第9話:楡に現る黒いもや

 

 翌朝になって教会を出ると、廃墟は昨晩の光景が嘘のように静まり返っていた。大量にいた結晶憑きも姿を隠しており、ナターシャ以外に人影はない。


「……よしっ、午前中は食料探し、午後は街の散策にしよう」


 とにかく腹が減った。森に入ってから口にしたのは黒い井戸水のみ。空腹には慣れていると言ったが、流石に二日も食べないと限界だ。

 廃墟を目指す際に森の様子を観察したが、果実らしきものは見つからなかった。動物の気配はおろか、鳥の鳴き声すらこの森では聞こえないのだ。


 もしや、月明かりの森は夜にしか活動しないのでは?


 そんな推測を立てながら、ナターシャは森に向かった。道に迷わないように、木に目印を付けながら進む。街を歩いていた時も思ったが、この辺りは川が多いようだ。どの方角へ歩いてもすぐに川と交流する。


「……ん?」


 何となく違和感を感じた。そう自覚した瞬間に、違和感は明確な形をもって膨れ上がった。何かがおかしい。

 そもそも月明かりの森は最初からおかしな場所だったが、明らかにナターシャの常識を壊す存在があった。


 あぁ、とナターシャは呟いた。

 川の水が逆流しているのだ。物理法則を無視した水が、下から上へ流れている。ナターシャは首を傾げた。なぜこのような現象が起こっているのだろうか。森の渓流は心地よい音を響かせながらナターシャの隣を上っていく。不思議だ。不思議だが、考えても答えは出ない。


 きっと文明が崩壊したように、この世の常識も曲がってしまったのだ。


 ナターシャは川を下る。上に流れる川を下る、なんておかしな話だが気にしないことにした。相変わらず生き物の気配は感じられないし、食べられそうな果実も茸も見つからない。そのくせに結晶塊は探さなくても見つかるのだから嫌になる。


 不気味なほどに静かな森だ。少女の顔に悲壮感が増し始めた頃、周囲の景色が少しだけ変わった。


「……これ、にれの木だ」


 いつの間にか楡の群生地に踏み入ったようだ。堂々と枝を広げる姿は雄大な自然を感じさせる。

 楡の木にはつぼみのような固まりがいくつも付いていた。あれらは全て種だ。そして、楡の種は食べられるはずだ。


「種で腹は満たされないけれど……何も無いよりはマシね」


 ナターシャはナイフを片手にバッサバッサと種を切り落として鞄に入れた。ちなみに、この鞄も廃墟から拝借したものだ。小さな仕立て屋に放置されており、丈夫でたくさん入るため気に入っている。これを作った人はとびきりの職人だったに違いない。


 群生地にはお腹ほどの高さの大きな草が茂っている。おかげで足元はまるで見えないうえに、湿っているせいで歩くたびにナターシャの服が濡れてしまう。肌に貼り付く気持ち悪い感覚を我慢しながら、彼女はせっせと種を集めた。


 食料を見つけたことでナターシャの視界は狭くなっていた。彼女自身も警戒を怠ったつもりはないのだが、無意識のうちに群生地の奥へと進んでいた。


 ――ブンッ。


「!?」


 背筋があわ立つのを感じて振り返った。背後には鬱蒼とした茂みがあるだけで一見すれば何もいない。だが、確かに嫌な気配を感じた。右手に愛銃を構え、左手にナイフを添え、ナターシャは姿勢を落とした。


 恐らく、いる。何か分からないが、気配がする。相手の姿は見えないが狙われていると思った方が良い。ナターシャは無意識に喉を鳴らした。気配は右から、もしくは左から、ナターシャを弄ぶように現れては消える。


 彼女は動くことが出来ず、ただただ茂みの中でジッと隠れた。

 どれほど同じ姿勢で我慢しただろうか。足音が聞こえた方向へゆっくりと顔を出すと、木々の間から一体の結晶憑きが現れた。


(なんだ、結晶憑きか)


 なんだ、と安心できるような相手ではないが、知っている相手ならば対処ができる。彼女は低姿勢のまま照準を合わせた。ふらふらと動く頭を狙い、ゆっくりと糸を通すように息を吐く。


(大丈夫、向こうはまだ気付いていない……)


 細く、長く、息を吐く。肺の空気を全て出しきり、意識を周囲の景色から切り離していく。気付かれていないのだから落ち着いて狙えば大丈夫だ。


 一瞬、ナターシャの思考が止まった。そうだ。相手は。ならば先ほど感じた気配は一体なんだ?


