第8話 三島の思惑

 やれやれ統合失調症か、まあそれらしい病名が付けば会社にもやっと報告が出来るか。仙崎と別れて長い坂道を抜けると突然視界が拓けて緑に囲まれた夢のような大きな建物が現れた。

 こんな山中に似つかわしいホテルだ。あの陰湿な病院から数分でこんな俗世界が存在するのがまるで不思議の国に跳び込んだアリスを思わせて本当に此処は別世界に見えてしまうほどあの施設が光と影のコントラストの違いを形作っている。その不思議な世界に踏み込んだ。

 ホテルの玄関を入った受付には制服姿の三人の若い女の子が目に飛び込んでくる。ホテルの顔で或るフロントを任せられる顔ぶればかりだが他の二人は容姿が良くても一物ありそうで好みに合わなかった。一番気に入った面長で長い髪が似合い目許がスッと三日月のように切れている、一番手前の器量を鼻に掛けないひねてない子に愛想はどうか試しに地下鉄駅の場所を聞いてみた。彼女は一瞬自分の名札に視線が飛んだのを気に掛ける様子もない。強いて言うなら外人特有の引きの強いブラックバスでなく、善くぞ気に留めてくれたとその顔は微笑み返している。これで男心を串刺しにされてしまった。

「どちらへ行かれるのですか」

 語尾のトーンが静かに消えるように喋る処がまた何とも言えない哀愁を帯びていて心を燻られる。その幻想を打ち破る声が後から響いた。振り返ればロビーのラウンジ喫茶で三島さんが呼んでいたのだ。この時だけはお邪魔虫のように何処でも顔を出す人だと昨日の命の恩人をコケにしてしまった。

 三島さんのお知り合いですかと彼女に聞かれて、三島さんが貴品種に見えてウ〜ンと唸りたくなった。振り返ったタイミングでごゆっくりと云われれば彼の元へ行かざるを得なくなった。倉島は彼女に後ろ髪引かれる思いを断ち切るように三島の席へ行った。

「おう、どうした」

「仙崎さんに会って愚痴を聞かされた」

「なんせ彼は三等陸曹だからなあ」

「そんなに偉いんですか」

「まあ旧軍で言うなら一等陸曹が軍曹だから伍長と上等兵の間で兵長っていう処の下士官で兵卒上がりだから下っ端の兵からは一目置かれる存在だ」

「三島さんは詳しいですね」

「俺だって一等航海士だから船長に代わって船の操船もする。瀬戸内海は凄いんだ潮の流れは速いし岩礁は至る所にあってまだ荒れる日本海の方が気が楽でそうなれば此処に呼ばれることもないし」

「私だってここへ来る言われは無い信号を見落としたのは私ではない」

「俺も似たり寄ったりのようなものだ瀬戸内にあって最大の難所をあの船長では抜けられなかった。しかしどっちをお払い箱にするとなると船に船長は必要だ、なんぼ操船技術にけていても一等航海士だけでは国が運航許可を出さないただそれだけだ。目の前に酔いどれ医者と真面な看護師がいれば君はどっちに注射をして貰う。仙崎三等陸曹が言うのは国が定めた銃の発砲基準が正当防衛に固執している点だ。接見直ぐ発砲が原則なのに相手方が有利に展開するまで発砲しなければ包囲された部隊は全滅する。それを個人の判断に委ねられればたとえ無事に帰国できても常にそんな状況下に置かれた自分を日々追想していれば発狂しないのがおかしいだろう」

「でも此処はそんな異常下に置かれていないむしろ平穏過ぎるから発狂を前提に治療するには不向きでしょう」

「いや、あの施設の目の前には十四万年も昔から消滅しない池がある。みんなそれを真面に見ていられるか。いつあの池に吸い込まれるか判らない我慢くらべを我々はさせられている。早い話がそんなもんを屁でも思ってないと診断された者だけが退院しているようだ」

「それはみんなが感じているんですか」

「いや、俺だけだ。みんなこのぬるま湯に浸りたいだけなんだ。そして此処の運営者は誰がどう言う状況下で発狂するかただそれだけを観察しているようにしか俺には見えない。そして今一番危ないのが倉島さんにそこまで語って鬱憤うっぷんが溜まっている仙崎三等陸曹だろう」

「発狂すれば如何どうするんですか」

「あの池に吸い込まれてゆく、そしてあの池にまつわる伝説で片付けられる。とても良い立地条件だろう」

 嗤うに笑えない条件だ。

「それを防ぐには如何すれば良いんですか」

「心の病に一番の特効薬は恋だ! 倉島さん、判りますかどうしてここに若い女の子がいない理由が、観察の妨げになるからですよ」

 ーーまあフロント奥の事務所に居る七人が正規の準公務員で、一人しか若い女の子はいない。しかも彼女は数年前に配置されたちょっと小太りのニキビ面の女だ。あとは全ておばさんだろう。入居者の三人も年を喰ってるし、ちょっと変わった女達だ。

「他の人が気付いていないのに三島さんにはどうしてそれが判るんです」

「俺は恋しているからさ」

「ハア? 此処で? 相手は居るんですか ? 」

「倉島さんがさっき目を付けた篠田しのだと謂う名札を胸に付けていた子だ。だから俺は慌てて倉島さんを呼び戻したんだ」

「向こうはどう思ってるんです」

「それが判れば恋する理由わけがないだろうまあそう言う事にして置いてくれ。でも倉島さんが俺のライバルになっても一向に構わないむしろ張り合いが出る」

 大した自信だと倉島もライバル心を情炎もやした。

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