第29話 暑い日差しの中で

 三島の見舞いを終えると倉島と仁和子は一緒に病院を出た。外へ出るとたちまち夏の日差しが容赦なく二人の頭上から降り注ぐ。

 夕べは夜勤で今朝はまだ涼しいと思っていたから日傘を忘れて置いてきてしまった。こんなに日差しがきついのなら持ってくれば良かったと後悔しながら二人は宝ヶ池へ向かう。

「日傘をホテルに忘れてきたのならここから近いから取りに行けばいいんじゃないの」

 と言えば、今更退社して時間が経ってしまったホテルにのこのこと行けますかそこで「お早うまた出勤今朝タイムカードを打ったばかりなのに」と言われたらどうするのって変な顔をされて突っ掛かってきた。

 それもそうだと返事に窮していると「あそこは木立も多くてそれだけ日陰も有って第一に広々と拓けた何もない池を渡る風が心地よく肌を冷ましてくれそう」と勇んで宝ヶ池の水面みなもにやって来た。

 池を周回するコースに設置された木陰に有るベンチに二人は座り込んだ。

「矢っ張りこっちの池の方が心地よい風が真面まともに吹いてくるわねそれに比べて何なのあの深泥池は池なのにどこにも水面が見えないぐらい鬱蒼とした草に覆われてあのどこかに兄が居ると思うと……」

 と仁和子は病室での話を穿ほじくり返すように、最後に妙な言葉を付け加えてしまった。それが余りにも自然体でしっくりと伝わるから、そのまま受け入れてしまった。

「あれだけ浮き草に覆われていれば中々浮かばれませんね」

「きつい冗談だわね」

 と池を観ていた仁和子は、屹度して倉島を見詰めた。彼は慌ててお兄さんの真相が浮かんでこないと、前言をひるがえすように訂正した。

「僕も全力でお兄さんの失踪については協力しているからそんな顔で見られるとどうしたもんかと困惑してしまうよ」

 そうね、と仁和子は倉島の肩の荷を抜くように悪戯ッぽい眼差しから更に笑って見せた。

「そうですよ、もしあの池に取り込まれたのなら二年も経てばお兄さんも姿形が亡くなっているでしょう」

「どうしてだってあの池の浮き草は冬でも枯れずに残っているのは何なの。普通は池の底が地盤沈下しない限り堆積物が溜まって池は無くなるのに氷河期から十四万年も姿形をそのままに残っているのよ。だったら取り込まれた兄がたかが二年で消えるはずが無いでしょう」

 どうやら仁和子さんはあの池について調べたらしい。まあ科学者でない彼女には、なぜなの、なぜなのと疑問ばかりが湧いて結局は答えは出て来ない。

「確かに緯度の高い低温地域に有る同じ条件の湖でも生き残れないのにしかも温帯地方で氷河期から残っているのは不可解だらけですから伝説も生まれる」

「あたくし思うにあの池は人を喰って生きているんじゃないかしら」

 ウッ、と倉島は息を詰まらせると仁和子は吹き出しそうに笑いを止めて冗談よと連呼された。

「でもそれだけ不可解な事ばかりあの池から起こっているのは確かなんでしょう」

 ふっと我に返ったように仁和子は威厳を正して生真面目に言い出した。此の役者にも及ばない変わり身の早さに倉島は唖然として聞いている。夏の日差しを遮る木陰にあって笑うと三日月に見えた目が今は目尻の両端を切れ長に閉じて真剣に訊いて来る。

「だから今は景山さんが尽力されていますから期待しましょう」

「でもあたしには身も知らない人なのに幾ら教え子のためとは言え面識の無いあたしの為にそこまでご尽力されるのが今ひとつ納得し難いけれど」

 池を渡る風が彼女の髪をなで上げると彼女はまた肩の後ろに髪を掛け下ろした。一定の角度を持って扇のように開いたその指の仕草が堪らなく倉島の心をくすぐられる。

「そうですね。私もたった一時、酒の席とは謂えあそこまで力添えをしてもらえるとは思いもよらなかったから驚いてる」

 それは三島が腹痛を堪えてまで、延々とお膳立てしてくれたからとは、この場では口が裂けても言えない。あいつに花を持たせたくないからだ。

「ひょっとしてその景山さんも子煩悩な人なのかなあ? お子さんは居るのかしら」

「五十に手が届くかなあ、いや、まだ四十半ばぐらいだろうかどっちにしても妻帯者だから居るとすれば中高生ぐらいでしょうね」

「そっか、じゃあ峰山さんとは一回り離れているのか」

「子供の歳からすればそうだがいつ結婚したかは解らないからどうかなあ」

 そこへ珍しく夏の日差しの中を目の前を行き過ぎるマラソンランナーがいた。流石に彼は汗がびしょびしょだった。どうやら走っているのは彼一人でしかも一周だけだ。

「そうだ仙崎さんはどうしてるんだろうもう早朝のマラソンを終えて此の暑い時間帯は避けているんだろう」

 流石に此のマラソンの周回コースを昼間に走る人はいないわよね、と仁和子も木陰から動く気配が無い。 

「仙崎さんって云う人もいつも此処を走っているの?」

「てっ云うか普段から勝ち気に振る舞っている人はじっとしているのが怖くなるらしいんだ」

「へえ〜男勝りを気取っているのにおかしな人達ね」

「だから此処にいる連中は運動を控えさせられる梅雨時は大変らしい」

「やっぱりそうなのか……」

 と彼女は物思いに耽るように天を見上げた。

 しまった。お兄さんが消えたのも梅雨時なんだ。

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