第16話 梅雨空2
佐伯は確たる言及を避け通した。それは不定期とはいえ中途採用の隠れ公務員に徹している。上手くいけば中央省庁の外郭団体の職員に採用されれば、公務員待遇で定年後には恩給が付き、退職金も管理職で無く平職員でも民間では考えられないほどの金額が支給されている。例えば民間で五十歳の課長クラスで二十五年勤務で八百万でも。あのニキビ面の女の子でさえ此処では公務員待遇で平でも、二十五年勤務すれば一千二百万ぐらいにはなるらしい。
「それはどこから聴いたんですか」
「此処の代理職を遣っている
その景山さんから、此処は公務員待遇の身分で定年まで保証される。即ちなんぼ不景気になっても解雇はないから辞めるなと忠告された。それが余りにも切実に訴えるように言われて定年後は人里離れた景勝地で、伴侶と第二の人生を歩むのも悪くないと思えるようになったらしい。
佐伯や遠藤もこの魅力に洗脳されてしまった。この安定志向が染み付いた者たちを覆さすには大変な努力を要する。特に二十代で定年後の楽な生活を夢見た佐伯から、此処のやり方を改革して、上司への
佐伯でさえそうのだから入って間の無い職員は何も喋らないだろう。まあ知ってることは答えられても何も知らないのなら問えない。
「どうする」
手掛かりは何もなかった。これではまだ彼女の方が我々より知ってるだろうと二人は思案した。
「でもまだ独り身でしょう」
「ええ、だから今から波風を立てないように勤め上げたいが篠田さんについてはかなり憂鬱になってましたよ特に長雨が続くとねでも此処以外の人でもみんな真面に社会や世間と向き合えば何かしら心は病んで来るんでしょう」
真面な人間は何処にも居ないか。
「篠田さんは何をしていたんですか」
彼の場合はと言いかけると、二人は生唾を呑み込むように聞き耳を立てる。それがカルテに載ってないんだとアッサリと言われて、乗り出した身をそのままガックリと踏ん反り返るように勢いよくソファーの背に沈み込ませた。
「あの人は私の受け持ちじゃあ無かったですから」
と気を持たせたお詫びのように佐伯はあの日のことを喋ってくれた。
確かあれは梅雨の末期で激しい雨が降り続いていたかと思うと、夕方には嘘のように止んだ。空は相変わらず厚い雨雲が低く垂れ込め、東山の峰々をすっぽりとまだ雲が覆っていた。煙霧のような雲が稜線から湯気のように立ち上っていた。裏の芝生広場は水滴が葉からまだ
「どうしてそんな心理状態だと決め付けるんです」
篠田さんはここへ来て半年ぐらいでしょうか。来たときは実に良く運動をして丁度あの仙崎さんや布引さんのようにジョギングしていました。来た頃は寒い時期でしたから一汗掻くには相当走り込めたんでしょう。あの宝ヶ池の周回コースを十周は走ってましたよ。春から気候が良くなると減らし始めて、梅雨前でも五周は走ってましたね。それが梅雨に入るとぱったりと走らなくなって、梅雨の晴れ間でも走ることを止めてしまい芝生広場を散歩してました。
「じゃああの芝生広場の状態は十分に把握していたんですか」
だから何処を歩くと危ないかはハッキリしてますけれど、こう雨が続くと浮き島と陸の岸辺が複雑に絡み合って見分けにくくなった頃でした。その時に散歩に出掛けた篠田さんの後ろ姿を認めたのがそれが最後でした。翌朝には担当の遠藤さんから篠田さんが退院されてパートのおばさんに部屋の撤去を依頼したんですよ。その日は遠藤さんが夜勤の泊まりでした。早朝に篠田さんが食堂に見えないから、調理のおばさんが部屋へ行くと篠田さんがいなくて、直ぐに前任の代理に伝えた。暫くして代理から篠田さんは退院したと返事があったそうです。
「でも出勤して知った佐伯さんは篠田さんの前日の状況を遠藤さんには伝えたんでしょう」
どうやら佐伯の報告は黙殺されて直ぐにその日に代理は、遠藤に指示をした後は出払った。
「翌日遅くに帰ってきたんですが篠田さんに付いてはもう直接、私が口を挟む余地はなかったぐらい無視されました」
部屋には元々何もなかったと聞いているし、篠田さんもそうですがあなた方も私物はそうないでしょう、と言われると何となく納得してしまった。佐伯が体験したのは篠田さんだけで、もう一例は遠藤から聞かされた話だった。その一例も梅雨時かと訊ねたら否定された。
篠田さんの失踪時に、遠藤さんに、こんなことって以前にもあったかどうか伺った。その時は季節は秋だと聞かされた。しかも台風の接近で秋雨前線が活発で土砂降りだったが夕方には止んだそうだ。台風一過の翌朝に矢張り慌ただしく部屋の撤去をやらされたそうです。その時は遠藤さんはまだ入って間もないから、訳の分からん間に過ぎてしまって、篠田さんの時にそう言えばと想い出したそうだ。
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