第8話:黒くて重い地下の水

 

 翌朝、ナターシャは目覚めとともに猛烈な喉の渇きに襲われた。飲まず食わずで一日中歩いたため、すでにナターシャの体は脱水症状が始まっていたのだ。最優先事項は水の確保である。もともと贅沢な生活をしていなかったため、多少の空腹は我慢ができる。しかし、水は必要だ。彼女の体が猛烈に水分を欲していた。


 今日が限界。明日はない。

 それが分かるからこそ、夜風に対するものとは別の焦りを感じていた。


 もっとも、ナターシャも考えないで動いているわけではない。選択肢はいくつかある。一つ目は井戸水の確保。廃墟となった街の井戸が生きているとは思えないが、可能ならばこれが一番理想的だ。

 二つ目は街に流れる川を利用すること。昨日街を歩いた際に、街のいたる所で小川が流れているのを確認した。しかし、問題となるのが結晶だ。毎晩のように吹く結晶風、もしくは街中に乱立する結晶によって水が汚染されている可能性がある。もしも結晶の混じった水を口にすれば結晶憑きへまっしぐらだ。

 三つ目は森を流れる川を探すことだが、これも街中の川と同じ理由で危険である。もしくは果実などから水分を補給する手段もあるが現実的ではないだろう。


 ナターシャは苛立たしげに唇を噛む。悩んで、考えて、それで導き出した答えはあまりにも陳腐。どれも可能性の低いものばかりだ。


「むぅ……とりあえず井戸を探そうかしら」


 井戸はさほど苦労せずに見つかった。廃屋と結晶に囲まれた井戸が寂しげに佇んでいた。

 掘り抜きの台板に手押しポンプが固定されているタイプの井戸であり、これならば結晶が入り込む心配はなさそうだ。近くに転がったバケツを置いた。取手の表面はザラザラとした感触であり、よくみると太陽が反射して輝いている。夜風にあたって結晶化現象エトーシスが始まっているのだ。うまく動いてくれれば良いが、ナターシャは少し不安を感じた。


 取手を壊さないよう慎重に押してみた。内部が錆び付いているのか予想以上に重い手応えだ。両手で思い切り体重をかけねば動かないほどである。


「くぅ……固っ……!!」


 ……流石に重すぎないだろうか。これが人を支える命の水の重みか。いやいや、これはおかしいぞ、と疑問を感じながらも必死にポンプを押すナターシャ。やがて、何かのようなものを越えた瞬間、ポンプの口から水が溢れ出た。


「やった!」


 ナターシャは両手を上げて喜びかけた。


「……え?」


 バケツ一杯に黒い水が満たされている。覗き込んでもナターシャの顔が反射されず、汲み上げたというのに水面が全く揺れていない。これは良くないものだ、と直感的に理解した。捨てようとして持ち上げると、まるで鉛が入っているかのように重かった。


 それから何度もポンプを押してみたが、水は黒いままであった。見つめているとどこまでも沈んでしまいそうな黒。黒色と呼ぶよりは黒そのものが形になったようなものだ。見つめ続けると潜在的な忌避感が呼び起こされた。


「井戸が枯れているわけではないけど……なんで水が黒いのさ。私の喜びを返してよ」


 井戸は一旦保留だ。街に流れる川を試してみよう。

 ナターシャは廃墟の中央付近へ向かった。ヌークポウほどではないが、この街の住居もなかなかの密集率だ。路地裏なんて日の光すら届いていない。きっとこの路地裏には貧しい人々が住んでいたのだろう。健常な人間が暮らすにはあまりにも暗すぎる。

 入り組んだ路地を抜けると大通りにつながった。街で一番大きな川が流れており、川を挟んだ両側に店と思われる廃屋が立ち並んでいる。ヌークポウの商業区みたいな所だろうか。活気あふれる大通りの姿を想像すると少し寂しくなった。

 ナターシャは適当なボロ布を拝借してから川に降りた。船着き場と思われる木製の足場に立ち、ボロ布で川の水をすくってみた。透き通るほど綺麗で冷たい水だ。気温も相まって指先が少し痛い。ボロ布が水を含んだのを確認すると、今度は力一杯に絞った。


「少し結晶が混じっているね。この量なら飲んでも大丈夫……いや、まずいか」


 布の内側には、一見では分からないほど小さな粒がついていた。川に溶けた結晶の粒子だ。触ってようやくわかる程度の量であり、これならば少しぐらい人体に入っても有害ではない。しかし、飲み続けるとなれば話は別。


 ナターシャは悩んだ。一かバチかで川の水を飲むか、それとも井戸水を飲むか。どちらを選んでも賭けである。結晶化現象エトーシスを起こす可能性のある川の水と、正体不明の黒い井戸水。有害の可能性が予測できる分、まだ川の方がマシだろうか。


「賭けはしたくないんだけど、こればっかりはどうしようもないわ」


 賭けとはつまり思考をやめて運に任せるということだ。可能な限り避けたいが、選択肢は限られている。賭けを選ばねばならない場合もあるだろう。

 流れに身を任せる生き方は嫌いだ。だから自分の力で生き抜くために銃を練習し、リンベルを通じて外の情報を集めた。いつかヌークポウを抜けるために。いつか、自分の足で生きるために。


 少女は悩む。仮に川の水を飲んだとして、それで結晶化現象エトーシスが発生しなかったとして、果たしてその選択に未来はあるのだろうか。今は平気でもいつかは限界が訪れる。良くてその場しのぎ、悪ければ死が待つのみ。本当にそれが最善策だろうか。


