第30話 怖い奴ほど寂しがる

 仁和子が天を仰いでから顔を見下ろすと、倉島は彼女よりも更に浮かない顔をしていた。そこで兄のことを一番心配してくれているのはこの人なんだと、彼女はちょっと心配になり覗き込んだ。

「そう言えば倉島さんも兄と同じようにあの池に取り込まれそうになったのね」

 彼女も同じ目に遭った倉島を心配してくれている、と思うと気持ちが少し楽になり表情にも余裕が出来た。そうだ此処は落ち込んでる場合じゃあ無い、と倉島は気合いを入れ直した。

「お兄さんもそうだけれど池の淵は湿地帯みたいで境目が付きにくいから知らず知らずの内におそらく足を取られてしまうんだ俺も三島さんが居なければどうなっていたか判らなかった」

「そうねあなたには庇護者が居てくれたでも兄の周りには誰も居なかったのよ」

 佐伯はどうしたんだあいつは何をしていたんだ。篠田さんの担当者の佐伯はいったいあの日何をしていたんだ。

「そうか俺にはあのヘビースモーカーが居たんだ。でもあの日は全く、全くの偶然なんだ。彼は庇護者じゃない雨が止んでいつもの三階の踊り場からあの日は新鮮な空気の中で煙草を思い切りふかして居ただけなんだ」

「変ね急に三島さんの悪口を言って本心じゃ無いんでしょう」

 仁和子に言わすとあの人ほど面倒見の良い人は居ないらしい。あの人は始めてホテルのフロントで会ってから真面にあたしの相談に乗ってくれたようだ。しかし倉島に言わすと下心があってだと分かりきってはいるが。

「だが待てよ? そうかなあ? チョッサーならそうするか」

「あらっ、チョッサー? って、なに」

「三島さんが云ってたが、船長を補佐する一等航海士を乗組員はそう呼ぶんだ。二等航海士はセコンドで甲板長はボースンと呼ばれている」

「あら、そうなの?」 

 と仁和子は聞き慣れない呼称に戸惑っている。無理もないクルーズ船や観光船にしか乗ったことのない人が船を動かす裏方の船員なんて、大方の女性には縁の無いものだ。遠洋漁船の船内はまさに男の世界を演じられる場所だろう。

「遠洋漁船の船の中って事は隔離された限定的な世界なのね」

「それだけに船内での融和を図るのに三島さんは苦労したみたいだでも彼らの心の奥底を覗けて眼が肥えたと言っていた」

「アラそうなのどんな発見なのかしら」

 と彼女にせがまれて三島さんから訊いた船内の話をした。

 船の航行には欠かせない船長は、船そのものの安全航行を心がけている。そしてそれを補佐するチョッサーの気配りが良いと、航海そのものが安定しますからね。その三島さんに遠洋漁船の航海士の欠員が出来たが、漁船の甲板員とは性に合わないと断った。だけと港湾の職業紹介所では漁船は魚を捕ってなんぼの世界でいつまでも船を港に繋いで遊ばせるわけには行かないとせがまれて一航海乗った。まあ乗組員の半分ほどは普段からテキ屋を生業なりわいにしている怖いお兄さん連中だから最初は肝を潰したそうだ。そこで三島さんが一人でしみじみと航海中の非番に食堂で酒を呑んでいると「チョッサー何を考えてんの」と言われたが「ただぼんやりとしているだけだ」と答えるとかなり真剣な顔をしてそんな時が一番怖いよと言われたそうだ。彼に云わすと一人でじっとしている時が一番怖いって謂うから、海の荒くれ男が、と最初は冗談かと思えばよくよく聴くとそうじゃないらしい。

「じゃあそんな気性の激しい人ばかり乗って半年以上も遠洋へ出掛ける漁船って三島さんも相当苦労されたでしょう」

「それがそうでもないらしいああいう連中の弱点を知れば」

「欠点て? 、そんな怖い物知らずの人達にも弱点があるのかしら」

「それがさっき云った一人でじっとすることだよ。その欠点が怖くてやたら人に絡んで揉め事を起こすらしい。そいつらはみんな一人が怖い連中だから、暴れ出すとどんな理不尽なことでも言い出すから、訳が分からなくなる厄介なもんだ」

 と自分自身を見つめ直すのが苦手な連中で、怖い奴ほど寂しがるんだと三島さんから聞かされた。

「あたし達みたいに争いを避けて人混みのなかで平々凡々とした暮らしに身を置いてる者からすればやっと落ち着ける場所なのにそれが嫌なんて確かに新発見ね」

「でも死に神ってそんな心の隙を狙ってやって来るから処置なしだなあ」

 特に目の前に何十万年も変わらぬ神秘性を称える、得も言われぬ物が存在すれば。魂が浮標した抜け殻のように吸い込まれて逝く。

「そうか、お兄さんもそうだったのかしら」

「さあ、それは誰も判らない。だってなにも遺さなければ誰も知り得ない。だから冥界の入り口は誰にも解らない。一方で生にしがみ付きながら本心を掴みきれないままにかすかな救いを求めてあの淵に引き込まれる。そこで後悔してこの世に未練を遺した魂が、あの池の淵で、次に精神を病んだ人々を待ち受けているような気がして成らない。これはあの淵から生還した者だから言えるが……」

 それで十万年も生き続ける池に伝説が生まれるのだろう。

「じゃあ兄は一歩足を踏み間違えた瞬間に死への過ちに気付いて逃れようとしてもがきながら逝ったとすればまだあの淵に兄の魂は在るのかしら」

 それは浮き世にやり遺したものをどう想っているかに依って決まるでしょう。


 

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