第3話 9歳



ノアは寛ぐように足を伸ばして地面に手をつき、座りながら青空を見上げていた。

ぼーっと空を見上げる。そして隣のリズはほくほく顔だった。


「ふふふ、流石にここまでは来れないでしょ」


今2人がいる場所は屋根の上だった。

自室のベランダからハシゴをかけて屋根の上に登っていた。

ハシゴは倉庫から引っ張り出してきたらしい。

もはやリズがどんな突飛なことを起こしてもノアは何も言わなかった。

今も心を無にして青空に浮かぶ白い雲と鳥を眺めている。

とはいえ、屋根に登ると言い出す前のリズは屋敷の脱走を試みていたのだ。流石にそれはと思い却下すれば、唐突に部屋にハシゴを持ってきたかと思えばベランダに立て掛けて有無を言わさずに登らされた。

この状況だってどの道危ない上に、バレれば怒られることは間違いないのだが、もうノアは何も考えないことにした。

気がつくと隣にいたはずのリズは、屋根の縁から下を覗き込んでいる。


「あっ、いた!流石にこんなところにいるとは思わないわよね」


そう言ってほくそ笑むリズに対して「リズ、危ないよ」と顔を顰めて注意をする。

下であの男の子の姿を見つけたのだろうか、じーとそちらに目を向けている様子だった。

ノアは溜息を零して空を見上げる。鳥がチュンチュンと鳴きながら円を描くようにクルクルと飛び回っていた。

その様子をしばらく見ながらまた視線を戻した。

そして視線を戻した瞬間、目を疑った。

そこにいたはずのリズの姿はなく、視線を戻した時の一瞬、緑とピンクの髪が映った。

「リズ!!」

慌てて駆け出し、屋根から下を覗き込んだ。


ほんの一瞬の出来事だった。

もちろん下に落ちないように気をつけてはいた。

けれどもほんの少し、身体を前へと重心をかけた時にうっかりと手を滑らせてしまったのだ。

そこからはあっという間だった。身体が宙に放り出された感覚。後ろでノアが強く名前を呼ぶ声が聞こえたが、もはや声すら出なかった。

ギュッと目をつぶる。

この高さからだ。地面に落ちる頃にはきっと無事ではすまない。

刻一刻とその時が近づいて来る恐怖。

そろそろだろうと衝撃を覚悟したとき、何かふわりと包み込まれる感覚があった。

え?と不思議に思う間に、やはり衝撃が来た。

けれども、想像と違って叩きつけられるほど痛くはない。

ゆっくりと目を開ける。地面がどこか分からず目を回せば、触った地面はどこか柔らかかった。

かと思えば下から「いてて」と声がする。

ようやくそちらに目をやれば、ブロンドの髪が眩しく輝いていた。

リズは目をぱちくりとさせる。じーと下敷きにした状態の少年を見つめれば、少年の方もこちらに視線を向けた。

そして2人して見つめ合う。

少年の唇から「大丈夫?」と紡がれた。

そんな言葉にもぱちぱちと瞬きを繰り返す。

そして唐突に我に帰れば、少年の上から転がり降りた。思い出した心臓がバクバクと鳴り響く。

一体、何が起きたの?

上を見上げれば屋根の上には米粒のような大きさのノアがいた。

本当にあんなところから落ちたのだろうか。なんで助かったのか、目の前の男の子が助けてくれたのだろうか。

男の子は頭をさすって顔を顰めてはいるが、特別大怪我をしている様子はなかった。

でもあんな高さから落ちてきたのだから、2人無事なはずがない。一体...。

リズが混乱している間に男の子は立ち上がり、こちらに手を伸ばして「立てる?」と聞いてきた。

混乱していたリズは言われるがままに手を伸ばした。

そして手を掴んだ時にハッとして、身体ごと後ろに下がろうとしたが足を踏ん張った時に激痛が走った。


「いった!」


声を上げて足首を見れば紫色に腫れ上がっていた。

呆然と見つめる。

痛みが走るまで全く気が付かなかった。

男の子は直ぐに怪我を察して、「ちょっとまってて」と言い残せば、誰か使用人を連れてきた。

使用人の男性も何事だと焦った様子で駆けつけて、リズの様子を見て慌てて応急処置をして直ぐに医務室へと運ばれた。

その後は周りでリズが怪我をしたとあっててんやわんやと騒然となり、そんな中でリズは疲れたように気絶して眠った。

次にリズが目を覚ました時には身体が怠く、とても起きられそうになかった。薄らとした意識の中で、視界の隅には心配げにこちらを見て「リズ...」と呼ぶノアの姿を見て、また意識を手放した。

そうしてもう一度目を覚ました時には、隣で寄り添うようにして手を掴んで寝るノアの姿があったのだった。

リズが目を覚ました途端、医者の診察と着替えと食事と淡々とこなされていく。

リズはされるがままだった。

ようやく夕方頃になってリズはベッドの上で寛いだ。

合間合間で休んではいたがひっきりなしで、ようやく心を落ち着けた気がした。

その合間の中では、父様と母様が見舞いに来てくれて、本当に心配させてしまったのだと実感した。怒られるよりも泣かれる方がずっと辛いことなのだと、リズは改めて反省した。

リズが寛ぐ横ではノアもベッドの上で同じように寛いでいた。


「本当にびっくりした。ぼく、あの時本当に助からないと思ったんだよ」


リズが屋根から落ちたあの時、ノアも肝を冷やしたという。

そりゃあ、あの高さから落ちたともなれば誰だって死んだって思う。

けれども、慌てて下を見た時にいたリズは無事そうで心から安堵したそうだ。

直ぐにでもリズのところに駆けて行きたかったそうだが、ハシゴを外してたり隠していたりと手間を取ったせいで時間がかかってしまい、結局会えたのがリズが気絶して眠ってしまった後だったらしい。


「でも、その後も大変で、リズは熱を出すし全然目を覚まさないし、あんな事があったあとだから、余計に心配したんだよ?」


「ごめんなさい」


リズは素直に謝る。これは本当に心配させてしまったから。

ノアはリズが落ちたあの場面を実際に目撃しているのだ。何故助かったか未だに分からないが、無事だったからいいようなものの、本当ならあのままノアの心に一生のトラウマを刻むことになってしまっていたことだろう。

ちなみに周りには、あの時の怪我は外で走り回っていた拍子に転けてできたものということになっている。


「ねえ、ノア」


「なに?」


「私が落ちた時、どうやって助かったか知ってる?」


あの時、屋根から落ちたあの瞬間。何か柔らかいものに包まれた感覚があった。

あれが何だったのか。ずっと気になっていた。


「ううん、あの距離からじゃあよく見えないし、ぼくが見つけた時にはもう地面に着いてたから、どうやって落ちたかは見てないんだ」


「そう...」


いくら考えても答えは出そうになかった。

瞼が重くなり、温もりを探すようにして右手を動かせば触れたそれをギュッと握りしめて、2人して夢の中へと沈んでいった。

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