白川 ーしろかわー
「おや。」
そこは先日火事があった古い武家屋敷だった。
仁之介は年配の文学者だ。
あごひげが生えた優しそうな風体をしている。
今日はたまたま散歩をしていて火災の跡を見かけたのだ。
そこに白っぽい紐のようなものが落ちていた。
黒い焼け跡にそれは少しばかり目立った。
彼が近寄るとそこには小さな白蛇が伸びていた。
下駄に踏まれた跡が体についている。
黒い泥にも塗れてゴミにしか見えなかった。
「可哀想になあ。」
仁之介は座り込んで蛇を見た。
すると微かに蛇が動いている。
「お前、生きてるのか。」
仁之介は迷ったが生きているものを見捨てるのも後味が悪い。
明治から大正に時代が変わったばかりのこの頃、
何やら世間はあわただしかった。
「先生、どうしたんですか、この蛇。」
家に来た学生が大きな鉢を見て言った。
「しかも白蛇ですか。」
その大きな鉢には下に砂が敷き詰められ、
所々に草が植えてあった。
その草の影に小さな白蛇が伸びていた。
「火事のあった所で拾ったんだよ。
死にかけていたのを見たからね、捨てておくのもどうかと思って。」
「白蛇は吉兆の使いとは言いますが、ちょっと気持ち悪いですね。」
「そんな事無いよ、可愛いものだよ。」
仁之介は白いあごひげを撫でながら笑った。
「この蛇は目は黒いから
白子だと目が赤くなりますし。
何にしても珍しいですね。」
「そうだな、そら、台所のお茶を持って行きなさい、
仲間が来るんだろう。」
仁之介は学生に言った。
「はい。いつも場所を提供していただいて
ありがとうございます。」
「ちゃんと片付けてくれよ。」
「はい。」
学生は頭を下げて台所に消えた。
仁之介は大きな家に一人で住んでいる。
部屋は余っているので、
知り合いの学生が集まるのに
貸して欲しいと言われて提供しているのだ。
「蛇よ、口の悪い学生だなあ。
気持ち悪いと言われてしまったな。」
仁之介は笑う。
蛇は聞いているのかいないのかじっと伸びているだけだ。
「そらご飯をやろう。」
仁之介は取ってきた何匹かの虫を鉢の中に放り込んだ。
ついでに水が入っている皿も取り換える。
鉢には蓋はしていないのだがなぜか蛇は逃げなかった。
仁之介は逃げるなら逃げればいいと思っていたが、
蛇は鉢の中にいつもいた。
彼は蓋がない事に気が付いていないのかと思った。
「お前はとぐろを巻かないのか?
人に踏まれてまだ痛いのか。
治ったらどこに行っても良いんだぞ。」
蛇は微動だにしない。
白い体が曲線を描いて伸びているだけだ。
草の間を白い蛇の姿が見え隠れしている。
まるで小さな森の中に川が流れているようだった。
「お前はまるで小さな川みたいだね。
白い川だ。
仁之介は蛇に話しかけた。
ある時仁之介は散歩をしていると道端に木苺が咲いていた。
よく見ると小さな実もついている。
「蛇は木苺も食べると聞いたがそうかな。」
彼は好奇心でいくつかそれを摘んだ。
そして帰ると珍しく蛇がグネグネと動いている。
「なんだい、腹が減っているのかい。」
彼は木苺を鉢に入れた。
すると蛇はぱくりと食べた。
今までにない反応だ。
彼は面白くなり、木苺が採れるうちは毎日のように持って帰った。
しばらくして仁之介は新しい文学書を手に入れた。
その日も朝からずっと本を読んでいる。
「おや、ここに面白い事が書いてあるよ。」
と、仁之介は蛇の前に来た。
仁之介は新しい本を手に入れると蛇に読んでやるようになっていた。
聞いているのかどうか分からないが、
読んでいると蛇はこちらをじっと見ている
「龍になり損ねた蛇は物の怪になるとあるよ。
お前はどうなんだい?」
蛇は相変わらず伸びているだけだ。
「お前は何なのか分からんが、人は襲ってくれるなよ。
せっかく綺麗なんだからな。
優しい蛇でいておくれ。」
蛇は黒々とした目で仁之介を見た。
それから何か月か経った頃か、
仁之介は蛇を逃がすことにした。
もうすぐ秋が来る。
蛇は冬眠をしなければいけないのだ。
「白川、そろそろお前は野に帰るかい?」
蛇はじっと仁之介を見ている。
「ほら
