二
佐久間との約束日がきた。出勤して始業前から、何やら獲物を追い詰めたという感覚が脳を刺激し、むしろ浮き立つ気分になっていた。
さあ、今日は偽同意書を受け取る日だ。どんな面して持ってくるやら。
そのことを考えると、自然と頬が緩む。
始業時間が過ぎ、午前十時三十分を廻った。机上の電話が鳴る。
おお、来たぞ!
てっきり佐久間からと思い、勢いよく出る。
「はい、糸川です!」
すると、交換手から告げられる。
「外線から入っていますが、お繋ぎしますか?」
何故外線からと訝りつつ、「ああ」と生返事をした。
佐久間ではなかった。
まったく聞き覚えのない声が響く。
「あの、精算業務課の糸川さんですか?」
「あっ、はい、そうですが…」
中途半端な返事をした。すると、高びちゃに出てくる。
「糸川さん、あんたの件で野暮用があるんだが。直ぐに出て来られるかね」
「はあ?」
「だから、直ぐに出てこられるかと聞いているんだ!」
闇雲な要求に、どんなことか分からず相応に応える。
「何をおっしゃりたいのか、分からないですね。それに、今業務中で外出することは出来ませんが。それより、あなたはどなた様ですか。やぶからぼうに、名乗りもせず出て来いとは失礼じゃないですか?それと要件をお聞きしませんと、答えようがありませんが」
「そうかね、あんたの件だけじゃ分からんか。己の胸に手をあて、よく考えてみれば分かると思うがな」
失礼な物言いに、腹に据えかねる。
「何のことか、さっぱり分かりませんね。それに、今申したように多忙を極めている。どこの誰だか分からん者と、これ以上話しをしている時間はないんでね」
すると、強硬な態度に出る。
「糸川、何を悠長なことを言っている。白を切るなら切ればいい。その代わり、お前とお宅の病院で起きていることを、洗いざらいバラしてもいいんだな?」
「はあ、あなたは因縁をつけていらっしゃるのか。それとも、証拠にもなく脅かすつもりか。恐喝罪で訴えてもいいんですよ」
「偉そうなこと言うじゃねえか。そんなに突っ張ってもいいのか。どうなっても知らねえぞ!」
糸川の強気な応対に威嚇してきた。そこで、返す糸川の語気が強まる。
「何のことだか分からんが、俺を脅迫するつもりなら。そんなことしたって何の得にもならんぞ。それより脅迫するなら、警察に通報する。どこの誰だか、名前を名乗ったらどうだ!」
すると、更に反発してくる。
「おお、そうかい。俺の言っていることがはったりだと思っているようだな。お前の隠しごとを、バラしてもいいんだぞ!」
「何っ…」
返事に窮した。すると見透かすように、攻勢に出る。
「糸川、お前も頭の廻りが悪いな。それじゃ、ひとつだけ話してやる。植草隆二の件といえば分かるだろ。こっちも証拠を握っているんだ。公開したら一大事件になっても構わんな!」
「ほう、何のことだか…」
戸惑いつつも惚ける。
「糸川さんよ、それを未然に納めようというんだ。ちょっと時間を作り出て来れば、それでかたがつくんだがな…」
核心を突いてきた。
糸川はドキッとする。果たしてどちらなのか見当がつかない。
同意書の件での脅かしなら、対抗しても勝てる。だが、もう一方となれば、これは己の暗部を掴まれたことになる。もし握られていたら、これは由々しきことだ。果たして、どちらなのか。
心が揺れた。
それにしても後者だとすれば、どんな方法で嗅ぎつけたのか。絶対にバレるようなへまはしていない。院内に密告者がいなければ漏れるはずがないんだ。その辺は手を打っている。さすれば、やはり前々から佐久間を脅かしてきたシナリオが、現実化してきたということか。
