第33話 精神科医松木
ホテルマンの道を歩もうとする景山の決意に
「それで何を知りたい」
「篠田は本当に失踪したのか」
「それは表向きで多分あの池に呑み込まれたのだろう」
「なぜそう言い切れる」
「彼に限らず自ら命を絶つのは真面な神経では出来ない。そこに蓄積された異常な体験が作用していると今までの資料の分析からわしは一つの結論を導く出そうとしている。これは四十年以上にわたり私が調べ上げた資料ではそう謂う事になる」
異常な体験は人それぞれ異なる。穏やかに育った者が
「弱いんだ。他の動物には無い満たされた生活が余計な行動にと走らせてしまう。それを分析するのは並外れた思考能力を要するんだ。そこが外科や内科では極めきれないものが精神科医にはあるんだ」
此処で彼は妻を呼んで珈琲の催促をした。松木に誘われるままに景山も所望した。
松木は戦前から前線の兵士が神経障害を起こして治療に当たった精神科医の記録に目を留めている。死を前提にして前線に赴く兵士の心理は今日の我が国では余り参考には成りにくい。それでもその違いを比較するのはやぶさかではなかった。
「例えば誰が見ても異常だと思える体験を積んだ仙崎の場合は原因が特定して対処しやすいがそうでない誰が見ても仕事を普通に
逆に松木から最近になって倉島と話してどうだったかと景山に彼の様子を訊ねられた。これには景山も全く普通の人と変わりが無いどころか、倉島より変な奴は世間に五万と居ると答えた。それに松木は世間はそんなものですよと笑われた。そこで妻が淹れたばかりの珈琲を持ってくると、再び応接間は香ばしい珈琲豆の香りに鼻孔が緩み、そのまま一口すると喉から精神に安らぎが満たされていく。
「どうですか今の気分は」
「落ち着いて居て良い気分で悪くない」
「此の気分をメスや聴診器を使わずに仕組みの解らない心に此の珈琲で味った気分を此の珈琲以外で治療しているのが精神科医なんですよ」
言われた景山は珈琲カップの表面を漂う褐色の中に、闇に閉ざされた精神を救い出そうとする松木の姿を観た。
二年前にいや、二年半前だ篠田があの施設にやって来た。一月中頃の寒い朝だった。最初の診察では全く異常は把握出来なかった。まあそこは精神病院じゃ無いんだ。だからあの施設に来るのはどいつも傍目には見分けの付かない奴ばかりだ。つまりそれを判断して見極めるのが松木の仕事だ。
「我々はその人の言動や行動を観て診療するから空気を観察するみたいなもんですよしかし大気には成分を調べれば気象現象は予測できても人の心の奥底は並大抵のもんじゃ無いって事を理解していただいた上で篠田さんの診察結果を見ていただきたい」
「それじゃあ資料はすでに用意してあるのか」
ーー人間誰しも死を望んでいないゆえに特定的な原因を見定めるのは困難であり、どれほどの資料を分析しても、その痕跡の欠片は健全な人でも存在する。その違いを我々精神科医が障害を持つ人に寄り添い、その欠片を除去する。しかし蓄積された過去の忌まわしい出来事は除去できずに生涯に残る。それを本人がどう捉えるかに因って彼の行動が決まる。
ーーやたら講釈ばかりをがなり立てて、此処は持論の発表の場じゃあ無いんだ。死へ駆り立てる原因が特定できれば医者は要らない。それが出来ないから人は未来永劫悩み続ける。ただ死の一瞬の苦悩を逃れるのは時間しかない。嵐が過ぎるのを待つように揺れ動く心を収めるのが松木、君の仕事だ。だが過ぎ去った過去は戻らない。だから松木にはその資料を心理学の発展に寄与しても一個人の供養には値しない。依ってその特定個人の資料はその身近な人が手に取ることで彼の魂が生きてくるのだ。
此の理屈にようやく気付いた松木は篠田の資料を用意した。
松木は倉島の診察過程からこの日をどうも予期していたらしいが、何の前置きも無く渡せるものではない。これがどれほどのものかその価値のある者に、しかも直接渡すので無く後で問題が起こっても、その責任の所在を明確に出来る人の手を通じて渡したいらしい。
「ある程度の心理学に
景山は用意周到に仕組んだ松木の遣り方に、伊達に神経科医としての経験を積んでないしたたかさを垣間見せ付けられた。
「良かろうわしの一存で全ては図る」
責任を取れる者にしか渡さないか「此の藪の臆病神めッ」と言いたいが景山は胸にしまい込んで、松木の用意した篠田のコピー記録を受け取ると大原野を後にした。
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