第3話 いつかの海辺

 穏やかなある日、少年が海を見に行くとおかしな男がいた。男は海に向かって何かを弾いていたのだ。楽器を手にするその男の姿は、少年にとってなんとも見慣れないものであった。それもそのはず、少年は生まれてから今まで人間が楽器を演奏しているところを見たことがなかったのだ。それに男の弾く楽器はロボットの演奏でも見たことのないもので、とても奇妙なものに見えた。楽器を演奏するのはロボットがやることである今、何故人が楽器を弾いているのだろう、あの楽器は何なのだろうと少年はとにかく不思議であった。

「おじさん、何してるの」

 思わず少年は男に尋ねた。変な人だとは思っていたが、子供ゆえの好奇心が勝ってしまったのだ。男は少年の言葉に少し目を丸くしながらも、笑って答えた。

「トンコリを弾いてんだよ。まあ今時珍しいだろうけどさ、別に怪しいもんじゃないから」

 男は少年に自慢をするようにトンコリという楽器を掲げる。掲げられたそれは木でできた細長い弦楽器で、胴体には見たことのない綺麗な模様が施されていた。

「ふうん……僕、人が楽器をやってるのも、その楽器も初めて見た。それに、ロボットの方が上手だから人は楽器をやらないって聞いたけど」

「これはロボットもやってるやつ、いないんじゃないかな。お前、北海道はわかるだろう?北海道がまだまだ寒かった時代、アイヌっていう民族が北海道にはいたんだよ。このトンコリはアイヌの民族楽器ってわけ」

「みんぞく楽器……よくわからないなあ」

 少年は初めて聞く言葉に眉を顰める。

「昔はたくさんの民族がいたんだぞ。ロボットは民族楽器なんて滅多にやらないだろうから、知らなくて当然だけどな……ロボットは何でも上手くやるが、俺は人にしかできないものもあると思うんだ」

「それはないよ。学校でそう習った」

「……そうか。今はそうだろうな」

 笑顔だった男は一瞬顔を曇らせた。少年にはその理由がわかるはずもない。

「ねえ、なんかやってよ」

 興味本位で少年はそう言ってみた。少年の言葉に、男は何も言わずにトンコリを構えて指を動かす。その瞬間、場の空気が一瞬にして変わった。それはなんとも儚い音楽だった。

 この音を、少年は聴いたことがなかった。まるで男が、音そのものが何かを慈しんでいるようであった。たくさん音楽は聴いてきたはずなのに、この音は少年の中にはない。今まで聴いたどの楽器とも違う。この独特な音の流れに少年の心臓は跳ね上がった。穏やかな海の音をバックに響く音楽が、少年は不思議で仕方なかった。

「……そんなにびっくりしたか?」

 男は呆然とする少年の顔を覗き込む。

「なんだか、音、音が生きているみたいに聞こえたよ。音に悲しいとか優しいとか感情があるみたい……これ、何ていうの?」

 この感情を、現象を知りたいと少年は思った。

 男はにんまりと笑い、嬉しそうに言った。

「それはな、音色っていうんだよ」

「ねいろ?」

 また初めて聞く言葉に少年は首を傾げた。

「音に色って書いて音色って読むんだよ。昔はな、音にも感情があったんだ。そしてそれは、人間にしかできないことだったんだ。民族楽器は特に、その時の気持ちを音に乗せることが多いもので……」

 男のこの言葉は、少年を更に混乱させた。今はロボットが音楽を作り、演奏する。それは確かに人々を感動させていた。

「ロボットの演奏は上手で感動するよ。でも、おじさんとは確かに違う。感動するけど、ドキドキはしないっていうか……」

 少年は心臓が跳ね上がった感覚を思い出すかのように胸を撫でた。

「ロボットはいかに上手に演奏できるかを追求するからな。俺はそれが嫌いなんだ。音には感情があって、それが音色となって心を揺さぶる。特にトンコリのような民族楽器にはその力がある。人間の中にある懐かしさ、感情を呼び覚ます力が。」

 だから俺はトンコリを演奏するんだ、と男は言うと再びトンコリを構え、指を動かした。次はさっきとは全然違う、まるで何かを表現しているような音だった。風のような、動物の鳴き声のような、自然を感じる音にも聞こえる。この違いは少年にとって新鮮で驚きに満ちたものだった。