似非親族…。と、咄嗟に状況を判断した。
それなら、対処方法は出来ている。
強気に出ても大丈夫…。そのように憶測していると、大声で怒鳴ってきた。
「おい、こらっ!何を黙っている。どうなんだ、俺と会う気がねえのか!」
「そう言われても、業務中で外には出られない。どうしてもと言うなら、私共の方へお越し願いますか。専任の弁護士共々面会致しますが、どうでしょうか?」
そろっと下手に出た。
「何っ、偉そうなこと言うな。お前がそんな杓子定規なことを言うなら、こっちにも考えがある。後になって、吠え面かくなよ!」
強気にやり返してきた。
「そう言われましても、決して厚かましいお願いとは存じませんが、お越しになりますか。どうなさいますか…?」
のらりと応える。すると益々声を荒げる。
「ふざけるな。お前や病院がどうなってもいいんだな。そんなら、そのようにしてやる。後で後悔しても知らんぞ。それと俺の名前だが、湯沢企画の国定だ。覚えておけ!」
そう告げ、一方的に切った。そっと受話器を置く。糸川は次に起こるであろうことを考え始めた。
課内は緊迫感に包まれていた。輩とのやり取りに皆聞き耳を立てるだけで、視線を机に落とし、己に降りかかる災難を防ごうと必死だった。
暫らく考えていた糸川が、ボソッと呟く。
「さあ、手を打っておくか」
そう言い、おもむろに院長へと電話を架ける。
「おお、糸川君か。ちょうどよかった。君に来て貰おうと電話をしようとしていたところだ。ところで何か用かね?」
「はい、じつはご報告しなければならないことが起きまして、ご都合はどうかと、お架けしたのですが」
「そうか、それじゃちょうどいい。ええと、今何時だ?」
「はい、午前十一時近くになりますが」
「そうか。それなら午後二時に私のところへ来てくれんか。その時話しを聞き、私の用件も伝えよう」
「承知致しました」
糸川は敬うように、吉沢が受話器を置くのを待ち切った。
二時に行けばいいんだな。さてと、少々早いが昼飯でも食ってくるか。ついでに報告内容でも整理しておこう。それにしても、さっきのふざけた電話は何なんだ。
国定とかほざいた野郎、「植草の件で胸に手をあて考えろ」だと。よく抜かすよ。まあ、よもやと思うが、もし強請られるとしたら大変だ。これは何としても隠さねばならんが、よもやバレはしないだろう。
そう言えば、この前恵理子が探りを入れてきたが、俺の一物で黙らせた。まあ、国定が恵理子と通じていることはあるまい。それにしても湯沢企画とか言ったが、いかがわしい名前だぜ。多分、そこいらのごろつきだろうて。だいたい、何とか企画と言う会社など碌なものがない。
憶測が推論を呼ぶ。
だとすれば、植草の身内か。すると、そこから嗅ぎつけたごろつきの脅かしとなる…。そうか、とうとう出てきたか。今までうんともすんとも言ってこなかったが、機が熟したと視たんだろう。それなら利用しない手はない。
しからば、佐久間から偽オペ同意書を回収し、決算期末の不突合資料と共に、早急に俺らの手元から放して、後は国定の矛先を院長や佐久間に向かわせればいい。ただ、ここのところは策を打つにも慎重を期さねばならんぞ。
だが、たかをくくる。
それにしても、何とも都合よく喰いついてきたな。これは思う壺だ。あの国定とか言う輩もとんだところで架けてきたもんだ。こりゃ、奴もこれからいろんなところへ脅かしを掛けるに違いない。多分病院、すなわち院長へも電話を入れるだろう。それでさっきの院長の電話も、万が一入ってきた時。いや、すでにあったか。その対処方法の相談であろうか?
