第5話 9歳


男の子はあの宣言通り、短時間ではあったが堂々と頻回に訪れた。

それもまぁ驚きではあったが、ノアが驚いたのはリズに対してだった。

どうせ、リズのことだから直ぐに逃げ出す算段を整えている事だろうと思い、ノアもその心づもりではいた。

けれども、リズは一切逃げ出す様子はなく、むしろ大人しくしていた。

アンリの警備が硬かったせいもあるだろうが、それでもリズは一言も逃げ出すような事は言わなかった。

そしてそれはまぁ、大人しく男の子の相手をしていた。

とはいえ、初日とは比べ物にならないほどに無愛想で返事も素っ気ないものではあったのが、ノアから見れば猫かぶりをやめた、ちょっと愛想のないいつものリズのようにも思えた。


「今日もあの子来るのかな?」


そうノアが零せば、リズはぷいっとそっぽを向いて「知らないわよ」と呟いた。

2人ベッドで寝そべった状態で、ノアは本のページを捲りながらリズの方をチラリと見上げる。


「リズはあの男の子のこと、どう思ってるの?」


「どうって、何よ急に」


「いや、リズが珍しく大人しくしてるから、何でだろうと思って」


「なに?大人しくしちゃいけない?」


リズに凄まれ、ノアは「いや、別に...」とモゴモゴと話してしまう。

リズは溜息をついて、うつ伏せのまま両腕に突っ伏して口を開く。


「だって、逃げたってろくな事にならなかったじゃない。だからもう大人しくすることにしたの」


「つまり、あの男の子と仲良くする気になったってこと?」


ムッとリズは唇を尖らせる。


「誰があんなやつと。一時、きゅうせんよ。今はおとなしくしておいて、また機会を見て逃げるのよ」


結局逃げるんだあ。

とは思いつつも、大人しくしているだけのリズの方が違和感を感じていたため、そちらの方がリズらしいと言えばらしかった。


「あの子、今日は遅いね」


「だから、別にどうだって...」


そうリズが言葉を返せば扉からノックの音がする。

そして、こちらの返事を待たずに扉があいた。


「やあ、こんにちは」


扉からひょっこりと、最近では見慣れた男の子の姿があった。

何度も部屋を訪れているウィルトリアは、もうアンリに案内されることなく堂々と1人で出入りしている。

リズは扉の方を一度向けば、口を開かずに直ぐに元の姿勢に戻る。

もう既に気を使う様子がない。

ノアの方は一応「どうも」と挨拶を返す。

ウィルトリアはノアの言葉に微笑んで、口を開く。


「実は、今日は庭園に行ってもいいかの許可を貰ってきたんだ。だから、良ければ案内して欲しいんだ」


「本当!?」


先程まで全く表情の変わらなかったリズの目がランランと輝いていた。

ウィルトリアの方はニコニコと笑みを浮かべてる。

ノアは、えーーー、と思いながらリズを見つめた。

本当に単純なんだから...。

ウィルトリアはふふと微笑んで「じゃあ行こうか」と言ってリズに手を差し出していた。

リズはベッドから起き上がり、じっとその手を見つめたが、それを無視してさっさと外へと歩き出していた。

ノアはちらりとウィルトリアの表情を伺ったが、彼はニコニコ笑みを浮かべているだけだった。

さっきはリズにどう思っているのか聞いたけれど、正直ノアもこの子の考えていることはよく分からなかった。

頻繁にここへは訪れるけれど、ただ世間話をして帰るだけ。

返事だってノアばかりがしていて、リズなんか無視というかいないものとして扱っている。

それでも懲りずにここへ来ているのだから、よっぽど暇なのか話し相手がいないのか。

ともかく、ノアはこの男の子が何を考えているのかが今ひとつ分からなかった。

廊下を歩き庭園に着くと、リズは一目散に駆け出していく。

一応、彼に庭園を案内するという名目ではあるのだが、今のリズはそんな事頭からすっぽ抜けていることだろう。

相当ストレスが溜まっていたんだろうなぁと、ノアはリズがはしゃぐ姿を見つめていた。ノアの隣にはあの男の子がいる。


「リズ!病み上がりなんだから、程々にね」


念の為にとノアは声をかける。その言葉がリズに届いたかは分からない。


「ずっと部屋の中にいてはつまらないだろうからね」


そう口にした男の子をチラリと横目で見れば、リズを見ながら微笑んでいた。


「あ、そうそう。僕のことはウィルって呼んでいいからね」


「え?」


「ずっと呼び方に困ってるみたいだったから。

ウィルトリアって長いだろう?だから、家族にはウィルって呼ばれてるんだよ」


ノアはパチパチと瞬きを繰り返す。


「じゃあ、僕はノアでいいよ」


この子の、ウィルのことはよく分からない。

