんだろうと思う。
「お兄さんは営林署に勤めていたのですか」
これには仁和子は
「いずれは解るが資料には載ってないがお兄さんの職業を知らされたんですが……」
そうなんですかと彼女は地味な仕事と思われたくなかったそうだ。
「兄は山が好きでと言っても登山家ではありません。近くの森に惹かれて山林に踏み込んで行くと、そこで広葉樹の森には巨木が自然と
「どうして今まで黙ってたんですか」
森に入って人を見ず、林に入って人を見る。それほど山林は人の手を入れないと荒廃するらしい。それが兄の偽ざる動機だと知らされた。昔は伐採したうちから植林をして育てていた。それが輸入材に押されて伐採も植林もしないから、山は廃れてゆくのに危機感を感じていたらしい。
「それで何か不手際でもあったんですか」
少し眉を寄せた仁和子を観て倉島は慌てて、あの施設に来る人は何か心にわだかまりを残した人が多いらしい。それでひょっとしてお兄さんもと思って口を滑らしたと弁明した。
「そうなんですか、あなたも三島さんも」
と今度は更に変な顔をされてしまった。
「兄もそうでしたが二人ともどう見ても普通の人に見えるけれど」
「それはあなたに云われるまでも無く幾ら自問しても不可解だらけで彼も私も来た当時は普通の人と変わりがないから理解できなかった。勿論今でもそうだがしかし今では考えずにあの藪医者に任せているんですけれど……」
なるほどそうね、と何が可笑しいのか、これは聞くほど野暮な質問だと笑われた。
「そう言われても誰も真面だと思っているから不愉快でしょうね、これはもう精神科の先生に任せるものなのね、それよりあたしの休みの予定だけれど……」
どうやら今は夏休みで家族連れのお客さんで、部屋は満室でせっかく三島さんに骨を折って貰って、いえ、盲腸炎までされて頑張ってくれたけれど、今日明日は無理で三日後に休めると先延ばしされた。
倉島も糸を抜萃したばかりの三島さんには良い療養になると、それから景山さんの事はまだ峰山さんには内緒にしてもらった。
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