「さっきとは、全然違う! これ何の音? 自然の音みたい! なんか変な感じだよ」

 興奮を抑えきれない様子の少年を横目に、男は次々と曲を奏でていった。

 救いの無いような悲しい音、何かを祝福しているかのような光輝くような音、母が子を慈しむような穏やかな音、時には男は歌いながらトンコリを奏でた。同じ音のようで違う音。どの音色も初めての経験として少年に染みていった。ロボットの演奏には感動はあったが感情が揺さぶられることはなかった、しかし、確かに今自分は感情が揺さぶられているのだと少年は感じていた。そして、それと同時に一つの疑問も浮かんできた。

「おじさんはどうしてロボットもやらないような楽器をやっているの?」

 この問いに、男は少し考えた様子を見せてから答えた。

「……世界にはな、誰もやらないことをひっそりとでもやろうとしているやつがいるもんなんだよ。きっと俺以外にも、どこかで昔の音色を守ってるやつがいるはずだ」

 本当にそうだとしたら、なんだかカッコいいな、と少年は思った。どこかで心揺さぶる音楽を守り続けている人がいるなんて、どこか遠い世界のファンタジーのようだった。

「なあ、お前もやってみるか」

 男は少年に何かを差し出した。それは小さな銀色の船のおもちゃのように見える。「これ何?」と少年が尋ねると、男はまた嬉しそうに笑った。

「これはな、カズーっていうアフリカの民族楽器。簡単だから吹いてみな。ここに空洞があるだろう、まず口を付けて。喋るだけで音が出るぞ」

 今までに見たことのない楽器、それに楽器に触ったこともなかった少年は恐る恐るカズーという楽器に口をつけ、喋ってみた。すると少し滑稽な、綺麗とは言えないが、確かに少年の息から音というものが生み出されていた。初めての感覚に少年は嬉しくなり何度も音を出した。

「いいじゃないか。ほら、お前の楽しいって気持ちが音に表れているぞ。これでお前も音色を生み出しているってことになるな」

 少年は信じられなかった。まさか自分が楽器を演奏する日が来るとは。何気なく変わった男に声をかけただけだったのに、こんなことになるなんて。少年は自分の世界が少しずつ塗り替えられていくことを全身で感じていた。

「楽しい。どうして人は演奏しなくなったのかな。ロボットにはできない音が、人には出せるのに。それに、民族楽器をロボットがやらないのなら人間がやればいいよね」

「音色を、忘れたからだろうな」

 男は悲しげに言った。何かを懐かしむようでもあった。

「音楽は昔、世界中にいろんな楽器や音色があり、どれもが心を揺さぶるものだった。でも時代が進むにつれてどれだけ上手く、人々に受けるか、正確に聴かせるかに重きを置くようになっていった。なぜこんなことになったのか俺にはわからない。人が変わったのか、世の中が変わったのか」

 少年には少し難しい話だったが、とにかく時代の中で音色が消えていったことだけは理解できた。

「住む場所によって、国によって楽器も違えば音色も全然違う。ロボットは民族楽器のようなマイナーなものは気にも留めないし、人も多くの音楽が存在していたことに、もう気づきもしないけどな。トンコリも、カズーだってそうだ。禁止されているわけでもないのだから、昔の素晴らしい音色を忘れてロボットに音楽の全てを委ねるなんてもったいないよ、本当に」

 男はトンコリを優しく撫でる。少年はその姿を見て、言わずにはいられなかった。

「――やってみたい。僕も音色を残したいな。おじさんがしてくれたように、音で誰かの心をドキドキさせてみたくなった」

 男は少年の言葉に、今日一番の笑顔を見せた。

「ははっ、頼んだぞ若者。こんなすぐに興味を持つなんて、素質があるよ。どんな楽器でも、お前にしか出せない音色がある。自分の色をどんどん出していくのが大事だ」

 少年は大きく頷いた。そしてカズーに再び口を付けた。

 偶然の出会いではあったけれど、これは確かに自分だけの音色。これからどんどん広がっていくであろう自分の世界と音色に思いを馳せながら、少年はカズーを鳴らし続けた。そして男もトンコリを少年の音に合わせて奏で始める。

 かつて全く違う場所で奏でられた二つの音色は、不器用ながらも合わさって新しい音楽となっていった。人々が忘れ去り色褪せたそれは、ここで再び極彩色のように鮮やかなメロディーとなり、過去から未来へとつながる音色として海の音の中に溶けていった。

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ごちゃまぜ短編集 紺道ひじり @hijiri333

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