第25話 佐伯の懸念

 施設に戻って夕食を済ませた頃合いを見計らったように佐伯が訪ねてきた。どうやら景山さんの伝言で来たらしい。部屋へ招き入れようとしたが三階の休憩所を兼ねた踊り場で缶コーヒーを飲みながらソファーに凭れて話を聞き出した。

 佐伯が部屋で無く此処を指定したのは煙草が吸える意味合いもあった。彼に言わすと三島さんのロングピースはきつすぎる。それに比べるとこれはかなり軽い煙草だそうだ。だが倉島にはどちらか言うと吸うこと自体似たようなものだった。機関車の運転手が煙草を吸うのは、単調な運転から神経が休まるらしい。だがフロント奥の事務所に二、三人が事務机を並べているだけの佐伯にどうして神経を尖らせるものがあるのか。有るとすれば禁煙以外しか思い当たらない。目の前で美そうに紫煙の煙を上げる佐伯を見てふと思った。 

「景山さんは、明日は松木に会ってくると言って自宅に帰られましたが昼間から珍しく酒を飲まれたようなので気になって此処へ来たのですが」

 佐伯は接客業で慣らした景山さんは、昼間は酒を今まで飲まなかったらしい。それで松木に会うと聞いて、もしや失踪した篠田さんだと思うと気が気でないらしい。

「確かに松木先生の評判は良くないですが」

 でも医者は評判よりも腕に掛かっている。患者を治せば良しとする。まして執刀する外科医で無く、精神科の医者となれば患者に対する分析力が問われる。患者本人ですら気付いて無いものを上辺だけで診るのは大変だと佐伯は先生の段取りで傍に居て感じている。そこには並大抵でない努力をして患者の分析に日々携わってなければならない、とつくづく思っているらしい。特にこんな辺鄙へんぴな場所で患者の精神的高揚を図るのは大変で、中々着任してくれる精神科医が居ないらしい。

「此の施設は戦前から戦病兵の心の病を治す目的で建てられた。そして今日の松木先生で二人目なんですよそれだけここへ来てくれる精神科医が皆無なんです松木先生も常駐で無く不定期検診何ですよ。景山さんはそこを何処まで解っているか不安なんです」

 佐伯は、前回はかなり乗り気で聞いてくれたのに、代理が動くとなるとえらく消極的と言うか、篠田に関しては前回の火消しに回っている印象を受けた。

 それだけ佐伯は関わりたくないのか、倉島が呼ぶと「何でしょう」と彼は今までの関与を避けるように生返事をした。

「あなたは松木先生の手伝いと謂うかカルテの整理も手伝っていて篠田さんの職業がカルテには載ってなかったと言っていたけれどそれは間違いないんですか」

「この前の事を言ってるんですね松木先生はカルテには症状以外は書かないんですよ」

「じゃあ私のも書いてないんですか」

「見なかったんですか」

「カルテを見ながら問診しているのに見せてくれなかったんですよ。でも此の前はあの池に続く芝生広場を散策している失踪直前の篠田さんを見たそうですね」

可怪おかしな言い方は止めて欲しい、その時は失踪なんて考えてないで、単なるいつもの散歩としか思ってなかった。翌日不在に気付いて、報告したがもう既に単なる失踪として前任の代理は処理した。それは代理だけなくここに居る全ての人がそうなんです。任期明けまでは問題が起きない限り事勿れ主義を貫くんです」

「佐伯さんもそうですか」

「私は一般公募ですから一年ぐらいはどうしてだろうと思いますが腰掛けの管理職は着任したその日から事勿れ主義ですよ」

「それは景山さんもですか」

「あの人は民間の出ですからまだそこまで染まってないでしょうが定年を意識すれば話は別ですが、だから聞いているんです代理にどんな心境の変化があったのか今聞けば峰山さんの話が出て代理は松木先生と掛け合うそうですが大事おおごとになればうやむやにされるかもしれませんよ」

 とにかく篠田さんのカルテの閲覧だけで終われば良いんですが。問題がもっと此処の施設そのものの仕組みに拡大すればうやむやにされる。そこは覚悟をしておいて欲しい、と言うのが佐伯がやって来た理由らしい。佐伯にすれば前任の代理と違って、役人風を吹かせない景山さんは上司として尊敬しているらしい。

 今までの上司は入居者に対して良い助言を求めても反応が無かった。景山さんはこうしたらどうだああしたら良いとその場に応じて的確に言ってもらえた。これには佐伯も俄然やる気が出てくる。今までの上司は東大を出るとそのまま霞ヶ関に入って、事務次官へのエスカレータに乗り遅れて後ろから押し出されるように地方の外郭団体に転勤させられた連中だ。まだ定年までタイムロスがある以上は、これ以上のもめ事は昇進にひびが入り関わりたくない。景山さんだって彼らのレースに参加させられた以上は、同じ境遇に甘んじるのが普通なのに。矢張りこの前まで民間企業に居た癖が抜けられないのか、いや、そんなはずは無いだろう。現に佐伯には定年まで事勿れ主義で勤め上げれば、公務員待遇の老後が保証されると言っていた人なんだ。

「その景山さんがなんで今回の問題に突っ込むのかそれが知りたい。もし話がこじれれば後戻りは難しくて勿論教え子の方とも深い溝を作って仕舞って良いのでしょうか」

 佐伯の謂う、一生涯が準公務員待遇がどれ程の甘い蜜かを知らない倉島には答えようがない。

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