竜の血筋
この世が始まる前。
そこには
混沌は、ただの無味乾燥な無秩序ではない。
混沌は、揺らぎを内在する活発な存在だったのだ。
途方もない時間を経て、その揺らぎの中から、混沌は偶然に知性を獲得し、知的存在となった。
これが原初の神で、神の中の神であるカオスである。
カオスは、まず
これがこの世界の実質的な始まりとなった。
◆
あの日から二月が過ぎようとしている。
マリア・クリスティーナの心は重く沈んでいた。
そこに、母のマリア・テレーゼが訪ねてきた。
彼女は恐る恐る口を開く。
「今日も……ないようだね……」
「ええ……」
マリア・クリスティーナは力なく答えた。
あるべき生理現象が二月近くない。
それが何を意味するか白黒つけるのが、彼女は怖かった。
「悩んでもしょうがないね。私が付き添うから、医者に
意を決してマリア・テレーゼは娘に誘いをかけた。
(クリスのこんな姿……もうこれ以上見ていられない……)
「でも……」
「悩んだからって、結果は変わらないのよ」
とマリア・テレーゼは、少し強い口調でたたみかける。
「はぁ……わかりました。お母さま」
マリア・クリスティーナは、大きなため息をつくと、
母子が訪れた病院は、アウクトブルグでも治安の悪い地区に隣接したところにあった。
マリア・クリスティーナに起きた今回の事故のようなことは、貴族や大商人の娘にもままあることだった。
このような訳ありの娘たちを秘密厳守で診察する。ここはそんな病院の一つだった。
医者は白髪交じりで瘦せぎすの姿で、少し疲れているように見えたが、慣れているようで、母子の名や詳しい事情は何も聞かず、ただ淡々と問診していく。
そしてやはり淡々とした口調で告げた。
「妊娠してますな」
「ええっ!まだ詳しい診察は何もしてないじゃないですか!?」
とマリア・クリスティーナは、
しかし、抗議したところで事実が
「症状といい、体に出ている特徴といい、間違いなく妊娠です。それでも詳しい診察をお望みなら一応やりますが?」
マリア・クリスティーナは、ガックリと肩を落とすと「いいえ。結構です」と力なく答えた。
「あの……このことは、どうかご内密に……」
と言うと、マリア・テレーゼは幾ばくかの現金を医師に握らせる。
医師は何のためらいもなく現金を受け取ると、
「もちろんですよ。こちらも信用商売ですからね。他人に漏らすことは絶対にありません」
自宅に戻った母子は、グンターに結果を告げた。
「困ったことになったな……」
グンターは、
しばしの沈黙の後、マリア・クリスティーナは自信なさげに言葉を発した。
「私……産みます……」
父の素性が知れないとはいえ、我が子は我が子。彼女は約二月間悩んでいる間に、そのことだけは心に決めていた。
「それは……もちろんだが……」とグンターは即答した。
マリア・クリスティーナは少し驚いたが、
では、グンターは何を悩んでいるのか?
それには、少し複雑な事情があった。
◆
神聖ルマリア帝国の帝室の血統には、原初の神であるカオスの血が流れているという伝承があった。
カオスは、地上に姿を現わすときには、竜の形をとるという。
現に、帝室の血筋の者には竜の紋章の形をした
だが、竜の血筋は代を重ねるうちに混血し、薄れていく。
そしてこの数代では、竜の紋章が現れないか、現れてもとても小さいという状況にまで
だが、奇跡が起きた。
隔世遺伝とでもいうものか、現皇帝のフリードリヒⅠ世・フォン・ホーエンシュタウフェンの右の二の腕には、5センチメートルほどの小さな紋章があったのだ。
紋章は、その現れる部位によって、発揮する能力が異なる。
腕に現れる紋章は、武勇に優れていることを示すものだった。
結果、帝国南部のエタリア地方におけるルマリア教皇との権力闘争では、勝利とまでは言わないまでも、痛み分けの状況となっており、これにより帝国はなんとか均衡を保っていた。
ルマリア教皇のイノケンティウスⅢ世は権力に固執した人間で、これまでにない勢いで教会勢力を拡大していただけに、この結果は大きかった。
だが、万事上手くいくことなどは滅多にない。
皇帝の子供たちに、紋章持ちは全くいなかったのだ。
年齢的に、これから子をなすことが難しい年齢にさしかかっていた皇帝は、皇太子のフリードリヒⅡ世の子供に期待した。
結果、正妻との間に生まれた次男の右の二の腕に3センチメートルほどの小さな紋章があったものの、皇帝と皇太子は、これに満足できていなかった。
そこに臣下から思いがけない情報が入ってきた。
ローゼンクランツ子爵家の娘には、胸の中央に10センチメートルもの大きさの紋章が現れているという。
過去の実例から、胸の中央の紋章というのは魔術の才能があることがわかっていた。
「それは誠か?」
「裏は取れております」
皇帝は、記憶を巡らせた。
(ローゼンクランツ家の当主は……確かグンターだったか……)
グンターには、両の二の腕に10センチメートルもの紋章があるという
(本人に野心がないようだから放置しておったが……このような結果になるとは……)
そして、皇帝は決断した。
「ローゼンクランツ家に使者を送れ」
「
ローゼンクランツ家を訪れた使者は、娘のマリア・クリスティーナを皇太子の
たかだか子爵家ふぜいが、皇帝の命に逆らうことはあり得なかった。
こうして、マリア・クリスティーナは、15歳になったら皇太子フリードリヒⅡ世の愛妾となることが内定した。
帝国では、ある程度の地位のある貴族の子は、15歳から3年間、アウクトブルグにある学校に通うことが
社会への本格デビューは、18歳になってからというのが通常だったのだ。
だが、皇帝はその3年が待てなかった。
教育は皇宮内で行うから15歳になったらよこせというのである。
この世界での成人は、女は12歳頃、男は14歳頃というのが
しかし、何ごとにも例外はある。
貴族でも政略結婚の場合などは18歳を待たずに結婚することも珍しくなかった。
結局、15歳で愛妾になるということは、驚くほど乱暴な話という訳でもなかったのだ。
グンターは、皇宮に皇帝への
非処女であることを隠して愛妾に出すのも
グンターは、皇帝に対し、正直に事情を話すことを決めたのだ。
皇帝が怒って罰せられることも覚悟した。
そして謁見の日……。
グンターは、緊張の
が、皇帝は第一声……。
「ふんっ。そのようなこと、竜の血の前では蚊ほどの問題もない」
「では……」
「予定に変更はない。よいな!」
「
(皇帝の
皇帝は、さらに続けた。
「だが、ローゼンクランツ家の世間体もあるだろうし、帝室に迎える愛妾が気まずい思いをするのも気の毒だ。出産のことは内密にせよ」
「かしこまりましてございます」
皇帝の命を受けたグンターは、家族とも相談して、夫婦ともどもマリア・クリスティーナを連れて、山の奥地にある自らの領地に引っ越すことを決めた。
帝都で内密に出産するのは難しいし、生まれた子をどう育てるかも問題だ。
そして、子爵家の家督を長男のブルーノに譲ることにした。
皇帝からは罰せられることはなかったが、自らケジメをつけることにしたのだ。
ブルーノは25歳になっており、なんとか家督を継げる年齢だった。また、グンターも40歳を目前にしていた。
この世界の平均寿命は50歳代であり、40歳を過ぎたら第一線を退いて引退するのが目安となっている。
ちょっと早い隠居と思えばそれほどの悲壮感もなかった。
「良かった。少し安心しました」
マリア・クリスティーナは、父が皇宮へ
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