 疑問を感じた瞬間、結晶憑きが地面に消えた。まさに地面そのものが結晶憑きを飲み込もうとしているかのようだった。手足をデタラメに振り回して抵抗する結晶憑き。奴の周りには小さな黒いが無数に蠢いていた。もがく結晶憑きをモヤは容赦なく飲み込もうとする。


 結晶憑きはモヤから抜け出そうと何度も腕を振りまわし、結晶の生えた牙で噛みつき、飛び跳ね、地面を転がり回った。されどモヤからは逃げられず、結晶憑きは哀れな叫び声を上げた。

 ナターシャは一連の光景を呆然と見つめることしかできなかった。逃げたい気持ちでいっぱいだが、動けばモヤに捕まってしまう。引き金にかけた指を小さく震わせながら、少女はひたすら息を殺すしかなかった。


 やがて結晶憑きの抵抗は収まり、群生地に響いていた叫び声が止んだ。力なく項垂うなだれる結晶憑き。まとわりつくようなモヤが結晶憑きを体ごと宙に持ち上げた。


「……虫だ」


 ナターシャはようやく正体を見破った。あの小さな黒い点は全て虫だ。「ブブブ」と低い羽音を鳴らしながら、結晶憑きを支えられるほどの大量の虫がゆっくりと飛んでいく。空に黒い軌跡を残しつつ、小さき狩人たちは廃墟の方角へと消えていく。


 ナターシャは大きく息を吐いた。べっしょりと嫌な汗をかいている。アレは駄目だ。アレに襲われて助かる未来が全く想像できない。結晶憑きであれば銃で殺せるし、大型の獣も殺す方法が存在する。しかし、おびただしい数の虫に襲われて助かる方法があるだろうか。


 少女は胸に手を当てた。大丈夫、自分は生きている。激しく脈打つ心臓が生きていると実感させてくれる。息を整えようと深呼吸をし、混乱する脳を落ち着かせた。つくづくこの世はクソッタレだ。人が暮らすにはあまりに過酷。されど世界は目を離せないほど美しい。


 ナターシャは静かに群生地を離れた。既に脅威は去ったというのに、足音を鳴らさないよう慎重に歩いた。


 ○


 教会に戻ったナターシャは軽く休憩をしてから街を散策した。まだ先ほどの恐怖が残っているが、震えている余裕はない。日が昇っているうちに少しでも多く情報を集めねばならないのだ。


 街を歩いて分かったが、昼間は結晶憑きの数が激減するようだ。奴らは日暮れと共に活動するらしく、日中は比較的安全に行動ができる。やはり月明かりが影響しているのだろうか。全く危険がないわけではないが、精神的負担は楽になった。


 教会の周囲は一通り見て回ったが、当然ながら食料は残っておらず、周辺の地形を示す地図も見つからなかった。長い年月が全てを風化させてしまったのだろう。


「手に入ったのはこれだけか」


 ナターシャはオイル缶を片手に街を下った。使い古された油が手に入っただけでも幸運であろう。


 日が傾き始めた頃に教会へ帰った。首無しの女神像に見守られながら、ナターシャは夕食の準備を始めた。

 手に入れた油を乾いたわらに染み込ませ、その周囲を太い枝で囲む。潰れないよう交互に組んで、最後に空気の抜け穴も作っておく。


「持つべきものは愛銃ってね」


 ぱすん、と藁を撃ち抜いた。

 油に着火した炎が焚き火となって燃え上がる。あとは適当に台を組み上げて、その上に洗った鍋を乗せれば完成だ。楡の種を黒水と一緒に鍋へ入れた。そのままでも食べられるが、茹でた方が安全だろう。


 そんなこんなで、本日の晩ご飯は楡の種の黒水添え。全く美味しくなさそうだ。ヒビの入った食器に種だけが盛られた姿は退廃的な寂しさを感じさせる。少なくとも人の食事ではないだろう。ナターシャは不平不満を並べながら食べたヌークポウの食事が恋しくなった。


 種をポリポリと食べながら、ナターシャはこれからのことを考えた。

 街の散策と食料の確保は続行だ。楡の種だけでは栄養失調で遠からず死んでしまう。かといって、あてもなく探しても食料が見つかるかは運次第。

 故に街の散策は効率を重視するべきだ。店を中心に散策し、普通の家も損耗が少ない場所は探してみる。余裕があれば中央の塔も確認しておきたい。ナターシャは街に着いた時から不穏な気配を塔から感じていたが、同時に塔へ行かなければならないような謎の予感も抱いていた。

 楡の群生地も探索をしておきたい。現状、あそこは食料を調達できる唯一の場所だ。先ほどの光景は若干のトラウマになっているが、乗り越えるしかないのである。


 夜の廃墟も危険性を確認しておきたいが、今の格好では無理だろう。リンベルが使っていたような身を守る遺物か、もしくは防護マスクがあれば良いのだが……。


 ないものねだりは夜のおとも。パチパチと燃える炎が少女の不安を和らげる。あぁ、日が暮れてきた。森がざわざわと目を覚ます。人の常識が結晶風に乗って飛んでいく。半透明なナニカが現れては消え、光の玉が森の奥で踊っていた。


「……意外と美味しいな」


 ナターシャは最後の一粒を噛み砕いた。



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