しかし、こんなに旨く行っていいのか。あまりにもタイミングがよすぎて気味が悪いぜ。
崩れそうになる顔を懸命に抑えた。
こりゃ、昨晩佳織と燃えたのが、つきを呼んでいるのかもしれん。あの訳の分からん奴の電話が、逆に欲情を刺激するきっかけを作ってくれたようなもんだ。まあ連ちゃんになるが、今夜もたっぷり甚振ってやるか。
糸川は昼飯に充分時間をかけた。周到の段取りを整え、午後二時少し前に自席に戻った。するとそこへ、時田恵理子が歩み寄る。
「あの、課長。ちょっと相談したいことがありまして、お時間の方空いていますか?」
「何かね、何かミスでもしたんかい?」
「ええ、まあ…」
「そうか。相談に乗ってやりたいが、これから院長のところへ行かにゃならん。二時に呼ばれているんでね。その後か、まあ出来たら明日では駄目かな。何なら明日の終業後、飯でも食いながらでどうだ?」
暗に誘うが、残念そうに断る。
「そうですか。それでは、課長のお手すきの時で結構ですので、声をかけて頂けませんか?」
「ああ、分かった。ちょっと、急いでいるんで。すまないね」
「いいえ…」
彼女の返事を聞き流し、急ぎ席を立った。
「さあ、ソファーに座りたまえ」と、吉沢に促される。
「は、はい。お忙しいところすみません」
「いやいや、そんなことはどうでもよい。ところで、わしに何か報告したいと言っておったが、何だね?」
「私の方はともかく、院長のご要件をお伺いさせて頂きましてからで結構です」
「いいや、わしの方は後でよい。それより君の話を先に聞かせて貰おう」
「そうですか、それでは恐縮ですが、じつは例の植草の件でございまして、二つほどございます。一つは佐久間先生には、先日来お願いしていますオペ同意書ですが、本日ご提出頂けることになっております」
「ほう、そうかね。あれさえ整えられれば、うちとしてもどうにか解決できる。それはよかった」
「はい、私共もこれで期末決算の不備が出ず、ほっとするところでございます。院長、それにもう一つですが。つい先程ですが、やはり以前お話しました通り、動き出しております。湯沢企画の国定とかいう輩から、脅迫めいた電話が入ってきました」
「ええっ、何だと。脅迫電話!」
「はい、『直ぐに出て来い』と啖呵を切りまして、断ると急に声を荒げ、今度は『お前の病院がどうなってもいいのか!』などと脅迫するのです。更に『出られない。要件が分からない』と生返事をしましたら、『植草の件だ』と怒鳴りまして…」
聞く吉沢が生唾を飲む。そこで糸川が饒舌になる。
「それで私は、そちらには行けないが、こちらにお越し頂けるなら、然るべく顧問弁護士と共に会うと話したところ、『お前の病院がどうなってもいいんだな!』と怒鳴り、『お前じゃ話しにならん。院長に話をつける!』と捨て台詞を吐き、一方的に切りました」
「なにっ、これは大変なことになったな。どこで植草の件が漏れたのか…」
「あ奴が申すには、何やら親戚の者から相談を受けたとのことでした」
「やはり君が言っていた通り、親族か似非親族が絡んで脅かしをかけてきたのかも知れんな」
「ええ、そのように思われます」
「となれば、佐久間君から提出される同意書で充分対抗できるんじゃないか?」
「その通りでございまして。私もその様に段取りしておりましたので、国定とか言うどこの馬の骨か分からん輩の脅かしに屈しなかったわけで。仮に乗り込んできても、院長の手を汚させるようなことは致しません。私のところで食い止め、いざとなれば追い返してやります」
調子よく言い放つと、吉沢が意味深な言葉を添えて頷く。
「そうかね、それは頼もしい。君の席がある間は頼むぞ…」
「お任せ下さい!」
胸を張り応じたが、院長の言葉が引っかかった。そこで間をあけず憶測通り伺う。
「院長、もしかして国定から電話がありましたか?」
「いや、わしのところには来ておらんが」
「そうですか、架かってきませんか…」
的が外れたのか視線を落とす。
「それで、糸川君。君の方の話はまだあるのか?」
「いいえ、これだけでございます」
「そうかね、じつは君に来て貰ったのは他でもない。これだ」
