第6話 実体験

 ワアーとたまらず叫び声を上げたが、館内には届かないが表には届いたらしい。吸いさしの煙草をくわえて三島がやって来てくれた。彼は動くな! もがけばもがくほど早く沈むと言いながら直ぐ傍の木を抱え込むと、上体を池に傾けて空いたもう一方の腕を一杯に伸ばすとその手に辛うじて掴まった。三島は彼の腕を持ったまま木に抱えた腕を手繰り寄せて倉島を池から引き上げた。

「どうだ足は底には付かなかっただろう」

「こんな岸辺なのにどうしてだろう」

「あんたが踏み込んだ処は岸辺じゃ無い浮き島なんだ。だからそのまま沈み浮き島から抜け落ちて仕舞えばもう浮かび上がれずに見つからずそのまま死体も上がって来なくなる」

「俺が居た場所は地面で無く浮いた草が生い茂る島だったのか」

「だから此処を熟知出来てない奴は池には近づくなと言ってただろう」

 三島はさっき念を押したばかりなのにこの有様に呆れている。

「あれほど言ったのにどうして池の淵まで行ったんだ」

「聞いてましたが池に向かって歩く人影を見付けたんです」

「人影? 此処の入居者か、ならば又大騒ぎになるなあ、それより何処を歩いた?」

「覚えていないなんせ茂みに足を取られないように時々は足元を確かめていたんだが」

「それで見失ったらしいなあ……」

「ああ、そこで気を取られて夢中になって早足で追っかけると急に足元が軽くなってフワフワしだすと足元から水が湧き出して池に引きずり込まれた。これは変だと気付いた時には手遅れで抜け出そうと足に力を入れれば入れるほど沈み込んでいく直ぐそこにある木の枝を掴もうとするが細くて折れてしまったから慌てて声を張り上げれば建物の陰がら走ってくる三島さんを見つけたときはまさに地獄に仏様ですね」

「おいおいまだ仏さんは無いだろう」

 とさっき救助で吐き捨てた長い煙草を足で踏みながら「勿体ないことをした」とまた一本取りだして吸い出した。

「それほど有り難かったんですよ」

 と彼の吐く紫煙の行方を見定めながら言った。

「引きずり込まれたので無く浮き島に踏み込んでしまったようだなあ」

 彼は一服してから苦笑いをした。

 ーーそれは池と淵の境目を判らずに超えて踏み込んだでしょう。此の池には浮き島になっていてその一部が淵と一緒になっているところへ知らずに踏み入れれば、そのまま浮き島の中に引き込まれて抜けられなくなり溺れ死にます。死体は浮き島の底に沈んで分からなくなる。だから此の浮き島の上は歩けないから歩く人影を見るわけが無い。有るとすれば自殺願望者だけですが今の処は行方不明者は聞いていませんから、倉島さんの見たのは幻影、幻錯覚まぼろしでしょう。

 三島にそう言われると自信喪失した。

「今日は此処へ着いたばかりだから疲れているんだ幻視はその表れだ」

 と彼はゆっくりと吸い終わった煙草を捨てた。

 三島は捨てた煙草をもみ消しながら、酒が飲めるか聞いて来た。呑めるが呑む場所があの施設には無かった。

「北山通りにまで出れば居酒屋があるそこまで行けるか」

 とそれを察して三島は訊ねる。

「勿論今朝は地下鉄の北山駅からここまで歩いて来たんだから丁度バス停一つ分歩きましたよ」

 バス停なら数百メートルの所が七、八百メートル余分に歩いたことになる。

「バスでりゃあ向こう岸にバス停があるから楽だったのに。まあこれであの池の怖さが判ったように何事も経験だ」

 さっきは危ない所だったのにどうしてもっと詳しく説明しない、と彼に訊けば。

 ーーここに一人だけ入居している自衛隊員によると、口で言うので無く全て、実体験して教えるらしい。頭で覚えるのでなく、体で覚えさす。常に反射神経を身に付けささないと、とっさの場合は無意識に身体が反応しない。要するに考える前に身体が動かないと戦場では役に立たず、命が持たないそうだ。

 北山通りは観光客以外は余り訪れず、陽が暮れれば人通りは少ないが、おしゃれな店や駅の傍にはこまちな飲み食いする店はある。

「駅に近いから安心して呑めるらしいから結構賑わってる」

 と居酒屋ののれんを潜った。あの療養所は門限があるから長くは呑めないから、チューハイの中びん一杯だけにすると、小さなカウンター席に座った。酒のあても二、三品だけ注文した。 

 あの池の底には死体がワンサと沈んでるらしいが、誰もまだ見たことが無い。なんせ池全体が浮き島になっていて、藻に絡んで浮かんで来られずに、沈んだままの死体は半年もすれば綺麗に分解される。と謂うもっぱらの噂で誰も確かめた者がいない。だから昔は人が寄り付かなかった。それを幸いに戦前は国の精神療養の保養施設として使っていた。当時は個室で無くぶち抜きのワンフロアーでベッドだけ在ったそうだ。それが今では住宅開発が進み、池の南側まで宅地が立て込んできて、昔の面影は消えてしまったと支配人から伺った。

「まあそれでも今もあの池にまつわる伝説は絶えないそうだ」

「なんでですか歩いて来られるこんな近くにも店も在るのに……」

「なんせ十四万年も昔から姿、形をそのままに生き続けている池なんだよそりゃあ色んな嘘かまことか判らんが伝承の在る池だから十分に気をつけなくっちゃ」

 と三島はこれからはこれに懲りて注意するように促した。


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