仁之介は鉢に紅葉を入れた。
だがその夜、学生が集まって来ると
いきなり大勢の憲兵が仁之介の家に乗り込んで来た。
土足で乱暴に入り込んでくる憲兵と、
抵抗する学生で仁之介の家はめちゃくちゃになった。
そして白いひげを生やした仁之介は
憲兵には指導者に見えたのだろうか、
仁之介は一人の憲兵に切りつけられた。
仁之介が倒れる。
そして憲兵がまた切ろうとした。
その時だ。
異様な風が通った。
一瞬皆の動きが止まる。
そしてそこに現れたのは巨大な白蛇だった。
皆はそれを見上げて何もかも放り投げ一斉に逃げ出した。
残ったのは倒れている仁之介だけだ。
蛇がそこに這い寄った。
「白川か……。」
「そうよ、おじいちゃん。」
蛇は涼やかな美女に変わる。
「……、おお、なんと……。」
仁之介の息が荒い。
「おじいちゃん、しゃべらないで。」
「良いんだよ、多分私はもうだめだ。」
白川は仁之介の頬に触れた。
「おじいちゃん、助けてくれてありがとう。
あたしはあの時龍になるための修行の途中だったの。
でも火事に遭ってしまって。」
仁之介は白川を見た。
「修行は失敗、物の怪になってしまったわ。」
「私のせいか……。」
「違うわ、あの火事で失敗よ。あの時死ぬはずだったの。
だからおじいちゃんはあたしを助けたのよ。」
「そうか。」
仁之介の息が上がり出す。
「人を
「うん、そうする。」
彼の息がすうと上がった。
翌朝、憲兵達が恐る恐る仁之介の家にやって来た。
家は荒れたままだ。
近所の人が集まっていて憲兵に喰ってかかっていた。
何しろ無実の人を殺めたのだ。
蛇が出たなどと憲兵はわめいたが
それを信じる者など誰もいなかった。
結局は場所を提供していたからだなどと言い訳しつつ、
全てはうやむやになってしまった。
そして今では誰も知らない出来事だ。
「白川ママ、お客様がそろそろいらっしゃいますよ。」
ホステスが声をかけた。
「はい、分かりました。」
白川は店の一番目立つところにある生け花を見た。
「
「そうよ、そろそろ秋だからね。」
「それで松井様がいらっしゃるみたいです。」
「あら、退院されたのかしら。
でも奥様からお酒はダメとうかがっているから、絶対に出しちゃだめよ。」
「はい。麦茶ですね。」
入り口まで客を迎えに行く白川の後ろ姿を
ホステスたちが見る。
「ママは本当におじいさまキラーよね。」
「おじさんと言うかおじいさまに絶大な人気があるわよね。
優しいから。」
「ママが私達を雇ってくれるから生活出来てるし、
すごく頼ってしまう。本当に優しいわ。」
「そうね。ありがたいわね。」
ひとりの彼女の瞳に横線が瞬間入る。
もう一人は耳を動かして音を拾う。
それは客の前では彼女達は絶対にしない。
誰にも知られてはいけない秘密だからだ。
そして彼らはこの街で今日も密かに生きている。
人として。
「だから松井のおじいちゃま、ダメですよ、
奥様からも止められていますし。」
「いやあ、ほんのちょっと、一口でいいから、な。」
「来ていただいたのは嬉しいですけどお酒はダメ。
今日はこれを飲んでおしゃべりしましょう。」
「うーん、白川ママのけちんぼ。」
「もうそんな事、おっしゃって。
でも退院されてすぐに来ていただいたのはすごく嬉しいわ。
私の事を覚えていて下さったのね。」
にっこり。
「ん、そうか、まあ仕方ないなあ。」
「でも奥様もずいぶんご心配されたようですよ。
お優しい奥様ですね。」
「まあ、毎日来てくれたしな。」
「松井様の事をとても大事に思っていらっしゃるんですよ。」
「そうだなあ、心配かけちゃったな。」
「だから、麦茶です。
これを飲んで今日は早めにお帰りになった方がよろしいですよ。
奥様がお待ちです。」
「はは、白川ママには敵わんな。」
「でもお店に来ていただいたのは本当に嬉しい。
お体にお気をつけてまたお越しくださいね。」
にっこり。
お年寄りは大事にされるのが大好きです。
優しくしてね。
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