吉沢が一枚のメモをテーブルに置いた。
「見たまえ」
そう言われ、何ごとかと首を傾け、手に取り読み始めた。が、見る間に顔面が硬直し青白くなっていた。すると、見終えたところを見計らい、吉沢が野太い声で切り出す。
「これはどういうことかね。詳しく聞かせて貰おうか」
「…」
咄嗟に言い訳を考えているのか、直ぐに返事が返らない。
「糸川君、黙っていては分からん。どういうことだね」
「は、はい。じつは、これにはいろいろ混み入った事情がございまして。少し整理させて頂いていたところでございます」
「何だね、その混み入った事情とは。話してくれんか」
追求する口調になった。
「はっ、これは院長や病院に迷惑がかからぬようにするため、どうしても資金を捻出する必要があったもので…」
「何のために、そんなことが必要なんだ!」
「はい、私の課では、その対応が結構多くございまして、只今お話したような、取るに足りぬクレームが多く入ってきます。なかにはことを大きくされては、当院の信用に傷つくものもありまして、その対処に必要となるのです」
「また、これら以外でも、入院後患者の病状が捗々しくなく治療費請求にいちゃもんをつけ、場合によっては院長を出せと意気込む輩もおりまして、これは何としても、私のところで食い止めなければなりません。また、当方のミスの場合は穏便にすませるため詫料が必要でございます」
そこで、ここぞと加える。
「先程の国定とかいう輩などが、正当論で来た場合の対処などにも必要に応じては…」
尤もらしく添えた。
「うむ…」
院長の様子を覗うと、ずばり的中していることに気づく。それは、院長に災難が及ぶことを、極端に嫌うことだ。
更に思考を巡らせる。
ここを突けば、この難極を乗り切れるか…。
それとなく覗ると、眉間に皺が寄りこめかみが僅かに痙攣していた。ここぞとばかりに突く。
「院長にご迷惑をかけるわけには行きません。院長を出せという脅かしに、私としては身体を張ってでも阻止せねばなりません。そのために時と場合により、金品の授受が必要になるのです。会計処理上計上出来ない経費は、どうしても裏金が必要となり、そのために、今見させて頂きましたようなことをしておりました」
詫びる姿勢で訴える。
「本来であれば、きちっと院長に報告し、然るべく必要な経費として申請すれば宜しいのですが、表に出せないものもあり。ことを穏便にすませるため、止む無く独断で規律違反を犯していました」
涙目で院長を見つめ、「誠に申し訳ございませんでした」と深々と頭を下げた。
「うむ、そうか。君の言っていることは、まんざら嘘でもなさそうだ」
「決してそのようなことはございません。すべて当院のためと思い行いましたが、常に苛まれておりました。院長に迷惑が及ばぬよう、最大限防げたと自負しておりますが、裏金を作るという行為には罪悪感に責められまして、何度も院長に告白しその罪から逃れようと思ったことか。でも、その都度苦しみつつ今日まで来てしまいました…」
落とし文句だった。美化する文言である。まことしやかに、在りもしない理由を並べた。
糸川はペーパーを見せられた時、発覚するなどと思ってもみなかった。それ故、疑惑を懸命に打ち消した。その行為は、明らかに業務規定違反である。
だが、何でもかんでも上司に持ち込まれてはたまったものではない。特にクレームを持ち込まれるのは、院長自身避けたいのである。
「まあ、そう言うことであれば。空出張の件は、情状酌量の余地がありそうだ。君の言い分も分からぬわけではない。しかし、規則は規則だ。本来ならば、今の言い訳で許されることではない」
言いつつも、厳しい表情が崩れる。
「当院に甚大な損害を与えているなら、懲戒免職処分として厳しく対処しなければならんところだ」含みを持たせると、糸川が続ける。
「どうしても裏金が必要なことは事実です。だからと言って、今後につきましては、二度とこのようなことは致しません」
内心ほっとし、詫びる気持ちで返した。
院長の寛大な言葉が踊る。
「だからと言って、勝手な規律違反を金太郎飴のように処分したんでは、あまりにも冷血といわざろう得ん…」
