第31話 景山は松木宅へ
今、景山は五十の坂を登り始めている。若い頃にホテルマンとして歩み出して民間人としてその人生を全うするつもりでいた。そこへ一からホテルのような宿泊施設を国の中央省庁の外郭団体が作った。箱は出来ても中身はこれから揃える。そこで経験豊富で脂の乗り切った四十代の景山に宿泊施設のノウハウを発揮して欲しいと招かれた。そのときはホテル業には代わりが無いと引き受けた。
準備期間を経て
そこで景山は血の滲むような経営努力を示したが、資本力が違い、民営を圧迫していると彼らは取り合わない。そこが民間との違いをまざまざと見せられて行き詰まる。
この揉め事を切っ掛けにして旅館組合は、地元の有力議員に働きかけて、その圧力で、景山をあの
そんな過去を引き摺る景山には妻と子供が一人居た。登校拒否する一人っ子は何とか中学は出してもらえたが、高校に行かず家に籠もっていた。接客業で慣らした彼の子供が外には出ずに家にずっと居るが、景山は嫌なら高校に無理して行くことは無いと息子を愛していた。あなたは甘やかしすぎるとこれに妻は反発している。別に外に出るのが面倒くさいだけで、家で本を読んでボオ〜としているのが好きなだけで害は無いのだ。それを妻に言うとそう謂う問題じゃない、最終学歴が中卒では社会が相手にしない、それを問題にしていた。
「人が歩む道は幾筋も流れているのに女親はどうしてそう一本の道に拘るのか」
そう言いながらも景山はホテルマンに拘り続けているが「俺の道に拘るな」と自問して彼の深層心理は息子に押しつけたくないようだ。
涼しいうちに景山は家を出たが、夏の太陽は次第にその生命の源を現すように昇ってゆく。彼は始発のバスに乗り込むとこくりと居眠りを始めた。なんせ松木の家は市内で無く郊外の辺地にある。そこは此のバスの終点にも成っている。松木はそんな郊外の山里にその住居を構えていた。
佐伯から訊いたが、あんな不便な所から息子達は早々と出て行ったのも頷ける場所だ。そんな隔離された場所で、精神科医として心理学の追求している松木と景山はそう親しくない。第一に市内の端から端まで移動する距離だから当然行き交いは皆無に等しい。いや、赴任した直後に一度だけ招かれただけだ。
あの施設は事務所に居る社員が実質的に取り仕切っていて、天下りの上役はお飾りと云う概念から診察室への往来もない。だから施設の上役とは顔繋ぎの名目で一度だけ接待しているに過ぎない、と後から佐伯に聞かされた。しかし新しく赴任した景山は接客業の癖からか、今までの前任者がしなかった松木の往診日には挨拶代わりに診察室に寄って世間話をしていた。
涼しいうちに出掛けたが着く頃にはもう夏の太陽が容赦なく照りつけている。まあそれでも午後よりましだと、バスを降りてから時折ハンカチで額の汗を拭きながら、大原野を散策するように松木の自宅にやって来た。
呼び鈴を押すと待っていたように奥さんが応接間へ通した。そこで松木は資料の整理が終わり次第に来ますからと待たされた。暫く待つと淹れたての珈琲の香りが漂い、それに合わせてやって来た。彼が座ると後から奥さんがごゆっくりと焙煎した珈琲を応接セットのガラス製のテーブルに置いて出て行った。
さっきから観察していた景山は、此処の奥さんとは二度目だが、前回は招待されたから愛想が良かった。今日は急に押しかけたのが悪いのか、愛想は良くないと言うより抑えめなのだろう。そんなに社交的な女でも無かった。それが此の堅物な松木がどうやって口説いたのかと興味津々と女が出て行ったドアを見ている。
「あの施設には何十年と居ますが二度も我が家にこられたのは景山さんが初めてですよ」
と珈琲に一口つけると松木は視線をこっちへ戻さすようにおもむろに言った。
「前回とは奥さんの雰囲気が違ったからおやっと思いまして……」
「あれはお天気屋何ですよでもそんなに荒れることは無くて晴れ時々曇りと謂った処ですかなあ」
一口飲んだ松木は景山にも珈琲を勧めた。一口飲むと中々凝った珈琲に景山が気付くと松木は透かさず「心理学を専攻していると普通の珈琲では物足りなくてね」とこれが凝った頭をほぐしてくれる、と珈琲カップをテーブルに置いて気持ちの体制を整えていった。
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