第26話 佐伯の核心
景山代理は教え子のためにその気にさせた。それを佐伯は良く思ってないようだ。ただ彼のふかした煙草の煙だけが、その行方を求めて到達した天井を、
「どう答えていいか俺には良く解らない。ただ今は景山さんだけが唯一松木に立ち向かえる人なんだだから頼るしかないんだ」
「それほどまでにしてその篠田と云う男の過去に拘るんだ」
佐伯は、妹の
「それはこの前に説明しただろう」
もし自分と同じ気象条件であの池の淵に立ったなら、そんな人の痕跡を知りたい、いえ知らねばならないと強く心の底から湧いて来た。それが俺に語り掛ける篠田さんの魂の声なら、聴かねばならない知らねばならない。十四万年も生存するあの池が叫び続けているのなら……。
「そんなセンチメンタルなもんで景山さんが動くはずが無いでしょう」
と佐伯にアッサリと否定された。
「第一に松木先生もそんな感傷に浸って此処に往診に来ているわけが無い。それは此処では四年も患者と先生の橋渡しをしていて感じている。特に松木先生は心理学の分野に於いては格別の働きをしている人です」
と佐伯の言葉からは先生に対する意気込みを感じさせる。
それは佐伯ほどでも無いが、倉島も三島さんから聞いて実証済みで納得した。
彼が三島から聞いたのは例の布引さんの「パブロフの実験のようなものをやらかして何が解ったんです」と訊ねた時に三島さんはこう言った。
布引さんの場合は条件反射に依ってのみ、精神の安定が図られていると言っていた。矢張り藪医者ではない。その根拠に熟練された神経感覚の仙崎さんの例を出した。あの人は毎日何度も同じ訓練を受けていた。いやあの人でなくアメリカの特殊部隊は頭で無く
「その話なら布引さんに限らず仙崎さんのカルテで先生はいつも実証している。勿論最後の池に関しては先生は根拠が無いと否定されましたが」
じゃあ俺の場合はどうなんだと倉島は云いたくなるのを堪えた。
「松木先生のカルテにはそんな風に書いてあるのか?」
佐伯の手に持った吸いさしの煙草の灰がグラッと下に向いた。彼は慌てて空の缶コーヒーに落とし入れて再び一口吸った。
「全てでは無いが対象者によってはそんな風に書き分けている」
そこで又一口吸ってから「そうらしい」と付け加えた。
どうやら佐伯はじっくりと見ていない、いや、見られない。診察前の下準備で用意した時に一読しただけで、特定できてないようだ。
「カルテは何処にあるんです」
と紫煙の煙が漂う向こうに居る佐伯を真面に捉えて云った。
「此処には無い勿論あの診察室にも置いていない先生は鞄に入れて持ち歩いている。勿論磁気カードに記録したものだそれをパソコンで見る。診察前に忙しいときは偶に一部をプリントするように頼まれたそれが倉島さんの診察前だった」
「私の診察前に誰のカルテをプリントして参考にしたんですひょっとしてそれが篠田さんのデータだったんですか」
此処で佐伯は吸いさしの煙草がフィルターに掛かり始めて慌てて空の缶コーヒーに揉み消して入れた。しかし鼻孔からはまだ紫煙が漂っている。三島に比べて息の長い吸い方をする奴だと気付いた。
「いや、別の人だ先生が全てのデータを持ち歩くはずはありませんよう半年分ぐらいですから、二年前の篠田さんのはありませんよ」
煙草を揉み消してからの佐伯は、膝に置いた手の中指が膝頭辺りを小刻みに叩いている。まるで煙草の禁断症状のようだ。ひょっとして彼もあの藪医者のお世話になっているんじゃないか、と思わせる痙攣に近い中指の動きだった。
「でも全てのデータを家に置いとくのは問題がないんですか」
「子供はみんなそれぞれ家族をもって自立しているから今では自宅には奥さんと二人きりですから問題は起こらないですよ」
「じゃあ篠田さんのも私のもすべの記録は此処には無いってことか」
と視線を彼の膝から顔に上げると、ぼんやりと気落ちするように佐伯を見てしまった。
「何処の病院にもありません全て自宅に保管していて必要なものだけ磁気カードに記録して先生は持ち出している。景山さんがその自宅に向かうんですから先生さえ納得させればその場で見せて貰えるでしょうね」
「そう謂う事になればそれに越したことはないが……」
と独り言を言う倉島に、佐伯は納得させればと強く念を押された。
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