「いいえ、病院のためとはいえ、業務規定に違反したことは事実であります。真摯に受け止め猛反省致します」
腹にもなく繕った。
「そうしてくれ」
吉沢とてこう返答したが、クレームなど己に向けられるのを絶対避けたかった。
「院長先生には、大変ご迷惑をおかけし申し訳ございませんでした。どうぞ、ご容赦のほどお願い致します」
腹内では笑い、表情は恐縮顔でテーブルに額をつけ、両手を着いて侘びた。
「それなれば君には、植草の件について責任を持って解決して貰おう。それ故、厳しい処分はせぬことにする。その代わり誓約替わりに始末書を出してくれたまえ」
「はっ、有り難うございます」
「君も我が病院のために頑張っている。今回の件は不問に付しておこう。従って、いま以上に業務に励んでくれ」
労いの言葉に変わり安堵する。
「私としても迂闊でございました。本来は身銭を切ってでも、迷惑をかけまいと思っているのですが、なにせ薄給、いえ失礼しました。なかなか思うに任せず、それで気が咎めたのですが、ルール違反をしておりました」
まことしやかに告げていた。
「ところで、糸川君。先程の国定とかいう輩は、君に任せてもよいな。くれぐれも部長と相談し対応してくれんか」
「はい、全精力を傾け応対致します」
「それじゃ、頼んだぞ」
「この度の不始末に対する名誉挽回をかけ、院長に指一本たりとも触れさせません。命がけでお守り致します。何せ、佐久間先生が植草のオペ同意書をご提出頂けることになっており、それさえあれば鬼に金棒ですから」
何時の間にか胸を張り、鼻をつんと上げていた。
「あっ、それと院長先生。お話しておくべきか迷ったのですが、湯沢企画の国定の件ですが、電話を切る前に妙なことを言っていました」
「何だね」
「あまり気にする必要はないと存じますが、一応お耳に入れておいた方が宜しいかと話をさせて頂きますが、『お前では埒があかん、院長と話しをつけるから伝えておけ。近々連絡する』と捨て台詞を吐いていました」
「な、なんだと。君、何でもっと早くそれを言わん!」
「はっ、申し訳ございません。でも、心配なさらないで下さい」
「おい、何故そんなことが言える。そ奴から電話が入ったらどうするんだ。防ぎようがないじゃないか」
「ご安心下さい。秘書部の者に充分伝えておきますので。国定なる者から院長に電話があったなら、『繋がず必ず私に連絡するように』と徹底しておきますので、ご安心下さい」
わざとらしく大袈裟に吹いた。すると吉沢が頼る。
「おお、その時は頼むぞ。いいか、絶対にわしへ繋がぬようにしてくれ」
「お任せ下さい」
「うむ…」安堵するように頷く。
すると窺がいつつ、空々しく振る舞う。
「それでは院長。植草の件について、これからその段取りを取って参りますので、失礼させて頂きます」
そう言い席を立ち、そそくさと院長室を出た。
そんな糸川のとっぽい様子に、吉沢がポツリと漏らす。
「それにしても、何となく調子のいい男だ。あんな言い訳をしおったが、どこまで本当だか。まあ、ここで灸を据えておけば、交際費の無駄遣いはなくなるだろう。
それより、国定とか言っておったが、これは嘘ではなさそうだ。これ以上新たに騒がれても厄介になる。万一俺に入らぬよう、また糸川の件も併せて業務部長に釘を刺しておくか。田沢君、後で安田君へ電話し、連絡くれるよう伝えてくれんか」
「はい、かしこまりました」
直ぐ架けようとする田沢を止める。
「おい、今直ぐでなくてよい。少し経ってから連絡してくれ。ちょっと疲れておるから」
「かしこまりました。では、後程にさせて頂きます」
受話器を元に戻した。
糸川が、ほっとした表情で精算業務課に戻る。
おお、やばかった。危うくばれるところだったぞ。それにしても、どうにか切り抜けた。くわばらくわばらだ。これからは、裏金作りも自粛せんといかんな。
つらつら考えるうち、妙に引っかかる。
それにしても、誰が入れ知恵し調べさせたのか。うちの部長か。いや違うな。まさか己の足を引っ張る奴はいない。部下の不始末は部長の責任だからな。とすると、一体誰だろうか…?
