傭兵少女と壊れた世界

第7話：月明かりの森

　ナターシャが目を覚ましたとき、ヌークポウは荒野からいなくなっていた。起き上がったナターシャは周囲を確認し、次に自分の体を確認する。頭から足先まで恐る恐る確かめ、問題なさそうだと分かるとその場でぴょんぴょんと跳ねてみた。

「……生きてる」

　何ということだろう。ヌークポウから落とされたというのに五体満足である。あぁ、やはり神は見ておられたのだ。「いたいけな少女が無惨に命を落とすのはあまりにも嘆かわしい」と慈悲をくださったに違いない。

　……と思いたいところだが、実際は偶然に偶然が重なった結果である。

　落ちた場所が砂地だったとか、ヌークポウが低い位置で停止していたとか、切り離し（パージ）された鉄板の下敷きになって結晶憑きが潰されたとか、窪地のおかげで夜風にあたらなかったとか。

「良かった――」

　そう呟いた瞬間、視界の端に人影が映った。まさか警備隊の追手が来たのか。ナターシャは弾かれたように銃を引き抜き、姿勢を低くして構えた。

　人影の正体は警備隊ではなかった。ヤツは左腕と頭部が結晶化現象（エトーシス）を起こしており、一見すれば結晶憑きのように思える。しかし、普通の結晶憑きと違って薄い衣を重ねたような衣装をしており、丘の上からナターシャを見つめるだけで襲ってこない。

（結晶憑きにしては様子が変ね）

　やがて、彼はゆっくりとした動作で右腕を前に揃えた。まるで祈りのような所作だ。彼の足元には船で襲ってきたもう一体の結晶憑きが倒れている。まさか彼が助けてくれたのだろうか。

　ナターシャが目をそらさないように頭を下げると、奇妙な結晶憑きは満足したように去っていった。よく分からないが襲ってくるつもりはないらしい。後ろ姿が見えなくなるまで見送った後、ナターシャは構えを解いた。

「……ふぅ」

　ナターシャは自分の幸運に感謝した。きっと日頃の行いが良かったからに違いない。

　人生とは大抵がそういうものだ。注意しなければ気付かない小さな幸運の積み重ねが今日に繋がっている。思考を放棄して漠然（ばくぜん）と日々を過ごす人間に神は手を差し伸べないのだ。

　都合の悪いものばかりを気にする人間は、本当に大切なものを見落としてしまう。ナターシャは幸せを拾えた。まずはそのことに感謝である。

「まぁ、状況は最悪なままだけどね。これからどうしようかしら」

　ナターシャは窪地から出て外の景色を見渡した。片方は“月明かりの森”と呼ばれる禁足地だ。巨大な結晶が森の中央にそびえ立ち、その大きさは遠く離れているにも関わらずハッキリと確認ができるほどだった。あれは旅人への警告だ。この森が人の世から隔絶された地であることを示していた。

　森の反対側はどこまでも続く“ 忘れ名（わすれな）荒野”。ヌークポウが移動してきた荒野だ。百年戦争の名残である古代兵器が大量に打ち捨てられていた。あれらは遺物と呼ばれる失われた技術であり、ナターシャの愛銃もこの忘れ名荒野で拾われたものだ。無機質な機械の海が地平線の彼方まで広がっていた。

　右は月明かりの森。左は忘れ名（わすれな）荒野。どちらを選べば生き残れるか。ナターシャは非常に悩んだ。

　森を選べば何かしらの食べ物はあるだろう。遠くに廃墟が見えたから、そこまで行けば夜風を防げるかもしれない。なによりも結晶を近くで見られるという浪漫が感じられた。

　荒野を選んだ場合は古代兵器が壁になって夜風を防いでくれる。もしかすると眠ったままの遺物を堀り当てられるかもしれない。食べ物を確保するのは至難だが、夜風の心配がない分、森よりも安全なのは確かだ。

