第7話 仙崎三等陸曹の場合
深い眠りに就くのに時間が掛かった。それはあまりにも衝撃過ぎた出来事だからだ。その一夜が明けた翌朝は、昨日の土砂降りが嘘のようによく晴れていた。何でも梅雨前線が移動して、
朝食を済ますと散歩に出た。勿論あの危ない
こちらは深泥池より広いが江戸時代から溜め池として拡張しながら作られた池で、水深は深泥池より遙かに浅い。付近は公園としてよく整備されて貸しボードもあり、国際会議場が地下鉄の終点になっている。池にはジョギングの周回コースも設定されて、昨日の池とは違って良く拓けて雲泥の差がある。公園だけに若者や子供連れや、周回を走る老若男女が傍を通り過ぎる。確かにこの池は三島が言うように野郎二人で歩くもんじゃない。こうして一人でノンビリと歩くとこれは清々しい気分で散策できる。欲を言うなら好きな人と恋を語るに相応しい景色が広がっている。そこを後から走り抜けて行く男の姿に見覚えがあった。向こうも立ち止まって引き返して来る。
「昨日来られた方ですね」
と彼は
「毎朝走ってるんですか」
と倉島も名乗ってから訊ねる。
「あそこに居ると身体がブヨブヨになっちゃいますからね」
と仙崎も興味があるのか倉島と並んで歩き出した。
「何をやらかしたんです。いえ、そんな難しい顔をしなくてもここへ来る以上はそれ相応の問題があったからでしょう。どうやらそれを精神の異常と判断されたようだなあ」
「それじゃあ仙崎さんも似たような処遇を経験されたようですね」
それは一般の人とはかけ離れていて当てはまらない。倉島さんは生活に添うものだが、我々は国と国民を護る犠牲的精神の上で成り立っている。
「そんな高い理想を掲げる人がなんで此処へ……」
と
「そんな自衛隊に入った動機は平成四年のPKO活動だ。勿論俺が生まれる三十年も前の出来事だがもの心が付く頃に知るとほっておけなくなった」
と語り始める仙崎は紅潮した頬を今一度タオルで押さえ始める。
「あの当時の国会での論争は何が何でも野党は阻止すると云う茶番劇ですよ。停戦合意がなされて初めて国連平和維持活動(PKO)でカンボジアに派遣された。そこで武器携帯が問題視された。ポルポト派は相手が武器を持っているから警戒して狙われる。非武装なら狙う理由が無いと謂う実に滑稽な平和ポケに染まった議論を繰り広げている。事実は非武装の文民警察官が襲撃されて、武装した復興支援の隊員は襲われていない。相手は暫定政府に存在を主張するために行動する。とすれば反撃されない組織を選ぶのは誰が見ても当然なのに、偉いさんたちは武器を携帯するかで、実に滑稽な議論を繰り広げている。次は武装した相手に、個人の判断で正当防衛でしか武器が使えないなんて、こんなバカな法律がありますか。送り出す以上は国が全ての責任を負うべきですよ」
どうやら仙崎は頬よりも、目頭が熱くなって来ている、この辺りがこの人の精神的疾患らしい。
「これはあくまでも仮定だが、PKOでイラクの復興支援で派遣され帰国した者たちで自殺者は二十九人も出て仕舞った。俺の場合もスーダンへ派遣され、帰国後に鍛え直そうとレンジャー部隊に志願したが、最近になって統合失調症と診断された。もっとも此の病名は医者にとっては都合のいいものらしいから、ここへ来る大方の人間に医者は適用している。だからあんたも遅かれ早かれその病名を告げられるだろう」
「なん、なんですか、その統合失調症って言う奴は」
「心的外傷後ストレス障害とも言う医者もいるが精神障害は似たり寄ったりだ。原因不明だからさ、幻覚や幻視、妄想や意欲、感情、認知機能の低下で数百人に一人と比較的頻度の高い精神疾患らしい。発病はどうも環境の大きな変化が原因していると謂う医者もいるが医者によってはこのどれかに当てはめて治療するらしい」
「じゃあ夕べ見たのは幻視だったのか」
「夕べ! 倉島さん、あんた着いて早々にいったい何を見たんだ」
「この時期なら七時頃はまだ夕べだが昨夜はあの土砂降りで此の時間はもう外は夕闇に包まれていた。その闇の中を動く人影を見て思わず後を追ったらあの池に足を取られてしまい三島さんが来なければ着いて早々にして、行方不明者に成るところでした」
「ああ三島か、あいつはお節介な奴でヘビースモーカだろう、なんせ一日に二箱吸うらしい」
「煙草は御法度じゃないのかじゃあ此処の医者はどんな治療を施しているのだろう」
「俺に言わせれば実験みたいなもんさ、だからこっちも適当に付き合って遣ってんのさ」
「適当と言えば女性は少ないが」
「精神障害の女性も沢山居るが病気だと言って病院へ行かせる亭主がいないだけさ。女の場合は大半が育児ノイローゼだろうそんなもんで病院へ行かせられるか。しかしそれを良いことに遣りたい放題の立ちが悪い女こそ隔離病棟へ入れて欲しいもんだ」
と仙崎は意味ありげに嗤った。
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