第5話 深泥池の怪

 言葉通り布引は欠かせないトレーニングが待っていると云わんばかりに、食事を済ますと余計な無駄口をする前にトレーを持って調理場前のカウンターへ引き上げた。

 彼の部屋には腕立て伏せや、ぶら下がり健康器で懸垂を遣っている。あれを寝かせて腹筋にも使っている。そして階段の上がり下がりは迷惑にならない程度に、勿論雨の日限定ですがと、言いながら布引が練習に向かう後ろ姿をしみじみと眺めた。

「会社は療養中は基本給の八割しか出ないと伺ったけどそれで生活は遣っていけます?」

「ここに居れば身の回りと着るもの以外は要らない。なんせ食住の心配は要らないし風呂、トイレもユニットバスが付いてる。いつ入るか判らない浴場のお湯を並々と毎日沸かすより個人で勝手に使った方が良いでしょう」

 と彼を見送ると、俺たちが長く居すぎたのか周囲を見れば、殆ど食事を終えてサッサと食堂を離れていた。

「どうしてみんなサッサと行ってしまうんだろう彼を別にして他の者たちは特に用事は無いんでしょう」

「用事は無いがここに居てもしゃあないから部屋でインターネットに齧り付くんだろう」

「それって不健康だなあ」

「こう言う雨の日はしょうがないだろう外へ出られないだから」

 と言いながら倉島と三島が一緒に食堂を出ると、入れ違いに四十前後の女性が二入って来た。

 倉島が物珍しそうに見ると、三島はみっともないと、彼の腕を思い切り引っ張った。三島さんに言わせるとこの施設で治療を受けている女性はあと一人居て四十代後半らしい。

 患者以外では此の施設で働いている女性は結構居るらしい。厨房にはおばさんが居てフロントに一人だけ正社員で二十代の女性がいるらしいがまだお目に掛かってない。此処で働いている男女は殆どがおばさんおじさんばかりだった。

 一階はご覧の通りの食堂と併設されたラウンジのような居間で。ホテルと違う処は喫茶は無いが、後はホテルと変わらない施設だった。

 厨房に人が居る時は、珈琲、紅茶ぐらいは出してくれるが、みんなは自販機を勝手に使って飲んでいる。

 フロント奥が事務所で、その奥は夜勤の部屋と診療所があり、廊下を挟んで厨房で更に一番奥に四部屋あるが今は女性用で三部屋使っている。二階と三階の踊り場に自販機を置いてリビングになっている。それぞれの階には十五部屋ずつ有るが、使っているのは半分で、二階は七部屋で三階は五部屋しか使って無く後は空き室になってると三島は説明した。

 滞在費は各社が基本給の八割を上限で支給しているらしい。勿論所帯持ちは国から補助金と謂う名目で家族手当が支給されているから贅沢を慎めば生活には困らないらしい。

「昼食風景だけを見てもみんな新人の倉島さんには関心を持っているが布引さんのように直ぐに向こうから話し掛けてこない、それだけどんな人か判るまではみんな警戒してるんですよ」

「誰に何で」

「倉島さんだって腑に落ちないものが有るように、みんな一緒なんですよでも疑心暗鬼なだけですから。それで一定の距離は保ちながらも直ぐに打ち解けてきますよ。だから今は無理に他の療養者の部屋を訪ねて相手にしない方がいいし夕食時でも暫くは無理に話しかけなくても良い。その内に向こうから話し掛けて来ますよみんな身の上話は訊きたくてしょうがない人達ですから」

 毎日同じ顔ぶれの連中ばかりだから、性格を覚えられるまでは、こちらから押しかけない方が良いとも言われた。

 なんせ退屈な連中だ。直ぐに判るさと言い置いて、三階へ上がる倉島を呼び止めた。

「アッ、それから慣れるまでは前の池には近づかないように特に一人では行かないように」

 と言われたが窓からは雨に煙り、何処までが池なのか見分けが付かなかった。しょうがねぇなあと少ない荷物を整理して、何もすることがなくそのままベッドに寝転がった。

 三島さんから此処の概要は大まかに聞かされた。これから追い追いと此処の実態が判るだろうが、しかしなんで俺が此処へ行かされたのか、天井を眺めて考えに耽るとそのまま寝込んでしまった。

 眼が覚めると夜の七時近かった。しまったと慌てて飛び起きて食堂に行くと、どうやらさっきまでは賑わっていたらしい。食事を受け取りにカウンターへ行くと調理場のおばさん連中ばかりが食器洗いに追われている。食堂のテーブルは閑散としていて数人しか居ない。体力維持に気を遣う布引さんはともかく、三島さんも見当たらなかった。雨もスッカリ止んでいる。きっと今頃は食後の一服と、どこか目立たないように外で煙草を吸っている、と思いながら軽く夕食を終えた。

 池に出るなと云われれば出たくなるのが人情だ。所々雲の切れ間らしき月光があった。夕食後に倉島は雨の止んだ池に散歩に出た。

 夏を前に刈り取られた芝生を歩くと雨に洗われた木々が、真夏にはきっと暑さから安らぎを与える木陰が池のふちまで在った。ふと一本だけ木の陰が池に向かって動いている。どうも眼を凝らすと人影のようだ。

 倉島は足元を確かめながら後を追って、何歩目かで顔を上げると、人影を見失って立ち止まると思わず足が沈みだした。可怪おかしい、池の淵で足を取られるなんて、と、思うと、そのままズルズルと池に呑み込まれていく。体が沈みだして踏み留まろうとすればするほど止まらなくなった。

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