第10話 篠田仁和子
職員の佐伯が直ぐにどうしたんですかと部屋へ訪ねて来た。余りにもタイミングが良すぎて医者から何か言われたのか。まあそれも仕事の一環なら無下に突き放すのも良くないだろう。なんせ付いたばかりだ此処は暫く彼の調子に合わせよう。
「いやどうもしないけれどなんかあの先生は気に入らん別の先生に変えて貰えんか」
「どの辺りが気に障りました」
「雰囲気だ、これで診て貰うのはたまらん」
「まあ松木先生は神経科としては腕は確かです相手によって診察を変えて正確な心理を把握するのが実に上手い先生ですから、だから雰囲気はまあじっくりと見て下さい」
そう云われても第一印象で人柄が八割は決まる。あの先生は残り二割で挽回しそうも無い。
「精神治療にこれと言って決まった治療法はありませんからそれぞれの先生方の経験に基づいて行われますので合っているかどうかは人それぞれですが松木先生に依って健全な心を取り戻された患者さんは多く居ますよ」
「此処でも」
「先生は多くの病院を掛け持ちされていますが此処でも多くの患者さんが退院されていますよ」
「私事ですが此処の入院患者は見た所みんな深刻な心の病に冒されているようには見えないですが」
「まあ心を病んでる人は見た目はね、それでも此処へ来られたのは矢張り本人に自覚症状が無いから他者が勧めたのでしょうの」
そんなの勝手に決めるな。
「今日はもう診察は無いんですね」
「また有れば今度は前日にはお知らせします」
「じゃあちょっと散歩に出ます」
「今からですかもう直ぐ昼食ですが昼はどうされます」
「いやもう今は一刻も早くここから出たいですから今日は外でゆっくり食べます」
原則では外で食べられるのは認めてないが、調理場のカウンター受け渡しの端にボードがあるから、次回から食べない人は朝の九時までに部屋番号を書くように言われた。
じゃあ行ってらっしゃい、と佐伯に見送られて外へ出ると、さっきのいやなことは吹っ飛ぶから佐伯は不思議な男だった。
不思議と言えば深泥池から歩いて数分の所に在る宝ヶ池は公園として整備され人々の安らぎや憩いの場として訪れる人々を和ましている。一方はほぼ何の手付かずのままひっそりとして迷い込むように、あの施設の患者しかやって来ない。そう思いながら散策すればこの池は開放感を招き、沈み込む気持ちを落ち着かせてくれる。
無理もない、江戸の中頃に作られた池と。十四万年前から存在する池を対比すれば不思議で堪らない。
不思議と言えばこれは偶然か天の巡り合わせか、向こうからホテルのフロント係の篠田さんがしかも普段着で来るでは無いか。だが待てよ此の先はあのホテルだから、彼女はこれから出勤するのか。そう思うと時めかせた胸がしぼんでしまった。そうこうしているうちに向こうも気付いたようだ。
「これから出勤ですか」
「ええ」
と女学生みたいにちょっとはにかみながら返事をするところが初々しかった。
「このあいだ来られた確か三島さんのお知り合いですか?」
此処で倉島は向きを変えてそのまま彼女と並んで歩き出すと病院の都合を聞かれて「ほっとけば良いんですよ」と応えると、まあッ、と呆れたように同行してくれた。
「そうですけれどあの人、何か言ってましたか」
「隣の
ゲ! 隣の病院でなく施設だと判ると、これはヤバイ、何か偏見の目で見られないかと一瞬不安がよぎったがよく考えると三島さんも同類でホッとした。
「確か篠田さんでしたよね」
「ええ、三島さんからお聞きになりましたのかしら?」
「いえこの前に会った時に名札を見ました」
「まあ、ずるい。そう云うあなたは何と仰るのです」
彼女からちょっと意地悪そうに聞かれた。
「倉島洋介、篠田さんは何て云うんです」
「さあなんて言うんでしょう」
とはぐらかされてしまって思わず、ずるいと言い返すと彼女に笑われた。
これであいこに成ったのねと
「最近ですかあの施設に入られたのは」
「そうですよ動機は三島さんと似たようなものです」
「じゃあ船に乗ってたのですか?」
「三島さんから訊いたのですか」
「誤解のないように言っておきますけれどあたしからは訊いていませんよ向こうから勝手に聞かされただけですから」
と更に念を押された。
「判ってますよあの人は広告塔みたいな人ですからまあお陰で短期間に色々な事を聞かされて重宝しています」
「じゃああたしの事も喋っていませんか」
「何か聞かれてまずいことでもあるんですか」
「失礼ねありません」
余り動揺はしていないがキッパリと否定されるとこの話は続けようが無かった。しかし気になる
「あのホテルは長いんですか」
「もう二年になるけれど」
「あそこは山のふもとで不便ですよホテルで働きたいのなら市内に有名なホテルが一杯有るのに此処は通勤が大変でしょう」
彼女は奈良や大阪に比べたら近いでしょうと、うふふと笑いながら言われた。
「まあそうですけれどいったい何処に住んでいるんですか」
「知りたいんですか」
「知りたいです」
「ひ、み、つ」
そう言って彼女は人差し指を唇に当てて、小悪魔的な笑いを浮かべると急にピシャリと真顔に戻って「だって会ったばっかりでしょう」と言われた。
「せっかちはお嫌いですか」
「そうじゃないけれど愉しみは取って置くものですから」
と聞かされてホッとしたが、見上げればもうホテルは目の前に有った。今日はこれまでかと見送った。
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