第4話 布引の思い
倉島が食べ出して周囲を見れば、結構みんな
「見慣れないけど新人さん?」
とそこへ隣の三十前後の男が急に声を掛けてきた。彼は箸を運ぶ二の腕が中々の筋肉質で褐色の顔色が健康そのものに見える。なのになぜ此処に居るのか戸惑ってしまう。
それを察したように三島さんは「どうです筋肉隆々でとてもこの施設で治療を受けるている人には見えないでしょう」と言われて現役の競輪選手で
「現役って言うと今も走ってるんですか?」
「アッ、っと言い間違えた休職中だったんだ」
と三島は直ぐに訂正した。倉島は布引と紹介された競輪選手をまざまざと眺めた。
「休職中でも布引さんはここに居てもトレーニングは欠かさないから偉いですよ」
それほど体力を毎日使っていれば神経衰弱になるわけが無いと思うのだが。
「じゃあなんで此処に来られたんですか?」
これには布引も言い
布引は神経衰弱だからレース中に発病でもすればとんでもない大事故に繋がる。それだけで無く競輪そのものが八百長沙汰になるかもしれん。と負けが込んでる同僚に有らぬ告げを口されて、此処の療養所を公益財団法人の協会から有無を言わさず送り込まれた。まあ本人にすれば医者が診れば判ることだと思って来た。けれど療養を要するという診断書を書かれて出られなくなったらしい。それは酷い話だけれど、何処へ持って行けば潔白が証明されるんだ。と悶々とした日々を暫く過ごしたが、これでは身体がなまってしまう。それで或る日ハットしてトレーニングを始めた訳だと、三島さんが代わって説明をした。
「それじゃあそれを先生に言ってみれば」
「倉島さんは今日来たばかりでまだ先生の問診を受けてないからでしょう」
と言う三島さんの話を途中で遮って、それに対して布引はどっちでも今は同じ様なものだと悲観するように哀しい目をした。その目が何を訴えているのか倉島にはまだ判らずに沈黙した。
此の沈黙に三島が、彼は最初はこの食事では足らなくてねぇ、調理場の人に特別メニューを作ってもらってると、我々と食事の違いを言った。
「丁度この隣の宝ヶ池周辺には車や人通りは少なくて良く整備された道路があって彼はそこを毎日自転車で周回しているんですよ、だから食べないとね」
なるほど周りを見回して布引さんの食事の量は抜きん出ている。それでいて運動のせいで太らないから、彼を見て何人かは遣ってみたそうだ。矢張りきちっとした目的を持っている者とそうじゃあ無い者とは歴然として、彼以外はみんな三日坊主で元の散歩に逆戻りした。
彼は競輪選手で此処では筋力が落ちないように、毎日自転車でこの周囲を走っていた。いつでも復帰すれば直ぐに競輪に出られるように毎日トレーニングしている。今日みたいに雨の日は室内で階段を使ってトレーニングする。
「俺とあんたは布引さんのようにからだを酷使する仕事じゃあないから日々トレーニングをしなくても勘さえ戻れば直ぐに電車や船は動かせられるが彼は今の若い時しか体力を維持出来ないんだ」
と三島は彼の過酷なトレーニングを擁護する。
「そう言えば階段は手前と奥の二カ所にありましてね奥は非常階段でしたが布引さんのために開けているそうです」
なんせ此処は療養所だから、身体を鍛える設備や施設が無いから、身体がなまらないように日々苦労している。
「そこまでしてどうして退院出来ないかですか」
「さっきも言ったようにそれは医者が決める事ですから……」
「でもよく考えると本当に精神に異常があればトレーニングなんか自主的に遣れるわけ無いでしょう」
なのに何で彼が此処に居なければ成らないんだ。一体何処が悪いと謂うんだ。このままだと彼はもう競輪選手として復活できなければ、彼の人生は誰のせいなんだと云いたくなる。
「確かに倉島さんの言うとおりそれは理にかなってるがそれは我々部外者の考えであって専門知識を詰め込んだ者とは考え方が違うらしい」
彼の話では布引さんは現役の競輪の選手だそうだ。どうりで良い体格をしていると思った。それだけに彼がなぜ此処へ彼のように体力や危険な物を扱う人が多く収容されているのか此の疑問を打っ付けてみた。
「まだ倉島さんは此処の部屋にいる入居者のほとんどを知らないでしょう」
「ええ、それがどうなんです」
「様々な人が収容されているんですよ例えば向こうのテーブルで布引さんと似たような体型の人が居るでしょう彼は陸上自衛隊のレンジャー部隊に居たそうですがここへ来て毎日することがないので矢張り布引さんと同じように体力の衰えを嘆いていましたが、まあ体力の維持って言ってもまだ二十代ですから今でも我々よりはまだ遙かに優れた筋肉を維持してますが、別に彼の場合は別の部隊でも復帰できますが布引さんの場合は脚力が衰えれば一から全く別の仕事を探さないと喰いっぱくれるからね」
「退院後の保障はないですか」
「病気だと言われればそれまでですからねまあ競輪協会でもハイサイナラとはいかないから事務職でも見つけてくれても僕は走りたくて此の道を選びましたからだから毎日トレーニングは欠かせないんですよ、と言ってました」
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