第32話 景山の決意

 景山は彼が淹れた珈琲の威力に驚いた。既に松木は実に落ち着き払ってお話を伺いましょうと謂う顔付きに成っているからだ。

「長らくホテル業に携わってきて此の施設に来られたときは面喰らったでしょう」

 と一年半ただ事務机に座っているだけの苦労を察するように、松木は、まあゆっくりと話し合いましょうと、さも招かざる客の真意を察するように話し出した。

「先生は精神科医として実績も沢山おありでしょうがその中で一番厄介な人物はいませんでしたか」

「一番厄介な人物。精神を病んだ患者は全て厄介ですよ」

「じゃあその中で取り分けて厄介な人物を指摘してもらえれば有り難い」

「そう言われてもね」

 と渋るからこちらから、篠田さんの場合はどうかと打診した。これには予想範囲だったのかそう驚かない。どうやら既に篠田の資料を見たのか、あれは二年前だったと語り出した。

 そこで彼の職業欄は空欄になっていた。それで職業を尋ねると、営林署の者だと聞いたが、それを空欄に記入しょうとしたが特異なケースなので覚え込もうと書かずに私の頭の中だけにした。

「営林署? ですか」

「そうです彼は国有林などの管理を任されていて造林、伐採、治山、保護などを業務とする現場部門で特に地元住民との関わりを大事にしていたそうですよ」

「それがあの施設に来たと言う事は神経にどんな悩ましい出来事が起こったんですか?」

 景山が赴任する前の篠田を知らずその辺りを聞き直した。

「そう目立った特徴の有る人じゃあ無いし性格もそうだった。私も篠田さんに会うまでは精悍な木こりをイメージしてましたが矢張り戦前生まれなんでしょう今はチェーンソーで一気に伐採して整備した林道からフォークリフト車で下の広場で待機したトラックに積み込んで運び出しているそうですよ。私らの時代はとても危険な仕事の一つでしたが最近では女の子でもやってるのには驚きましたよ」

 何か余計な要らんことばかり喋る奴だと、景山は少し苛つくが、此処は機嫌を損ねないようにした。

「それで先生は篠田さんは他の患者、いや、入居者の一般とそう目立った特徴が見受けなかったと解釈して話を進めて良いんだね」

「ええ、もちろん」

 と返事はしたが、なぜそこに拘るのかと松木は妙な顔をした。

「それは此処二年の間にその篠田さんだけが失踪したんだしかも最後に居たところはあの深泥池の岸辺、いや、あの池にはそんなハッキリした境界はなくどこが池でどこが原っぱか解らない湿地帯のように入り組んでいる。まあ来た早々の人は境目が解らない池の際には近付かないが慣れてくるとかなり淵まで平気で近付くそうだ。篠田さんも確か半年以上経っていたから興味半分で際まで良く寄っていたそうだと佐伯から聞いた上で訊ねたいが……」

「篠田さんの行動については佐伯がそう言うのならそうでしょう。それ以外の診察に関してでしたらどうぞ何なりと訊いて下さい」

 と落ち着き払っているが、本当に篠田の診断では異常は見つからなかったのか。最も何を基準にして精神科は判断するのか。これは医者によってかなり曖昧になっているんではと勘ぐりたくなる。

「外科や内科と違って根本原因を見定めにくいのも確かだ。しかし周りが可怪おかしいと言われても、彼に悟られないように、あなたは真面ですと偽って正常だと思い込ますのも精神科医の仕事の一つでこれで本人が徐々に回復させた実績も持ち合わせていますよ」

 と松木は要は落ち込ませずに自信を持たす。これが精神の回復には欠かせないのだと強調した。

「それで篠田さんの場合はどうなんだ」

 と半分は自慢話に辟易しながら症状を訊ねた。

「いたって健康でしたよ彼は」

「健康ってあんたは内科じゃあ無いんでしょう」

 ごもっともという顔付きで松木は威厳を正してくる。

「精神科医の医者に症状を訊ねれば彼の精神状態に決まっているだろう」

 とこれには負けじと景山は押し返す。

「あんたは最近は倉島さんの問診で篠田さんと似たような精神状態らしいと診断しているんだろう。それで倉島さんはそれに付いて参考にしたいから、篠田の症状を尋ねても明確に告げていない。それを彼は不満に思って、精神科医として治療に専念しているとは理解しがたいと本人は思っているがどうなんだ」

「景山さんがあの施設の責任者だとは重々承知してますがそれと患者の状態を把握するのとは又別問題でしょう」

「いや、少なくとも責任者として現在の方針で此の後も遣っていけるのか把握しておく必要は有るだろう」

「それは遠藤や佐伯が知っていれば良いことで任期の決まっている代理が遣っても意味が無い此の腰掛けポストでいったい誰が引き継ぐのですか」

「上から言われても転勤拒否すれば十分にあの施設の責任者として現在の方針を検討して引き続き遣るつもりだ」

「それでは天下り先を失い定年後の恩給や退職金にも響きますよ」

「それは誰が決めるんだ雇われ医者のあんたじゃ無いだろう」

「この道に入った以上は後から来る官僚のためにもポストはスムーズにしておかないと嫌われますよ」

「俺はホテルマンとしてもう一度やり直すつもりだ」

 だから今更とやかく言われたくない。

 松木にすれば長くこの施設の勤務医として携わった。その間に管理者は二、三年、早いと半年で代わるから、松木にはもう既に何十人と言う管理者を見てきたがこの男だけは違った。まあ一人の診療記録を公開した所で、体制に影響は無い。後は松木の自尊心の問題だけだが、官僚には持ち合わせてない此の男の心意気がそれをクリアーさせてしまった。


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