第2話:10年という歳月

 終点に着いたにも関わらず、その日の乗客者は奇しくも少年――祓御ふつみ 景信かげのぶただ一人だけだった。

 そして降り立った先にも駅員の姿さえもない。完全な無人駅に一人ぽつんと残して、電車は再び来た道を戻っていく。



「都会と比べるとこっちはまだ涼しいな……」



 本日の天候は雲一つない快晴。遮蔽物がないのをいいことに真夏の太陽がぎらぎらと容赦なく照り付ける。体温は未だ上昇を続け、汗が滝のようにどっと流れる、それが衣服に張り付く不快感を憶えながらも景信の顔には笑みが浮かんでいた。

 本当にここは、何一つ変わっていない。


 周囲をしばしキョロキョロと見回して、景信はようやく無人駅を発った。

 車一台すら通らないあぜ道を道なりに進んでいく。

 周囲の景色は田畑と山々のみ。都会の町並みのように見上げるほどの建築物で見慣れてしまった者にはいささか殺風景で退屈極まりないだろうが、景信の顔は依然として嬉々とした表情を浮かべていた。



「――、着いた……」



 景色に変化が生じたのは、あぜ道を歩き続けて一時間ぐらい経過してからのこと。

 それまで美しい緑一色だった景色にぽつり、ぽつり、とようやく住宅が見え始める。



「ここにくるのも本当に久しぶりだなぁ」



 神凪町かんなぎちょうを前に景信はふと口元を緩めた。

 不意に、無邪気な笑い声が聞こえてくる。

 今は夏休みの真っただ中だ。自分と同じように夏休みを満喫する子供がいたところで、なんら違和感はない。前方から子供達が数名、恐らく地元に通う小学生だろう。虫取り網を手に山の方へ駆けていく彼らとふと目が合った。

 都会から来た人間が珍しいのかな? 景信は特に意に介することなく、そのまま少年達とすれ違う。



「――、お姉ちゃんが言ってた人だ」



 そんな声が聞こえたような気がした。

 自分には関係ないことだろう。景信は目的地へと歩を進める。



「――おぉ、よく来よったのぉ景信!」

「やっほージイちゃん、遊びにきたぞー!」

「ほら暑かったでしょう、今冷たい麦茶用意するから上がりなさい」



 景信が訪れたその場所は、祖父母の家だった。

 景信の両親は現在、海外に出張している。仕事の関係でどうしても海外移住しなくてはならないとなった時、景信ただ一人だけが日本に残ることを決意した。

 お世辞にもこの景信と言う少年、英語の成績に関してはすこぶる悪い。

 他の教科は教師からも優秀だと褒められるのに、英語だけがあまりにも悪いものだから、レトロ人間と言う不名誉なあだ名が付けられるぐらい、とにかく英語ができない。

 英語ができないのに海外とか言ったら絶対にハブられるじゃん! そこで景信はしばらくの間、父方の祖父母の家に世話になることとなった。



「それでも、バアちゃんもジイちゃんもいきなりでごめんな? 俺がワガママ言ったばっかりに……」

「はっはっは。何を言う景信。かわいい孫の頼みだ、それをつっけんどんに返す奴がどこにいる」

「そうよ景信ちゃん。遠慮しないでいいから」

「そう言ってもらえると助かるよ。あぁそうそう、一応父さんから一つだけ伝言を預かってたんだ」

「ほぉ、正義まさよしの奴がワシにか?」と、祖父。

「……景信に修行はさせないでくれ、だってさ」



 しばしの静寂、それを二人の笑い声がかき消した。



「はっはっはっは! そうかそうか、正義め随分と考え方が都会に染まってしまったのぉ」

「まぁ父さん達が言わんとしてることも、まぁ納得できなくはないけどな」

「それじゃあ、どうする?」

「まさか。俺はそれが楽しみでこっちに来たようなもんなのに」

「それを聞いて安心したぞ。さすがはワシの孫だ!」



 景信と祖父はもう一度大きな声で笑う。

「さて」と、祖父。すっと立ち上がった祖父に釣られて景信も腰を上げる。

 これから祖父が何をするのか、景信は知っている。だからこそ断る道理はなく、寧ろ逆に早く早くと無言ながらも視線で祖父を急かした。



「それじゃあ景信よ、久しぶりにやるか?」

「やる! でもいいの? 俺あれから更にもっと強くなったけど。ジイちゃん怪我するんじゃない?」

「何を言う。ワシだってまだまだ現役じゃわい――因みに、何か新しい成果はあるか?」

「近所で有名な暴走族集団をぶっ潰してやった。あっ、もちろんちゃんと手加減はしたから」



 ブイッとVサインをするライシに、祖父は感心した様子で景信の肩をバンバンと叩いた。



「それでこそワシの孫だ。それじゃあ行くぞ!」



 景信は祖父と共に外へと出た。

 祖父母の家は、いわゆる屋敷である。

 バリハフリー化に伴って近代改修こそ施されたが、昔ながらの古風な景観はそのままなのがこの屋敷の自慢できる一つである。そして二人が訪れたのは敷地内にあるこじんまりとした道場だった。祓御家は代々より武術家の一族である。その昔には時の帝に武術指南役を務めたこともある、歴とした名家でもある。

