第2話

 シャンポリオンは見るものすべてに興奮を覚えていた。ガラス張りの建物、色とりどりの車、空を横切る翼、若者たちの衣服、子どものように視線を動かしていた。そして、アイは目的地に着き門を通って、入っていった。

「ここは何だ?」

「大学よ、私の通ってる大学。」

「ユニバーシティか。」

 シャンポリオンはふとグルノープル大学で教鞭をとっていた頃を思い出した。

“時代が変わり、新しいものがあふれているがユニバーシティとは懐かしいな。しかし、何だ?この感じは。何かが違う。”

辺りを見回しながら、奇妙な違和感を覚えていた。

「あ、安藤、オハヨー。」

「オハヨー。」

 友人が声をかけてくる。

“ん、オハヨー?Good morning.のことだな。ん・・・モーニング?朝?”

「でさ、昨日、バイト終わったあと、仁志さんに飲み誘われて・・・」

「ええ、つきあってる人いるんじゃない?」

 シャンポリオンは人の波の中、いろいろな声を耳にする。

「あのドラマ、もう最終回近いよね。」

「うん、泣けた。」

「今度でる新しいケータイすっごいよ。」

「俺、ソッコー買う。」

 愕然とした。今はもう10時過ぎ、何故にこれほど学生が外を歩いているのか。グルノープル大学では、8時には学生は教室に入り、門をくぐれば皆、科目についての会話だったのに、この学生たちは何やら勉強には関係ない会話ばかり。

“これは、こんな雰囲気は大学のそれではない。”

 シャンポリオンの頭の中を学問に関係のない言葉が、ぐるぐると回る。一瞬、めまいを覚えるが、一つ大きく息を吐き腕を組む。

“まあ、いっか。”


 アイは講義室に入り、机の上にバッグを開き、授業の準備を取り出す。ノートに教科書、ペンケース。

「何だ、このでかいペンケースは?」

「え、シャーペンにボールペンに消しゴムに、蛍光ペンに・・・」

「使わないだろうこんなに。」

「ええ、フツーだし。」

「ん、これは?」

 ふと、シャンポリオンは最後に取り出された板状のものに目をとめた。

「辞書、電子辞書。やっぱり昔の人なんだ。こうやって単語を入れて、」

アイはj・i・s・y・oと入力する。

「この検索ってボタンを押すと・・・」

「dictionary。」

 画面に英単語が現われ、電子辞書から機械的な声がする。

「おおおおお。今はこんなものがあるのか。ちょ、ちょっと貸してくれ。」

「いいけど、私使うとき返してよ。」

「おお。」

 シャンポリオンは英単語を入れ、出てくる言葉を確かめる。講義室にその時間の教授が来て、授業が始まった。シャンポリオンはかまわず電子辞書をいじっていて、アイはそんな彼をかまわず、授業を受けていた。

 授業が終わり、教室を変えるためアイは持ち物をバッグにしまう。

「どうだった?電子辞書。」

「うむ、飽きた。」

「早、ていうか飽きるものじゃないんじゃない?」

「うーむ、なんかな、これには寄り道がない。確かに速く調べられるし、発音も出るのは便利だが、純粋に情報だけを得るというのは冷たい感じがするな。」

「あなたってホントに変なこと言う。」


 他の教室に入り、アイはまた席につく。

「アイ、この授業はなんだ?」

「ん、英会話よ。英会話。」

「おお、安藤教授の娘のお手並み拝見だな。」

「ええ、私話せないよ。私、この授業いっちばん嫌い。」

「何?父上に教わらなかったのか?」

「うん、だってお父さん忙しかったもん。」

「なら、自分で勉強すればよかろう。」

「勉強ならしたよ。試験は結構点とれるんだから。でも話すのはだめ。よく聞き取れないし、なんて言えばいいかわからないんだもん。あーあ、何で英語なんかあるんだろう。みんな同じ言葉を話してればいいのに。」

