第八章結末一

「あの、安田ですが…」

院長室に来て低姿勢で告げ、何事かと緊張した面持ちで覗う。

「何だ、わざわざ来んてもいいのに」

「いいえ、電話では何ですので、直接お伺いしました」

「そうか、それはご苦労。まあ、そんなところに立っていないで座りたまえ」

吉沢が促した。安田は腰をかがめ神妙な顔で座る。その額の襞が僅かに痙攣していた。

「大した用件じゃないが、ちょっと調べて貰いたいことがあってね」

「は、はい。何でございましょうか?」

「じつはな、君のところの糸川君のことだが」

「えっ、糸川が。何か不始末でも致しましたでしょうか!」

驚きと、監督責任からか不安の色が滲む声だった。

「まあな。先程注意しておいたが、君は彼が使っている交際費を、きちっとチェックしているのかね。おかしな切り方しているぞ」

すると、上ずる声で問う。

「は、はい。日ごと提出される支払明細書の検印をしておりますが、何かありましたでしょうか?」

「解らんかね。精算業務課の課長としては、ちょっと使い方が荒いんじゃないか。君はどう思うかね?」

「確かに頻繁に出して来ますので、ご指摘の通り私も注意しようと思ってはいたのですが…」

「そうかね。それにだ、業務部では出張は結構あるのかね。わしの見るところ、そんなにはないと思うんだが」

「その通りでして。年に二、三度あれば多い方かと存じますが。私とて、精々一、二回のものでございますから」

「そうだろうな。糸川君は遥かにオーバーしているが、どんな内容の出張かね」

安田はうろたえた。そんな質問が出るとは思っていなかった。

「ええと、あの、私と致しましても一、二回程度でして…」

返事に窮し、曖昧になる。

「その件につきましては…、すみません。あいにく資料の持ち合わせがございませんで、正確には…」

「ううん?君、そんなことも解らんのか!」

「は、はい。申し訳ございません。その件につきましては、後程詳しく調べましてご報告させて頂きます…」

顔を引き攣らせ詫びた。

「そうかね。まあ、そんなに急がんが報告してくれたまえ」

吉沢が仏頂面で指示した。

「かしこまりました」

両手をテーブルにつけ深々と頭を下げた。恐縮する部長に注意を促す。

「君も忙しいと思うが、業務部を取り仕切る身だ。もう少し部下の行動を把握せんといかんな。結構、派手にやっているぞ」

「誠、誠に申し訳ございません…」

謝るばかりで、それ以上応えられない。

吉沢に見透かされ平身低頭するが、それでも己の保身を図ってか、弱声で尋ねる。

「あの…、糸川が何かやましいことでも致しましたでしょうか。目が届かなく、ご迷惑をかけているようなことがあらば、私目の監督不行き届きとなります。申し上げづらいのですが、率直にどのようなことかお教え願いませんでしょうか…」

「それは君が調べれば分かるだろう?」

「は、はい。申し訳ございません」

「いずれにしても、直ぐにどうということではない。よく調べてみたまえ」

「はっ、申し訳ございません。本来私がなすべきことを、院長自らお手を汚させてしまい誠に申し訳なく思っております。早速戻りまして、究明する所存でございます」

言い訳地味た決意を誓う。

「それはいいが。安田君、この件はまだ不透明なところがある。本人もいろいろ釈明していたこともあり、以後謹むように注意しておいた。不問に付すと伝えてあるから、その点を踏まえて確認してくれんか」

「分かりました。ご迷惑をおかけし申し訳ございません」

「あっ、それとな。糸川君には、まだわしから聞いたことを喋べらん方がいい。微妙なものがあるから。それと、これをきっかけに業務部全員の行動をチェックしてみてはどうだ。いい機会じゃないか」

吉沢の温情に感謝し、礼を述べる。

「有り難うございます。早速戻りまして、そのようにさせて頂きます。院長、ご多忙中いろいろご迷惑をお掛けし、私自身不徳の致すところでございます。誠に申し訳ございませんでした。今後におきましては、細心の注意を払い業務に励む所存でござます。何とぞ、ご指導下さいますよう重ねてお願い申し上げます」