 道場がこじんまりとしているのは、あくまで身内しか利用しないから。

 元は農民だった先祖が天下一を目指して好き勝手に武を振るい極めんとする、祓流ふつのりゅうが生まれた起源はそんな実にいい加減な理由から成り立っている。結果として帝と仕えるほどの実績を生んだが、それもたった一代限りの話。常人では祓流ふつのりゅうの修練はあまりに過酷すぎるものだった、らしい。この話を聞いた景信はいつも不可思議でたまらなかった。

 そんなにしんどいかな? 景信ははてと小首をひねった。

 ともあれ、門下生を募集しないので道場も小さくても十分なのだ。



「それじゃあ、久しぶりに始めるとするか」

「お願いします、ジイちゃん」



 二人は模造刀を手に向かい合った。

 模造刀なので斬れる心配はまずない。しかし所詮は金属の塊、当たり所が悪ければ死に直結するので危険については真剣と大差はないと言えよう。常人であればまずありえないことが、祓流ふつりのりゅうにとってはこれが日常茶飯事。痛みを憶えなければ人間は何も学ばないし強くなれない、をモットーに彼らは修練にその身を焦がした。如何に景信が現代っ子だからとて例外ではないのである。


 この緊張感がたまらないなぁ、やっぱり! 不敵な笑みを崩さぬまま、景信は床をとんを軽やかに蹴った。瞬く間に祖父の懐へと潜り込んだ景信は下から太刀を跳ね上げる。びゅんっと白刃、一閃。鋭い風切音と共に天を目指す逆風切り上げは祖父の顎先をつっと掠め取る。


 高齢者に対してなんと大人げないのか、と彼らを知らぬ第三者であればきっとこのように景信を強く批判するだろう。間違いではない、自分よりも明らかに劣る高齢者に対して景信の行動は、とても感化できるものではないのだから。

 しかしこの祖父を相手に加減することは即ち死を意味する。それをよく知る景信だからこそ、一歳の容赦をしなかった。



「てやぁぁぁぁぁっ!」

「ふっふっふ。あの時よりもずっと腕を上げたようだな景信よ!」



 ガキン、キキン、と幾重にも金打音が道場内に反響する。

 景信が嵐のような太刀筋ならば、祖父は留まることのない流水の太刀筋。

 正しく剛と柔の戦いが道場と言う狭い空間で繰り広げられる。

 二十合目の打ち合いを終えてようやく、二人は太刀を下ろした。

 やっぱりジイちゃんは強いなぁ。今年で御年80の老人と思う輩はきっとおるまい。



「ジイちゃん……めっちゃ元気すぎん?」

「はっはっは! これでも毎日鍛えておるからな。若い者にはまだまだ負けんて!」



 汗こそ額に滲ませるも祖父の呼吸はまったく乱れていない。

 どんだけ元気なんだよウチのジイちゃんは……。人間を相手にしている感じじゃない。景信は乾いた笑い声をもらした。



「それじゃあ次は、あっち・・・の方もやっていくか?」

「オッケー。むしろ俺的にはそっちの方が楽しみだったんだよね」



 額から滝のように流れる汗を手の甲でぐいと拭う景信に、祖母が道場にやってくる。



「お昼ができたよ~」

「む? もうそんな時間か」

「おぉ! 待ってました!」



 ご飯と言うたった一言で、景信の疲労感はすっかり吹っ飛んだ。

 祖父母との三人で食卓を囲む景信は、ずらりと並ぶ料理を次々と食べる。



「やっぱりバアちゃんの作る飯はうまいなぁ!」

「そりゃかわいい孫がくるんだから、これから腕によりをかけるよ景信ちゃん」

「やった!」

「ところで景信よ」と、祖父。



 楽しい雰囲気の中で急に真剣な面持ちをされたものだから、景信も食べる手を思わず止めて祖父の方を見やる。言動が手合わせした時のように真剣みを帯びているのは、きっと気のせいではない。



「お前、神凪かんなぎの森は知ってるな?」

「え? あ、あぁ。一応憶えてるよ、まぁ確かそんな森があったなぁぐらいだけど。それがどうかしたのか?」

「お前ももう子供じゃないし、立派に考えられるだけの賢さがある。だからこそ警告しておく――絶対に神凪の森には行くな」

「え? どうして? あの森ってなんかヤバい曰くとかあったっけ?」



 子供の頃行ったことあるけど、なんにもなかった気がする。

 祖父が警告するだけの危険が記憶から該当しなかっただけに、景信は小首をひねると訝し気な視線を祖父へと送った。祖父はまっすぐと景信を見据えたまま、しかし表情は依然威厳に満ちた険しさをそこに残している。



「……あの森には古くからよくない噂が絶えない場所だ。ワシら地元の人間でもあの場所には近づかんようにしておる。とにかく絶対に行ってはならんぞ、えぇな?」

「お、おぉ……」



 いったいどんな噂なんだ、と聞くだけの勇気も祖父の気迫によって景信はすっかり失った。

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