「旧約聖書では人間が天界にまで届く塔を建てようとしてそれに神が怒って言葉をばらばらにしたとなっているな。」

「はあ、なんでそういうことするわけ?世界中同じ言葉を話してれば英語なんてなかったのに!」

「そうか、私はそうは思わん。もし、世界に幾種類もの言葉がなければ、私は天才にはならなかったからな。あの、言葉が分かったときの喜び、閃いたときの痺れるような感覚がなければ、私の人生はさぞつまらなかったろう。まあ、本当は神が言葉を変えたというのは、そういうことではないんだが。」

チャイムが鳴り、同時に教室の扉が開き、茶色のスーツを着て、眼鏡をかけた教授が入ってきた。

「Hello, let’s start today’s class.」

「アイ、アイ、あの教師、テレビで見た“みのなんとか”とかいう男に似てないか。」

「ぶっ、なんでそんなこと知ってるのよ。やめてよ、わらっちゃうじゃない。」

 英会話の外国人教師は教科書を開き、教室を見回す。

「So, Ms. Murakoshi, come over here. Did you bring a topic we talk about?」(それではムラコシさん、こちらに来てください。話し合う論題を考えてきましたか。)

 指名された女子学生はしかし、うつむいて無言だった。

「What are you doing?」(どうしたんですか。)

「ア、アイ ディドゥント ドゥ ホームワーク。」

「Why? Were you busy?」(なぜ?忙しかったのですか?)

「休んだんで分かりませんでした。」

「I can’t understand Japanese. Speak English.」(日本語は分かりません。英語を話してください。)

 その学生は再びうつむき黙り込む。

「Silence. It makes me tired. If you didn’t come to class, ask your friend.」(沈黙か。いやなんですよね。授業に出なかったなら、友達に聞けばいいじゃないですか。)

「あの先生、日本語分かってるじゃない。むかつく。」

 アイは小声でシャンポリオンに不平を言う。

「ま、あれぐらい英語で言えないあの女生徒が悪いな。」

「もう、あなたまでそんなこと言う。」

 教師は続ける。

「Do you know that silence is gold? Then, you are richer than me.」(沈黙は金なりとはいいますが、それなら、あなたは私よりお金持ちですね。)

「ザンミー?」

 シャンポリオンは眉をしかめる。

「Anyway, I tell you a topic, after that I ask you a question, OK?」(とにかく、私が論題を出します。それからあなたが質問に答える。どうですか?)

「イエス。」

「Many nations and people are against the war, but there was a war between America and Iraq. Why do they fight?」(たくさんの国や人々は戦争に反対していますが、アメリカとイラクの戦争がありました。なぜ戦うのでしょうか。)

「アイ シンク・・・・ウォー・・・イズ・・・・・・テリブル」(私は戦争は・・・悲・・惨・・だと・・思います。)

「I know it’s terrible, but I asked why they fight even if many people know the war is just terrible. It has been discussed for a long time, but they still have a war. What do you think is the reason?」

 女子学生はおびえた目をし、困惑する。

「ええ、あんなに早く言って、わかるわけないじゃない。」

「戦争は悲惨だがそれを聞いてるわけではない、ということだ。何で戦争は悪いとはっきり言われているのになくならないか、だ。」

「Hey, you can’t understand? How long have you studied English?」(理解してますか?何年英語を勉強しているんですか?)

 教師は慇懃な笑みを浮かべる。

「もう我慢できない、ねえ、シャンポリオン、なんとかあの先生をへこませて。」

「はあ?あれはあの女学生が悪いんだぞ。英語で答えればいいだけじゃないか。」

「そうだけど、あれじゃいじめてるだけじゃない。授業じゃないよこんなの。いっつもあの先生できない子つかまえて嫌味言ってんだもん。あんなんじゃ勉強にならないよ。」

「うーん、だが、別にこのクラスの生徒達が出来るようになろうとならなかろうと、私はどうでもいいしな。」

 アイはふくれっ面をして、教師の方を向く。そこで、一つある考えが浮かんだ。

「じゃあ、あの先生をなんとかしてくれたら、アメリカ行くの考えてあげる。」

「何?本当か?」

「うん、うん、本当。」

「よおし、じゃあ、アイ、手を挙げろ。私が言うことをよく聞けよ。」

「はい。」

 教師は挙手しているアイを見て戸惑った。挙手を求めても普段、挙げる者などいないからである。

「You are Ms. Ando? Will you answer me?」(あなたは安藤さん?あなたが答えてくれるのですか?)

