5.

 教室を出ると、旧校舎の廊下は猛烈な冷気に包まれていた。真夏なのに凍えそうな寒さだった。


「な、な、何だよ、これ……!!」


 十兵衛の声が震えていた。寒さで歯の根が合わなくなっているんだ。


「わ、分からないけど、ひとまず、昇降口を目指そう。卓也の声は下から聞こえてきたし。それに、動けば体も温まるよ」


 十兵衛と並んで廊下を走る。走っているうちに違和感が生まれた。

 進行方向に伸びる廊下が異様に長い。そもそも、僕達の居た教室は階段から一番近い場所にあった。教室を出て直ぐ階段が見えないとおかしい。僕は確認のため一旦足を止めて、後ろを振り返る。同じように振り返った十兵衛が「嘘だろ……」と驚きの声を上げた。反対側の廊下も果てが見えなかったからだ。


「おい、カケル、これって……」

「いつまで経ってもここから出られない……ってコト!?」


 硬直した表情のまま視線を前に戻すと、そこに赤いワンピースを着た女の人が立っていた。黒川先生……? 違う。先生はあんな派手な色の服を着ない。少なくとも学校では。

 女の人が頭と両腕を前に突き出しお辞儀みたいなポーズを取った。長い黒髪が暖簾のようになって地面に触れる。

 僕は十兵衛と無言で見つめ合う。今日、何度目だろうか?


「なぁ、カケル。あの女の人……」


 そう、十兵衛が言うや否や。

 女の人が髪を地面に擦らせながら僕達のほうに向かって猛ダッシュを始めた。

 明らかに尋常ではない動きだった。


 「十兵衛、逃げるよ!」


 僕は廊下を逆走する。十兵衛も慌ててそれに続く。

 走りながら、窓を流れる景色が妙なことに気付いた。

 敷地内で生い茂っていたはずの樹々が、いつの間にか全て枯れ果てていた。

 枯れ木と枯れ木が複雑に絡み合い、旧校舎とその中の僕達を閉じ込める檻のように見えた。


「え……!?」


 一瞬、枯れ木が動いたように見えた。

 見間違えだ。それは枯れ木ではなかった。それは、茶色く変色した人間の腕だった。無数の痩せ細った腕が複雑に絡み合っているのだ。絡み合った腕の一部が解ける。ブルブルと蠢き僕のほうを向いた。そして、そのまま窓を突き破り校舎の中に突っ込んで来た。

 思わず転びそうになったが、何とか体勢を立て直す。

 突然、廊下が左右にクネクネと曲がり出した。僕と十兵衛はその動きに振り回される。

 僕の肺は既に限界に近かった。気持ちが悪い。今にも倒れそうだ。

 それでも、自分に鞭を打って走り続ける。

 左に向かって大きくカーブした廊下を進むと錆の浮かんだ掃除ロッカーが見えた。あそこなら身を隠せるかもしれない。僕は迷わずロッカーに飛び込んだ。

 ロッカーの中は思ったよりも広く、身を隠すのに丁度良かった。僕は、息を殺して、自分の体を両腕でギュッと抱きしめた。そうしてないと不安と寒さで死んでしまいそうだった。

 バケモノどもの廊下を移動する音が少しずつ大きくなり、やがて小さくなった。そして、あたりは静寂に包まれる。

 ロッカーを少し開いて外を覗く。

 バケモノどもの姿は見えなかった。ひとまず、やり過ごすことに成功したようだ。


「十兵衛、ちょっと、ここで休憩しよう……」


 返事がない。


「十兵衛!?」


 僕はロッカーから飛び出してあたりを見回す。

 いつの間にか十兵衛の姿が消えていた。さっきまで、廊下を一緒に全力疾走していたはずなのに。


「どうなってるんだよ……」


 弱々しい声で呟いても答えてくれる友達はもういない。

 僕は邪魔臭いマスクをズボンのポケットに突っ込むと、大きく深呼吸して思考を巡らせた。

 あのバケモノどもはなんなんだろう。【儀式】のせいで本物の怪異が現れたのだろうか?