特定出来ぬまま、安堵の顔に一抹の不安が垣間見えていた。パソコン画面を見ながら再び考え始める。
しかし、参ったな。何とか繕い誤魔化したが、冷や冷やもんたぜ。なにが縮み上がったぞ。これで終わりかと一瞬覚悟したが、悪知恵というのは大したもんだ。それなりに理屈を捏ねるうち、様になっているんだから。窮鼠猫を噛むと言うか、よくも滑らかに出たもんだ。それで助かった。
それにしてもやばいぞ。少し大人しくしているか。そうだ、これから一大イベントが起きるんだ。この手で、偽オペ同意書を受け取らにゃならん。そして期末決算後に顕在化させ、院内を混乱の坩堝に落す。さすれば今回の件や己の秘密事などこのまま深く沈み、やがて泡沫になってしまうわ。
それまで自粛しよう。まったく…。それにしても、どいつだか。
気になるが、そのうちある言葉が引っ掛かってくる。
うむ、もしかすると恵理子か。この前の情事の際に、妙なことを漏らしておった。おお、それに院長室に行く寸前で相談があるとも言っていたな。でも、彼女にはそれなりに仕込んでいるし、不満はないはずだ。いや、そうとも限らん。
そうだ。あの時、植草の他に秘密を握っているとも抜かしていたし、空出張のことだって背任行為だと脅かしやがった。もしや、院長と通じているのか。あの雌猫…。
それなら、こちらもやり方があるぞ。この前だけで不十分なら集中的に甚振り、完全に陥して虜にさせるか。さすれば裏切ることもあるまい。そう、性の奴隷と化せば、逆に意のままに動くようになる。そうすれば出所が分かるし、対策も立てられよう。それが一番いい。
糸川は都合よく解釈した。
そうと決まれば、後はオペ同意書だけだ。と結論を導くと、おもむろに受話器を取る。
「もしもし、精算業務課の糸川だが、佐久間先生はいるかね」
「はい、先生は只今オペ中でございます」
「ああ、そうかね。オペは何時頃終る予定かな?」
「入ったばかりですので、何とも申し上げられませんが。この度の患者は重症患者で、相当かかるようなことをおっしゃっていらっしゃいましたが」
「そうか、それは困ったな。何時終わるか分からなければ、待つわけにもいかんな。分かった。それじゃ、明日一番で連絡くれるよう伝えてくれないか」
「かしこまりました。精算業務課の糸川課長ですね。戻りましたら、お伝えしておきます」
互いに電話を切った。受話器を置き、腕時計を見ると午後四時過ぎを指していた。
もうこんな時間か。これじゃ、今日のところは無理だな。しかし、いろいろあった。まあ、後は奴から偽物を受け取るだけだ。それにしても、とんだハプニングに見舞われたが切り抜けた。筋書きが目論見通りとなれば、今のところ出る幕はないか。
院長に釘を刺されているし、交際費は使えんな。しゃあない、業者廻りでもするか。今日のところはそれしかあるまい。金がない時は、何時もそうしているからな。こんな時、旧担当時の金づるが役立つというものよ。
ほくそえみ、そして課員に目を向ける。
「多恵君、これから年末の挨拶がてら三ツ星医療機器へ行ってくる。多分、戻れないと思うので宜しく」
「はい、かしこまりました。行先を書いておきます。廻り退社ですね、ご苦労様です」
「ああ、宜しく頼むよ」
そう告げ席を立った。
翌日、佐久間から連絡を受けたのは、午前十一時を廻った頃である。結局、朝一番の約束がこの時間になった。
糸川はむかつき、受けた電話も無愛想になる。
「糸川です…」
「ああ、糸川課長。昨日電話を貰って、連絡もせず申し訳なかった。今朝も緊急オペが入ったものだから」
「そうですか。それで例の件は、今お持ち頂けますか?」
杓子定規に告げる。
「えっ、例の件というと…」
佐久間の曖昧な返事にカチンと来る。