だから、とりあえず話してみようと思った。

リズだって逃げるのをやめたんたらノアもきっと、ウィルと話していった方がいい。

ノアの言葉にウィルは微笑む。


「よろしく、ノア」


「あんたたち!」


突然の声に2人して驚いてそちらを向く。

視線を向けてば腰に手を当てて、不満げなリズの姿があった。


「せっかく、外に出たんだからこんなとこで突っ立ってんじゃないわよ」


「そう言われたって...何したらいいの?」


リズは外に出れてスッキリしたのか、「そうねぇ...」と悩むように人差し指を頬に添えながら、「よし!」と微笑んで、

「だったら、あれやりましょう」と宣言した。


ウィルは「あれ?」と不思議そうな顔をしていたが、嫌な予感を察したノアは一歩後ずさった。




「さあ!やるわよ」


意気揚々としているリズは目の前の木に手を添えた。

やっぱり...とノアは意気消沈する。

ノアの想像した通り、リズは木登りを始めると言い出したのだ。

まぁ、リズの息抜きと言えばこの遊びではあるのだが、しばらく大人しくしているつもりならこれはやめといた方がいいんじゃないかな?とは思った。

反省した気持ちはどこへやら。

リズは、ノアが呆然としている間にどんどんと登っていく。

そうして、足場のある枝にたどり着けばこちらを見下ろして楽しげに「早く登ってきなさいよ」と叫ぶ。

本当になんでドレス着て、あんなとこまで登れるのか。

もちろん登れないノアはただただ見上げた。

またあの二の舞になるのだけは御免だ。

そう思ってノアが一歩後ずさる横で、ウィルは一歩前に踏み出してズンズンと登っていく。

あっという間にリズの所まで登っていくウィルを、ノアは唖然と見上げた。



あー気持ちいいと、木の上から見える景色に目をやる。

久しぶりの自然の眺めは、リズの心をスっと穏やかにした。

下の2人に登ってこいとは言ったものの、2人とも軟弱だからどうせ登って来れないだろうと思った。

だから、ここは私の場所。

ここから見える景色も風も空気も、リズの宝物だ。

強く風が吹き髪を抑えれば、ガサリと木々の音が鳴る。


「流石にここまで来ると高いね」


え?と思って声のする方、木の幹を挟んだ反対の枝にいる人物に目を留める。

金色の髪が陽の光でキラキラと輝く。

陽の光を見つめるようにリズが目を薄めれば、男の子は満面の笑みをこちらに向けた。

思わずぼーと見つめれば、唐突にハッとして「な、な、なんで...」と呟く。


「君が登るように言っただろう?」


そう言って微笑む男の子に、リズはあんぐりと口を開く。

確かに言った。言ったけれども、それはどうせ登って来れないだろうと言う意味で。


「あ、あんた...貴族のこどもでしょ?なんで、登れるのよ」


「その言葉はそのまま返すよ」


そう言って、困ったように笑った。

こうあっさりと登ってこられれば、リズも苛立ちを通り越して呆れてしまった。

何だか、馬鹿馬鹿しくなった。

リズは足元の枝に座り込み溜息をつく


「もういいわよ、いいわ、私の負けで」


「あれ?もう終わり?」


飄々とした顔で男の子がいった。

リズは目をパチパチとさせて、訝しげにそちらを見上げる。


「だってあんまりにも懸命に逃げてたから可笑しくって、こっちも意地になって追いかけてたから」


目の前の彼は楽しげに笑いながら言う。

こ、こいつ...。

リズは通り越したはずの苛立ちをまた募らせる。


「まぁでも、空から降って来るとは思わなかったけどね。しかも2回も」


そう言ってクスクスと笑っている。

もうリズは返す言葉もなかった。

口を開くのも嫌になって、唇を引き結んだ。

そんなリズの様子を見て「ごめん、ごめん」と目に溜まった涙を拭きながら言うさまに、ますますリズは唇を閉ざした。


「ああ、そうだ。僕のことはウィルでいいからね」


は?誰が呼んでやるもんかと、リズは睨みつけてやる。

そんなリズの様子をニコニコとウィルは見つめた。


「まぁ、無理して呼ばなくてもいいけどね。これから時間はまだまだあるんだから」


な、な、なん...こいつ...。

唖然とした表情を浮かべるリズに、ウィルはふふと目を細めて微笑んで、「これからよろしくね、リズ」と言った。

リズはその言葉にプチッとキレた。


「あんたなんか大っ嫌い!!」


そう叫んだリズはさっさと木を下りて、リズの様子に首を傾げるノアの手を引けば一目散に建物へと駆けて行った。


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