第四関門 災渦

 そこは深い森の中。むせ返るような濃霧のうむが漂うその奥、微かに開けたその場所に、それはあった。


 井戸だ。井戸を横目に通り過ぎると、そこにはこの景観に全くもって似つかわしくない、いくつもの旧型テレビが遺棄いきされたかのようにずらりと並んでいる。


『あー……、運営さん、これは確実に河井選手を生きて帰す気がありませんね』

『ナッチエルさん、どういうことでしょうか⁉』

『もうそういうのは良いです。だってこれ、絶対に勝てない奴が出て来るじゃないですか。これじゃただの出来レースですよ』

『えー……、はい‼ 続きます第四関門の選手ですが、彼女は匿名を希望しております‼ ですがこの光景、観客の皆様はもうご存知でしょう‼ かつて世界を震撼しんかんさせた怪物‼ 地獄の亡者でさえも恐怖する、S選手です‼』


 静まり返る会場。しかしそれは白けたのでは無く、恐怖によりもたらされた沈黙。


 誰かが「ヒッ……」と小さく悲鳴を漏らす。声の主の視線は、弾四関門入口に佇む、腰まで伸びる長髪に白いワンピースの女に注がれていた。


 それは自らの前走る玲太郎を追うことは無く、この関門に足を踏み入れて五秒の後、フッと姿を消す。と、同時に、遺棄されたテレビのビデオデッキに差し込まれていたVHSカセットが一斉に飲み込まれる。


 弦を引っ掻くような音と共に、砂嵐の混じるどこかの光景。次の瞬間、泡立つ全てのモニターから、玲太郎に向かって一斉に女が飛び出した。


 女の伸びる手を、避ける、避ける、避ける。しかし周囲を埋め尽くす数の前に、次第に玲太郎は逃げ道を失い、端へ、端へと追い詰められて行く。


 ついに四方を囲まれた玲太郎に幾多もの手が届き、首を、喉を、腕を、足を掴むと、一切の慈悲も無くそれぞれの方向へと引き千切った。


『あぁっとぉ‼ ここまで奮闘した河井選手、第四関門にて敗退です‼』

『……いや、まだ終わりではありませんよ』

『しかしナッチエルさん、現にああして河井選手は、……えっ?」


 ボタボタと滴り落ちる液体。しかしそれは血肉にあらず、ただの水。そして――。


『ど、どういうことだ⁉ 地面にこぼれ落ちたのは、血肉ではなくただの水⁉ し、しかも河井選手‼ 未だ足を止めず、尚も前に走り続けていたぁ‼』


 Sが固まっていたその場所から幾分か離れた所、そこには、未だ前を向いて必死に走る玲太郎の姿があった。


『S選手、もの凄い勢いで河井選手を追走ッ‼ 周囲の画面からは尚もS選手が分裂して襲い掛かる‼』


 なりふり構わず分裂するS。それは津波のような勢いで玲太郎を追走する。しかし――。


 “妖術ようじゅつ 水分身みずぶんしんじゅつ”。


 瞬時に印を結ぶ玲太郎。すると、走る玲太郎の周囲に、同じ姿をした四つの分身が現れた。


『こ、これはどうしたことだぁ⁉ 河井選手の周囲に四つの分身⁉ もしや彼は忍者だったのかぁ⁉』

『そうではありません。あれは忍術ではなく、触媒しょくばい媒介ばいかいを必要とする妖術です』

『よ、妖術……? しかし、人間の彼が、何故……』

『分かりません。が、体内に開いた七か所のから発生する精神エネルギーを用いて発動する忍術に対して、河井選手が用いた妖術に必要なものは二つ。一つは術を成立する為の触媒。この術の場合は水ですが、恐らく、河井選手は体内の水分を使ったのでしょう』

『しかし、彼が生み出した分身は四体です。そんな量の水を一度に失ったら……』

『彼の腹部を見て下さい。それが答えです』

『……あ、あぁッ⁉ スタート直後に膨れていた下っ腹が、引っ込んでいる⁉』

『そう、彼は無駄に五キロも増量した訳では無かったのです。恐らく試合前に仕込んでいたのでしょう。術の触媒となる、水をね』

『な、なるほど……』

『そして術を発動するのに必要なもう一つのもの。それは、触媒を術として成立させる為のエネルギー媒介。要するに、本人の命です』

『な、なんという戦い‼ 河井選手、妖術を駆使することでS選手と互角の勝負を繰り広げるぅ‼』


 否、そうではない。分身と本体の数を合わせても、玲太郎の数は五体。膨大な数に分裂したSとは比較にもならない。


 玲太郎の生み出した分身は、一人、また一人と数を減らし、ゴールを目前にしてついに一人を残すのみとなり、次の瞬間――。


『あぁ⁉ 最後に残った河井選手の本体を、S選手の手刀が胴体から真っ二つに斬り裂いたぁ‼』


 滴る血。放り出される上下。今度こそ誰もが玲太郎の死を確信する。


 しかし、鮮血に染まるSの横を玲太郎が駆け抜け、今、第四関門のゴールを潜った。


『……な、えっ⁉ な、何故、どうして⁉』

『分身ですよ。今のもね』

『で、ですが今のは、血が……』

『術は同じ水分身でも、今彼が今触媒として使ったのは、己の血液です』

『あの量の血液を、ですか⁉』

『えぇ、一リットルは失っています。きっと彼は、もう立っているのも限界でしょう』


 ふらつく足取りの玲太郎に、会場から少しずつ拍手喝采はくしゅかっさいが贈られる。そこに最早侮蔑ぶべつの色は無く、誰もが生贄として招かれた人間の勝利を願っていた。

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