「何をおっしゃっているんですか。先生の立場もあろうかと期限を延ばしたんですよ。それを、そんな言い方されたんじゃ、こちらの立つ瀬がありませんよ。植草の件です!」
つっけんどんに放った。
「ああ、同意書の件か。いや、この前。課長には便宜を図って貰い感謝しています。その件はもう終わっていますよ」
思っても見ない返答が耳に入った。
「はあ?」
「ところで、院長から連絡入っていませんか?」
「ええ、何のことですか?」
糸川が訝る。
「おかしいな。昨日、院長に渡してあるのにな」
「ええっ、院長に渡した?」
佐久間の答えに戸惑った。
「はい、ですので私の方にはありません」
平然と告げられた。糸川には意外である。
「…」
思惑が外れ返す言葉がない。
「もしもし、糸川さん聞いていますか?」
「は、はい。院長に渡されたのですか…」
「いけなかったですか?」
「はい、あっ、いいえ。そんなことはありません。てっきり頂けるものと思っていたので…」
困惑気味に返した。気を使ってか、佐久間が告げる。
「私も直接渡そうと思ったのですが、院長に相談したところ。くれとのことでしたので、お渡ししました」
指示に従ったのだと言う。無論、事実ではない。隆二の拇印などとっていず、方便を続ける。
「あっ、そうだ。糸川課長に渡す際に、私も立ち合えと申されていましたから。そう言えば、課長に何時渡されるのか連絡頂いていませんでしたね」
「私の方もオペが多く、確認する時間がありませんでした。こんなところで頼み事するのも恐縮ですが、糸川さんから院長に日取りを聞いて頂けませんか。オペが立て続けに入っていますので、お願いしたいのですが」
「はあ、はい…」
曖昧な返事となる。
「何時になるか。私が電話に出られない時は、多田に伝えて貰えば結構ですから」
佐久間にそう言われ、妙な案配に慌てて問い返す。
「あ、いや。私が院長に確認するんですか?」
「ええ、そうして頂ければ有り難いんです。期末決算も近いし、書類が整わないと課長の方も困るでしょ」
「まあ、確かに。先生の言う通りですが…」
「じゃあ、お願いしますよ。すみませんね、これからオペに入らなければならないんで」
「そうですか、分かりました。それじゃ私の方で聞いてみます」
止む無く了承し受話器を置いた。こんな展開になると思っていなかった。まったくの展開である。佐久間にしてやられた格好になる。
何てこった。どうして俺が確認しなきゃならねんだ。奴が持ってくれば、こんなことにならなかったのによ。まったくつまらんことを引き受けたもんだ。
つい胸の内で愚痴がでた。
どうも想定外だな。でも、偽同意書がなけりゃ先に進まん。ここのところは、我慢の子だ。それにしても院長に渡すなんて、何を考えているんだ。奴め、何か企んでいるのと違うか。そうじゃなければ、素直に持ってくるはずだ。それを断りもなく渡すとは。佐久間め。医療業務しか頭にないと思っていたが、少々見くびったか。あの時俺のところに持ってくるよう、念を押しておけばよかった。
くそっ!。
先日の約束をぶり返し、悔しそうに嘆くが気持ちを切り替える。
だが、今となっては愚痴になるだけだ。しょうがねえ、院長に連絡して貰いに行くか。
そう思いつつ、糸川が時計を見る。
ううん、昼前か。それじゃ、飯でも食ってからにしよう。急いたところで、院長の手元にあるんだ。考えてみりゃ、回収できたも同然だ。ここは焦ることもあるまい。
すでに自分の手にある心持ちになっていた。
「さて、今日の昼飯は何にするか…。たまには、美味い寿司でも食いに行くか」
十二時前であったが、そそくさと席を立った。
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