ソファーから立ち直立不動の姿勢で述べ、深々と頭を下げた。

その頃院長室で、安田がそんな羽目になっているとは露知らず、糸川はゆっくりと昼飯を食い、喫茶店でお茶を飲んだ後自席へ戻った。

午後二時近くである。

おもむろに受話器を取り、院長室の内線ボタンを押すが話し中だった。思わず緊張の糸が緩む。と言うより、何故かほっとした。受話器を戻す。

「電話中か…」

妙に喉が渇いていた。湯飲みを取るが空である。ついと顔を上げ、近藤多恵に所望する。

「多恵君、すまんが。お茶を一杯入れてくれないか」

「はい、かしこまりました」

湯飲みを預かり、いそいそと炊事場へ行き、入れ立てのお茶を持ってきた。

「どうぞ、課長」

「すまないね」

「どう致しまして…」

席へ戻る際に、そっと尻を撫でてやると鼻を鳴らす。一口ふくむ。熱いお茶が気持ちを和らげた。

「有り難うね、多恵君。ちょうどいい湯加減で美味しいよ」

「そうですか、わざわざお礼を頂かなくても…」

悦びの笑みを浮かべた。

糸川が再び院長室へ電話するが、話し中である。

またか…。しゃあない、暫らくしてから架け直そう。気持ちを切り換え、係長に尋ねる。

「玉山君、決算書類の纏めの方は完了したかね」

「は、はい。一応完了しておりますが、一件だけ未整備の案件がございまして…」

「その件は知している。それ以外は大丈夫だろうな」

「はい、すべて整っております」

元気よく応えるが、席から離れず課長に近寄ろうとしなかった。そんな様子など気にせず呟く。

「そうか、後は例の件だけか…」

糸川の独り言に、応じる者はいない。

「それじゃ、玉山君。揃っている書類を持ってきてくれ。検印しておくから」

「承知しました。直ぐにお持ちします」

待っていると、糸川の携帯電話が鳴った。開くと佳織からのメールである。

「今晩会いたいの。いいでしょ」

それだけ書かれていた。目を通し、ポケットに捻じ込む。

「あの…、課長。こちらが揃っている書類ですが」

玉山が緊張気味に出した。

「そこに置いてくれ」

「はい」

決裁箱に入れ、目礼し下がった。経過報告書を手に取り点検し出す。二つほど見たところで、ぽつりと漏らす。

「トイレに行って、うがいでもしてこようかな。どうも喉がいがらっぽい。風邪でも引いたらまずいしよ」

わざとらしく咳きをし席を立った。勿論、頭にあるのは佳織との事だ。単に返信メールを打つ口実である。直に澄まし顔で戻り、咳払いを一つして、再び書類に目を通し始めるが何か気になるのか、しきりに身体を動かし集中できずにいた。

一通り検印が終わり、ふと目を上げ周りを見廻すと、佳織と視線が合った。思わず外し苦笑する。

そして、おもむろに受話器を取り再び院長室へ架けるが、またもや話し中だった。

「ううん、どういうことだ。何度架けても繋がらん…」

少々不愉快になり、雑に受話器を戻した。

その時である。置いたばかりの電話機が鳴った。咄嗟に、以心伝心したかと直感する。

「はい、糸川ですが!」

元気よく出た。

「糸川君か、総務の村川だ」

院長ではなかった。

「あっ、村川部長ですか。何か御用でございますか?」

「ああ、至急院長室へ来てくれ!」

「はあ、総務部ではないのですか?」

「そうだ。私も同席する」

「はあ、はい。それでは直ちに参ります」

村川が切るのを確認し、受話器を戻しふと考える。

総務部長が院長室に来いと言うが、はて何だろう。それも部長が同席すると言う。何ごとだろうか、分からんな。

いや、待てよ。この前の件か…。まさかあの件なら、先日あれだけこっぴどく院長にやられたんだ。そうか、今度は総務部長同席でお説教かよ。参ったな。でも仕方ねえか。まあ、先日釈明したように、また詫びのついでに繕えばいいか。それですむなら、案外気楽なもんだ。

いや、そうじゃないな。うっかりしたが、そうだオペ同意書の件だ。こんな重要なことを見落とすなんて、俺もどうかしているぜ。そうか、これは事が重大だから。院長も慎重になり、何かあった時のことを考え総務部長を同席させる魂胆か。そりゃそうだ。佐久間の偽同意書を、精算業務課に差し出すんだ。院長とて己に災難が及ばぬよう、いざとなったら同席者におっ被せるつもりか。しかし、思った以上に慎重と言うか狡賢いよな…。

まあ、いいか。あれだけ院長を脅かしたんだ。それくらいの保身を図ってもよ。

うむ、そうとなれば。いよいよ筋書き通りの展開も、最終章に入ったことになる。これは願ってもないことだ。これで、秘め事もうやむやに出来る。…となれば、決算後が楽しみだわい。いや、病院としてはそんな悠長なことは言ってられなくなる。偽同意書が露見したら、佐久間の名声が地に落ち、それこそ蜂の巣を突ついた騒ぎになるからな。

そうか、それに国定のこともあるし、それで臆病風吹かし総務部長に相談していたんだ。村川さんとて寝耳に水だ。えらいこっちゃと院長共々慌てふためき、電話で喧々諤々やりあった挙句、頼りになる俺が呼ばれるということか。通りで、繋がらなかったのもそのせいだ。まあ、これですべて思惑通りにいくと言うもんだ…。

糸川は勝手に都合よく解釈した。そして近藤多恵に告げる。

「多恵君、ちょっとこれから院長室へ行ってくる」

言い残し、空出張のお小言などすっかり忘れ、意気揚々と席を立った。



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