「どちらがいいかな」と悩むナターシャだが、最後は直感を信じて月明かりの森を選んだ。きっと、最適解なんてものはないのだ。大切なのは選んだ先でどう生きるか。ならば、楽しそうな道を選んだ方が後悔をしないような気がした。

　少女は進む。月明かりの森は新たなる来訪者を歓迎した。

　○

　人の手が届かない森は少女の体力を容赦なく奪った。好き勝手に伸びる葉っぱやツタを斬り倒しつつ、地面から顔を出す結晶に気を付けなければならない。生き物の気配はまるで感じられないが、常に誰かに狙われているような緊張感で嫌な汗が流れた。

　ナターシャは一度立ち止まって息を吐いた。まだあまり進んでいないのに体がひどく疲れている。複雑な森の地形は想像以上に過酷であった。

「ハァ、ハァ……急がないと、まずいわ……」

　彼女が焦っている理由は時間だ。日暮れまでに身を隠せる場所を見つけねば夜風に吹かれてしまう。当初の目論見では廃墟まであまり遠くないと思っていたが、歩き慣れない地形に足を取られたせいで時間がかかっている。

　頭上を見上げると、太陽が丁度真上を通り過ぎようとしていた。タイムリミットは日没だ。それまでに廃墟まで進めなければ、夜風に吹かれて結晶憑きとなるか、結晶化現象（エトーシス）で体の内側から結晶となるかの二択になる。

「……っ！！」

　バッ、と草かげに姿を隠した。ナターシャの前方に徘徊する結晶憑きの姿がうつった。若い女の結晶憑きだ。右腕が全て腐り落ちており、両目から伸びた結晶が太陽の光を反射している。キョロキョロと命の香りを探す亡者。距離はさほど遠くない。

　ナターシャは必死に息を殺した。ヤツが何を頼りにして人を襲うかは不明だが、たとえ目が結晶化していてもナターシャが動けば見つかるだろう。彼らは命の気配に敏感だ。熱か、音か、もしくは人の想いから生まれる神秘の力か。もしも体力が少ない今を襲われたら逃げきれないだろう。

　念のため、愛銃を静かに構えた。いつでも撃てるように引き金に指をかけ、照準を結晶憑きの頭部に合わせた。来るなら来てみろ。いつでも撃ち殺してやる。

　まるでナターシャの殺意が伝わったように、結晶憑きはナターシャの隠れている草むらを向いた。やっぱり嘘です。来ないでください。ナターシャは心の中で後悔した。

（……目があった？）

　錯覚か。草むらまでの距離を考えれば、いかに結晶憑きといえども気付かれるとは考えにくい。しかし、ナターシャは船内で結晶憑きと対峙した。あの時、結晶に魅入られた生物がいかに常識から外れているかを思い知った。

　恐らく、目があった。そう思った方が良い。自分は気付かれている。それを自覚した瞬間、心臓が跳ね上がった。設備区を延々と追いかけ回された記憶が脳裏に甦る。迫り来る足音、爆発する設備、がこんと歯車が外れる音、そして狂ったような男の笑顔……。

　落ち着け。冷静になれ。ナターシャは自らに言い聞かし、愛銃に力を込めた。まるでそれが合図かのように結晶憑きが地面を蹴った。人の尊厳を殴り捨てたような走り姿で、されど猛然と、化け物は木々の間から迫り来る。

「ハッ……！」

　風が森を吹き抜けた。

　撃ち出された弾丸は葉を貫き、枝の間を通り抜け、結晶憑きの頭部を粉砕した。腐った肉と柔らかくなった骨が周囲に散らばり、結晶憑きは走っていた勢いのまま木の幹に激突する。

　ナターシャは肩の力を抜いた。いつの間にか体が強張っていたようだ。カタカタと震える手を無理やり抑え付け、少女は立ち上がった。

　これがずっと続くのだから、化け物と出会うたびに震えていては世話がない。ナターシャは月明かりの森へ進むことを選んだ。結晶憑きの楽園に足を踏み入れることを覚悟の上で決断した。ならば進むしかないだろう。震える少女を守ってくれるような世界はとっくに崩壊した。自らの足で立たねば生き残れない。