 少女が選ぶにはあまりにも難しい選択であった。


 ○


 数刻後、井戸の前にナターシャの姿があった。彼女は黒水を選んだ。それが正しい選択かはわからないが、彼女なりに色々な可能性を考えた結果である。

 地下水を汲み上げた井戸水が結晶化現象エトーシスを起こす可能性は低い。最悪の結果を結晶化現象エトーシスと仮定するならば、少なくともその最悪だけは免れるというわけだ。もちろん他の原因で命を落とす可能性は充分に考えられるが、川の水を選んだところで緩やかな死は避けられない。ならば少しでも可能性のある方をナターシャは選んだ。


「……やっぱり不安になってきた」


 帰り際に廃墟から見つけた綺麗なバケツをポンプの先にセットする。そこへ並々と井戸の黒水が注がれた。やはり真っ黒だ。何度もくみ上げれば井戸水が澄むかと期待したが、残念ながら黒いままだった。


「え、えっ、本当に大丈夫かな……まずいよね、これ。明らかにまずいよね」


 不安に染まるナターシャ。とても人が飲んでいいようなものには見えない。しかし、残念なことにナターシャの体は限界を迎えており、つばを飲み込むこともできないほど渇いていた。

 ナターシャは恐る恐る黒水をすくってみる。やっぱり、重い。両手ですくっただけなのに重すぎる。人が受け入れるには重くて、黒い。少女は口元にまで近づけ、嫌な予感に一瞬躊躇し、意を決して飲み込んだ。


「……っ!? グッ……ゲホッ……!」


 おめでたいことに、その選択は間違いだ。喉が焼けている。強烈な拒絶反応だ。黒水こくすいは少女の喉を焼きながら体内を巡り、胃を、心臓を、脳を焼いた。急に体全体が重くなって倒れ伏す。立ち上がることができず、何が起きたのかも分からない。視界が黒く明滅し、誰かの笑い声が頭の中に反響する。

 ダメだ、吐き出さないと死ぬ。そう思いながらも吐き出されたのは自分の血だった。世界がぐるぐる回転し、痛みと後悔と絶望と、濁流のような感情があふれてくる。


 それでも最後まで足掻こうと地面をかきむしり、何度も吐血を繰り返しながら、ナターシャの意識は深い黒水の海へと沈んでいった。


 ○


 寝起き前のぼんやりとした意識のなかで、少女はゆっくりと覚醒した。何が起きたのかを思い出そうするが、脳がまともに働いてくれない。だが、喉が渇いた。水が欲しくてたまらない。


 ――水?


 朦朧とした意識の中で自分が眠っていたのだと自覚する。瞬間、ナターシャは跳ね起きた。


「うそ、どれだけ眠っていた……?」


 心臓がバクバクと脈をうち、急速に脳が冷えていく。今は一体何時だ? 太陽はどこだ? まだ月は出ていないか?

 自分の体が無事かどうかよりも先に、今が夜かどうかを確かめた。太陽は見えず、空も薄暗くなり始めているが、結晶風は吹いていない。まだ夜ではないということだ。


 急いで立ち上がると、若干ふらついた。妙に体が重い。視界も若干赤い気がする。ナターシャは無理やり体を支えるながら周囲を確認した。


 もぬけの殻だった廃墟に生き物の気配がする。もぞもぞと動く結晶。窓ガラスの向こうに蠢く影。路地裏を徘徊する結晶憑き。もしくは、塔からにじむ黒い塊。昼間は閑散としていたはずなのに、まるで街全体が目を覚ましたように動き出した。


 夜がくる。月明かりの森が活動を始める。帰らねば。今すぐ、教会へ帰らねば。焦燥感が少女の心をはやし立てる。


「ハァッ、ハァ……」


 化け物の気配に何度も身を隠しながら、少女は教会を目指した。街の雰囲気が明らかに異常だった。日暮れとともに一変し、空気そのものが廃墟から夜の街へ変化した。地面からぼこぼこと結晶が顔を出し、結晶憑きのうめき声が周囲から聞こえてくる。


(森の生き物が夜に活動を始めたってことかしら……もっと早く目を覚ましていたら……!)


 教会までもう少しという時、街全体の輝きが増した。空を覆っていた雲が晴れて、満月が顔を出したのだ。


 その光を見た瞬間、ナターシャは月明かりの森という名前の意味を思い出した。月の光が結晶に反射して森全体を七色に染め上げる。空を見上げれば視界いっぱいに結晶の輝きがうつった。ヌークポウから見た空とは比べ物にならないほどの美しさだ。

 北の方に高い塔が建っており、その塔から伸びる結晶は一際大きく輝いていた。あれが森の外から見えた結晶だろう。巨大で、非現実で、されどこれは現実だと自己中心的に押し付けてくる。


 ナターシャは走った。


 何とか夜風が吹き始める前に教会へ逃げ込むと、ナターシャは猫のように丸まった。「何も起きずに夜が明けますように」と首無しの女神像に祈りを捧げる。明日を生活よりも今日の安全を。教会の窓ガラスから結晶憑きが覗いていた。他にも正体のわからない影がゆらゆらと揺れていた。月明かりが教会の中に化け物の影を落とす。


 銃を握りしめた少女は、ただただ、息を殺しながら眠りについた。


 次の日、街中の井戸を確かめてみたが黒水しか出なかった。一体この街はどうなっているのだ。ついでに昨日の黒水をもう一度口にしたが、今度は平気であった。



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