「イエス。」

「There are many answers.」(たくさんの答えがあります。)

 まずシャンポリオンがアイ以外に聞こえない声で言う。

「ゼアラー メニー アンサーズ」

 アイはそれをたどたどしい英語で復唱する。

「uh huh.」

「If you are a Christian, I will tell you about Satan.」(キリスト教徒なら、サタンについて話しましょう。)

「イフ ユー アー ア クリスチャン、ええ、速い。」

「アイ ウィル テル ユー アバウト サタン」

 シャンポリオンはアイが分かりリピートできるようゆっくり、日本語的な発音をする。

「アイ ウィル テル ユー アバウト サタン」

「If you are a revolutionist,」

「イフ ユー アー ア レボリューショニスト、レボリューショニストって何?」

「革命家のことだ。You fight to change the government.」(革命家は政府を変えるために戦います。)

「ユー ファイト トゥ チェンジ ザ ガバメント」

 不自然な間が開いて、発音も下手だが、文法だけは正しい英語が教室に響く。

「If you are a politician,」(政治家なら、)

「イフ ユー アー ア ポリティシャン」

「It’s one form of political actions.」(戦争は政治形態の一つです。)

「イッツ ワン フォーム オブ ポリティカル アクション」

「ズをつけろ、ズを」

「ええ、大したことないじゃない。それぐらい。」

「だめだ、言い負かせられなくなる。」

「アクションズ」

「OK, OK, I asked what you think, you told me many reasons, but what is your own opinion?」(分かった、分かりました。私はあなたの考えを聞いたのです。色々な理由を言ってくれましたが、あなた自身の意見を聞かせてください。)

「You didn’t understand?」(理解してないんですか?)

「ユー ディドゥント アンダースタンド?」

「It’s my own opinion that reasons are up to each person.」(理由は人それぞれだというのがわたし自身の意見です。)

「イッツ マイ オウン オピニオン ザット リーズンズ アー アップ トゥ イーチ パーソン」

「People have different reasons to fight.」(人々は様々な理由で戦います。)

「ピープル ハブ ディッファレント リーズンズ トゥ ファイト」

「Well.」

教師はたたみかけるようなアイの英語に困惑する。間をおかずシャンポリオンは続ける。

「You couldn’t figure it out? I’m speaking English.」(聞いてて分からなかったですか?わたしは英語を話しているんですがね。)

「ユー クドゥント フィギュア イット アウト?アイム スピーキング イングリッシュ。」

「What?」

「In addition to, Mr. You said “You are richer,」(それに、先生、あなたは「私より金持ちだ」と言いましたね。)

「イン アディッション トゥ ミスター“ユー アー リッチアー」

「Than me.”」

「ザン ミー”」

「Than I is correct, right?」(ザンミーではなくザンアイですよね。)

「ザン アイ イズ コレクト ライ?そうなの?」

「うむ、比較級のザンの後は節が来る。Than I am.の略なのだ。」

「へえ。」

「What a kind of student you are!」(なんて学生だ。)

 教師は打ち震える手でバインダーを教卓に叩きつけ、顔を赤くして教室を去った。

「やったー!すごい、シャンポリオン!」

「まあ、天才だからな。それで・・・いつアメリカに行くんだ?」

 上気しているアイに対して、すかさず話題を変える。

「うーんと・・・考えとく。」

「何?それはどういう?」

「考えとく、は考えとくよ。でも私パスポート持ってないしすぐってわけにはいかないわ。」

「何、それではウソをついたのか。」

「ウソじゃないわよ。考えとく。いつか行ける日があったら行くわ。」

「違う。それはウソだ。ウソということだ。」

「ウソじゃないし。」

「お前は・・・バベルのかけらだ。」

「はあ?」

「神が人々の言葉を変えたというのは神の力で英語やフランス語や日本語が出来たというわけではない。人が人を欺き、助け合わなくなったことを言うのだ。お前は私がどれだけ木片を見たいか知ってて私をあいまいな言葉で利用した。そういう心がバベル・・・・人の災厄なのだ。」

「訳わかんないし。」

「・・・これでは、いくら言葉が通じても、心が通じあうはずがない。」

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