「……よしっ」

　小さな掛け声と共に、少女は再び森を進む。

　○

　足の感覚が失われ始めた頃、ようやく廃墟が見えてきた。ナターシャは安堵したように表情を和らげる。ずっと緊張した状態で歩いたため、心身ともに疲れ果てているのだ。早く安全な場所を見つけて眠りたい。あわよくば美味しいものを腹いっぱい食べたい。

　叶わぬ願いを妄想しながら廃墟に足を踏み入れた。瞬間、前から冷たい風が吹き抜けた。結晶風かと思って少しビクッとする。

「見たことのない建物ばかり……百年戦争よりも前の廃墟かしら」

　苔に覆われた石壁は年季を感じさせる。軽く触ってみると柔らかい苔の感触が指に返った。建物は基本的にうず高く積まれており、近づくだけで独特の圧迫感が感じられる。割れた窓ガラスから家の中を覗いてみると、調度品や家具などが床に散乱していた。

「おじゃまします……」

　腐った木の匂いがナターシャの鼻をついた。何か役に立つものがないかと思ったが期待しないでおこう。

　床に落ちた本をなんとなく手に取ってみる。文字が掠（かす）れて題名が読めないが、剣を持った女性の絵が表紙に描かれていた。まるで英雄のような銀髪の少女だ。パラパラと本をめくってみたが、状態が最悪なうえに知らない文字で書かれており、とても内容を理解することはできない。ナターシャは諦めて近くの棚に置いた。

　駄目元でキッチンに寄ってみるも、食料になりそうなものは何も残っていなかった。経年劣化で割れてしまった食器が散らばっているだけである。

　その後も目についた家を適当に回ってみるが、どこも同じような有様であった。

　恐らく昔は繁栄していたのだろう。いくつもの川と大きな建物が生活の名残りを感じさせた。人が消えた街は長い時間をかけてゆっくりと崩壊し、森に飲まれてしまったのだ。家屋の残り香だけが街の歴史を紡（つむ）いでいる。

　緩やかな傾斜の坂を上りつつ、ナターシャは休めそうな場所を探した。しかし、そう簡単には見つからない。どこの家もヒビだらけで夜風を防ぐのは難しそうだ。寝床にするにはあまりにも危険である。

　自分が結晶憑きになった姿を想像し、ナターシャは頭を振った。無意味なことを考えるのはやめよう。脳裏に「結晶憑きになったら私が回収してやるよ！」と叫ぶ友人の声が聞こえた。あいにく回収されるつもりはないのだ。

「あれは……教会かしら。ここだけ他の建物よりも綺麗ね」

　ナターシャは小さな教会にたどり着いた。何故かヒビが一つも入っておらず、不思議なことに窓ガラスも健在だ。神の寵愛を受けた教会が、退廃した世界で静かに佇んでいた。

　教会の中も散乱した様子はなく、埃こそたまっているものの、夜風を防ぐには問題がなさそうだ。ナターシャは教会を寝床にしようと決意する。

「神様のお膝元を勝手に使うなんて罰当たりかしら……いや、崩壊した街に神様は残っていないか」

　奥の女神像に向かって長椅子が並んでおり、椅子の上には白いシーツを被った像が点々と座っていた。参拝者を表した像かもしれない。首を失った女神像と、祈りを捧げる白シーツの像。平常時であればナターシャも祈りを捧げるのだが、そのような体力は残っていなかった。

　とにかく疲れた。ナターシャの体は限界を越えていた。扉や窓に隙間がないか確認をし、問題がないとわかると教会の真ん中で倒れ伏した。

（先のことは、明日考えよう。まずは、今日を生き残れたことに、感謝だ……）

　食料の不安が頭をよぎったが、きっと何となかるはずだ。今は思い浮かばなくても、明日の自分が何とかしてくれるから大丈夫。ナターシャは深い睡魔に身を委ねた。