 でも、あんな中途半端な形の【儀式】で? 本来の手順では、持ち寄った動画を全部観て【儀式】の終了を宣言しないといけない。

 清浄された教室の中は安全な筈で、そこから廊下をうろつくホンモノを撮影をするつもりだったのに。もう「計画」はグチャグチャだ。

 僕らはこの場所から生きて帰ることができるのだろうか?

 努めて考えないようにしていた疑問が脳裏を掠める。

 一度考え出すともうダメだった。

 消えた十兵衛のことが心配だ。それに、卓也は無事なんだろうか。

 悠介は校舎から出ることができたのだろうか。僕だけを残してオカ研のメンバーはもうみんな死んでいるのではないか。

 頭がそんな恐ろしい考えに支配されていく。このままじゃ恐怖のあまり死んでしまう。怪物よりも先に、自分の中から生まれた恐怖に殺されてしまう。

 ふと、視線を横に移すと、そこに見覚えのある引き戸が現れた。赤いテープで作られた「×」マークのある扉。

 恐る恐る戸を引いて教室の中に入ると、幽霊少年がノートPCでゲームをしているところだった。


「このゲーム、クソだな」


 少年が遊んでいたのは人気のホラーゲームだった。

 ディスプレイの中で少年の操る殺人鬼がチェンソーを振り回しながら逃げ惑う人々を滅多斬りにしている。

 僕は気分が悪くなってきた。


「おい、人のものを勝手に使うなよ!」


 僕は少年からゲームパッドを取り上げながら叫んだ。


「お前、マジでなんなんだよ! ひょっとして、今起きていることは全部お前の仕業なのか!?」


 僕の言葉に少年は肩を竦めてみせるだけだった。

 机の上のスマホが置きっぱなしになっていた。念のため確認してみたけど、当然のようにアンテナは立っておらず、外と連絡することはできない。無論、Wi-Fiも繋がらない。

 落胆する僕を尻目に少年がポテチの袋に手を伸ばす。

 ポリパリパリポリ。

 教室にポテチを噛み砕く音が虚しく響き渡った。



 ※



 黒川渚くろかわなぎさは檻の中の動物のように机の間を行ったり来たりしている。

 職員室には黒川と部活動の指導で出勤している教師が数名いるだけだ。

 今日は、黒川が顧問を務めるオカルト研究会の部員達が、取り壊し予定の旧校舎で部活動をしている。

 オカルト研究会は部員数が足りなく、十月の文化祭までに規定の人数を集めないと廃部になってしまう。

 同好会の危機を乗り越えるための秘策があると副会長の風吹カケルが息巻いていた。

 旧校舎の鍵を借りていったのも風吹だった。風吹は、黒川が担任を務めるクラスの学級委員長だ。真面目で成績優秀。手のかからない生徒の代表のような少年だった。

 黒川の中で、風吹とオカルト研究会がどうしてもうまく結び付かなかった。

 会長の佐藤十兵衛は風吹の友人だ。多分、友人に頼まれて、人数合わせのために入部したのだろう。

 所属している部活動こそ変わっているが、おかしなことをするタイプではない。それもあって、黒川は風吹に旧校舎の鍵を特別に貸したのだ。

 だったら——。

 朝からずっと続くこの胸騒ぎは何だろう。

 旧校舎の周辺には妙な噂話があった。幽霊や不審者などおかしなモノの目撃談が後を絶たないのだ。

 黒川自身は迷信に惑わされる人間ではない。

 同好会の顧問になったのも頭を下げて懇願する佐藤と風吹の姿についほだされた結果だ。

 だから、旧校舎にオカルトじみた噂話が付き纏ったところで自分には一切関係ない。

 黒川はそう考えていた。そう考えていたのだが……。


「すみません、私、少し出ますね」


 同僚教師に声をかけ、黒川は職員室を後にした。 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る