第22話 交渉

 そんなに呑むつもりでは無かったから酒のあては少ししか頼まなかった。ビールも二本だけだったが残ったビールを景山さんが二つのコップに継ぎ足して空にしてしまった。話が思わぬ方向へ脱線してから、二人ともビールのピッチが上がってしまったのだ。昼間ではこれが限度だと言いながら、此処でつまみとビールを一本追加したが夜でも危ない量だ。倉島にしてみれば峰山さんに頼む前に、松木先生を説得できれば仁和子さんへのアピール度が増すと云うもんだ。

「その松木だが峰山とどう云う関係があるんや」

 無いですとアッサリ白状するとちょっと眉を寄せて、そうかやはり三島が痛い腹を押さえて云いたかったのは、峰山で無く松木のような気がすると言い出された。

「何でそうだと決めつけるんですか」

「あの苦しみは松木に対するものだ」

 代理の言っている事が良く飲み込めず今一度聞き返した。すると多くの患者が松木を語る時はあんな顔をすると言われてもまだピンとこない。

「不人気なんですかそのー、松木先生は」

「それがそうでもない、あの先生のお陰で気持ちが安定したと云う患者もいるから、一概には否定できないから弱っている。それで直接面と向かって言えば角が立つがその松木になんかわしに言わせたいことがあるんか」

 此処で景山さんの代理職の権威がものを謂う時が来た。

「景山さんは此処では副館長の次に権威がある人なんですね」

「館長の代理みたいなもんだがそれとは別に副館長職は定年間近で中途半端に浮いた管理職の天下り先として新たに副館長のポストを作ったさかいあの人は飾りや館長も似たようなもんで実質は此処の施設はわしが取り仕切ってるようなもんや」

「じゃあ景山さんはホテルの支配人と変わらないんですね」

「まあそういうこっちゃ」

「館長はお飾りなんですか」

「東大を卒業してエリートコースの第一歩で国家公務員を受かった者が目指す最終ポストはひとつしか無い各省庁の事務次官だ政務次官は政治家のポストだから事務次官が彼らの頂点だ、その厳しい出世コースから外れて途中で落ちこぼれた連中にも無冠で定年を迎えさすわけには行かんから彼らに最後の花道を添えれてやらんと誰も中央省庁を目指す人材が集まらん。だからポストが無ければ各省庁に息の掛かった者が政府の補助金を受けられる外郭団体を作ってそこの理事が館長に収まれば後は顔出し程度に出勤すれば退職金が何倍にもかさ上げされて箔が付き上手く行けば取引先の民間業者からもお誘いが掛かる。まあこれは中央官庁と何らかの繋がりを持っておけば公共事業には便宜を図って貰う魂胆だがそこはお役所も心得たもんで斡旋している」

「じゃあ又退職金が跳ね上がりますね一般サラリーマンのように定年後は守衛かビルの清掃管理で細々と足りない年金を補っているのと桁違いですね」

「まあそれだけ国のために働いてるちゅうこっちゃ」

「此処の館長もですか」

「此処の施設も枝葉をさかのぼれば中央の官庁に行き着く、そやさかい館長の短い在任中のもめ事は全部わしに任されているが松木がわしを飛び越えて直訴じきそされたら厄介になるが君のはそんな事案でもないだろう」

「まあ話せばそう難しい事案でも無いんですが本人の自己満足度が掛かっていて」

「なんやそれはじゃあなんか、松木自身の個人的なことか」

 三島があの苦しみの中で訴えかけたのは、ここの組織体系でないと解り、調子抜けしたようだ。

「医者としてのメンツだけなんですが……」

「そうかなら直訴しても門前払いやなあ」

 とひと安心してゆっくりと耳を傾けた。

「松木先生の問診記録、診察のカルテを見たいのです」

「何でやあんたは佐伯の話やと今朝でやっと三回目やろ大した記録もまだないやろう」

「いや、私で無くて過去に私と似たような人のカルテを見れば先行きが解ると思って」

「それは佐伯から聞いた失踪したあの男の事やろ」

 景山さんは、倉島に会う前に二年前に失踪した篠田に付いては、佐伯から前任の代理が処理したと事前に調べたようだ。それを今更なんで蒸し返すのか訊ねられて、松木から症状が似ていると言われた。

「そうか、二年前ちゅうとわしが此処へ赴任する前やなあ、その頃に居た篠田さんを此処半年間に入って来たばかりの三島さんとあんたとはどう謂う関係なんや」

 と追求されて仕舞った。今までは仁和子さんの思いに深く肩入れしたい。ただそれだけで三島も倉島も動いている。それを代理が知れば「なんやそんなことか」と一蹴されれば元も子もない。矢張り此処は彼女の事は伏せて置きたいが、篠田さんとの繋がりをどう説明すればいいのか。矢張り教え子の部下の兄が失踪した問題に絡んでいる。そこしか景山さんを動かす切り口はない。

 此処の入居者は診察以外は何もすることがなくそれも毎日で無く不定期だ。それで普段は此の近辺を出歩く人はこう言う店に来るが、なんと言っても隣の宝ヶ池周辺の方が金を使わなくて気分転換が出来る。特にあのホテルは接客態度が良好でみんなは気に入っている。そこで三島も倉島も最初に目にする受付嬢と知り合いになったと前置きをした。

 此処までは景山さんは「なんやそんなことか」とまだ残っているつまみとビールで聞き流していた。その受付嬢の名札が篠田だと判った辺りからビールとつまみに動く手がピタリと止まった。

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