第28話 深泥池と佐伯の死生観

「アル中患者は指が震えるんだ神経が麻痺して自分の意識に反して指が震えるんだ。しかし酒が注がれるとコップを持ったその手の震えがピタリと止まるんだ。あいつの場合は小刻みに震えるので無く、一定のリズム感覚で動いている。それは心の奥底に隠された深層心理が彼の意に反してさらけ出そうとしているだけなんだ」

 どうして勝手にそう決めつけるんだと倉島はその理由を更に求めた。

「これは簡単な事だ。麻痺された中枢神経が視覚を通じて脳から手に伝わってるだけだよ。やましさに打ち勝てない佐伯の神経回路は、これを遮断できずに葛藤すると神経の末端にある指が小刻みに動き出すんだ」

「どうしてそこまで明快に理論付けて説明できるんだ」

「心理学の本を読めば今言ったことは書いてあるよ」

 まあそれがどこまで真実かはそのまま鵜呑みにするほど、倉島はまだ文献を漁っていない。

「それじゃあ三島さんはいつそんな本を読んだんだ」

「そりゃあ船室さあ。早い話が出航前の出船に港近くの本屋に頼んで取り寄せて貰った。それを船が出てからブリッジでの交代で船室に戻ると届いている段ボール箱を開けるとどう本屋が間違えたのかこれが全部心理学の本だったんだ。お陰でその航海中に全部読んでしまった」

 どうやら一等航海士の彼は仕方なく航海の暇に任せて、そういう本を読みふけったらしい。

 そんな二人の滑稽な話を聞いていた仁和子は急に「ねえ、聞いて、そんな難しい話よりもっと面白い話があるの」と仁和子は峰山が子煩悩だと暴露した。

 三島にすればあのホテルに通い詰めていれば、時たまフロント奥から顔を出して受付嬢に指示する峰山を見ることはある。だが直接面と向かって喋った事が無いが、一見して如何いかにもホテルマンだと印象付けられるいでたちだった。それだけにその衝撃は大きい。

「まさかそんな風には見えないけれど」

 と倉島に同意を求めても彼はまだ峰山の顔を見ていない。

「そうか倉島さんはまだ知らないんだ」

「峰山さんはフロントには余り顔を出さないのよ」

 どうやら峰山は主に宴会担当の責任者らしい。しかしフロントの者はみんな峰山さんから接客業を習っている。それもホテルの基本は接客態度に有るから、此の基本を教えるのが峰山の仕事らしい。そこで挨拶から教えるらしい。次にお客さんの誘導は早過ぎず遅すぎず適度な距離を保つ。しかし最大の武器はその時の表情だ。口角をいかにしてあのモナリザの微笑みに近付けるかだと教え込まれた。それが興じて子供と接しているうちに子煩悩になってしまったとぼやいているらしい。

「お子さんは幾つぐらいなの」

「上が五つで下の子がまだ三つ。峰山さんはいつもその子達の写真を待ち受け画面にして持ち歩いているの」

 だから電話が鳴るたびに二人のお子さんの写真が見えるから。それを見ながら話すと取っても良い表情が作れるんですって。でもみんな未婚で既婚者はパートの人ばかりだから勿論パートの人達は、直接お客様とは接しないから、峰山さんの遣り方には付いていけないって愚痴を溢していた。

「しかし俺が最初にあのホテルを訪ねたときはフロントの連中はいらっしゃいませと適当な角度で頭を下げられて見詰められると誰も感じの良いホテルだと言う印象を持って又来たくなる。それはまあ此処にいる倉島さんが良い例だよ」

 まるで鼻の下が長い例で気に入らん。

「それはあの人達はあなた方をあの施設にいる人達とは思ってないもの」

 どうやらホテルの連中は、あの池は心霊スポットとして忌み嫌っている。特に池のほとりにある古めかしい(中は改装されてそうでもないが)建物を避けている。それを此処だけの話として披露してくれた。それで仁和子さんは兄は失踪したので無くあの池に取り殺されたと今でも思っている。

「それを認めたくないから失踪でケリをつけているんじゃないか」

 と三島も倉島もこの考えに同調している。だから話は又佐伯のやつは何かを知っているんじゃないかという処に戻った。第一にあの施設にいる大半はどう言う死生観を持っているんだと問いたくなるほど無表情無感動に終始している、まあ、それで居られるんだろうと、それに付いて佐伯はこう言っていた。

 ただ生存競争に勝ち抜くためだけに生きている動物に比べて、人間は衣食住を満たされれば余計なものを考える。即ち人間とは、生きるとはなんぞえと。そこにどう云う目的が在るのか、それを見いだせれば満足できるのか。この答えが出なければ死を求めて永遠に人は彷徨さまよい続けられるものなのか。そんな物を考えてなんになるのか。この起点こそが生きる原動力なんだと気付いた者だけが、その人生を全うできる。さすれば死を超越したものを絶えず心の奥底に蓄え、秘めていれば、あらゆる困難を乗り越えて子孫繁栄を導く。これこそが原動力にならねばならぬ。此の原動力が全ての精神の支えとなれば、死を怖れる事は無いだろう。そうなると松木の研究成果は無意味で、誰もそこに辿り着く必要がないだろう。

 こう言い張る佐伯の精神も三島に言わすと、安定しているものでは無い。そんな危うい人間が突き詰めた精神ほどもろいものはない。そこで此の三島の理論が佐伯に適用されるなら、それじゃあ佐伯はいったい誰をかばって何を隠しているのだろう。

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